5-22(148) 家出る (宣言)
ミーちんのアパートのドアを開けると、夜風が玄関から部屋の方へ吹き込んでくる。
まだ、夜は寒いな。
時刻は午前〇時過ぎ。さすがにこの時間になると、いかにケルンの街とはいえ街灯のほかは数えるほどしか明かりが見られなくなる。こうなるとどこかの路地端で辻斬りしようと、見咎めるのは犬猫くらいのものだ。幸い月が出ているので、足元まで暗闇の底というわけではなかった。ケルンの街から離れ、振り返ると、月明かりで少し白んだ夜空の下に、四角い家屋群の黒い影が横たわっている。周りには田畑が広がり、視界の先には山の影。
その晩、ミーちんとはなにもしなかった。そういう気分じゃなくなったんだ。一月前、僕たちの行為に嗚咽し嘔吐までしたキャシーが、いまは客を取っているという。目撃したのが僕とミーちんのだったから、というのもあろうが、それほど嫌悪していた行為を、あの晩からそう間も置かずに受け入れられるなんて。昼間にミーちんが話していたその事実がずっと頭に引っ掛かっていて、あれからずっと悶々としていたんだ。時折り、ミーちんにキャシーの面影が重なることもあった。結局、キャシーがなんの感慨もなくどこぞの旦那に抱かれているのと同じように、ミーちんも僕に抱かれたんだろう? 一度でもそんな考えが浮かんでくると、もうそれが頭から離れなくなっちゃってね。彼女に触れることさえできなくなってしまったよ。なんだかミーちんとの間の距離が一気に開いたみたいだった。これまでの付き合いの土台の上にいまの二人があるのではなく、昨日、今日、金で結ばれただけの、行きずりの男と商売女という関係だったに過ぎない。
だから彼女のアパートでは、少しお酒を飲みながら話す程度に留まり、ちょっと体調が悪いみたいだと言い訳して逃げ出したってわけ。もちろん、お金は渡した。要らないと言われたが、本来なら彼女が客を見つけるための時間を僕に割いてもらったのだから、払わないわけにはいかなかった。
なんだか心にぽっかりと穴が開いて、そこを乾いた風が吹き抜けていくようだった。なんだったんだろ? ホント、なんなんだろ? 僕は一体、なにをしているんだ? もしあの晩、ミーちんに導いてもらうんじゃなく、キャシーとともに一緒に苦心しながら新しい道を探す方を選んでいたなら、なにか違っていただろうか? いやいや、まさか。逆だ、逆だ。いまの僕の唯一の救いは、あの晩、キャシーを選ばなかったことだ。もし、キャシーを抱いていたら、もっと後味の悪いことになっていただろう。とはいえ、いまも十分、これ以上にないってほど惨めな気分なんだが。
途中からは、心に重く圧し掛かる感情を一旦全部打ち捨てて、とにかく一歩また一歩と足元だけを見つめながら、なにも考えずに歩いた。
しばらく歩くと、バタピー工場と家が見えてきた。家の窓に灯の明かりが映っている。
まだ誰か起きてるのか?
玄関も施錠されていない。そっとドアを開けて家の中に入ると、リビングに母の姿があった。「まだ起きてたんだ?」と尋ねると、「あんたがなかなか帰ってこないから待ってたんじゃない」と母。遅くなるとも伝えずに家を出たから、心配させてしまったか。弟の誘拐事件から一ヶ月以上になるが、たったそれだけの時間で忘れられるものではないし。「ご飯はもう済ませたんでしょ?」の問いに、「ああ、済ませた」と返事する。もし済ませていないと答えれば、おそらく母はなにか拵えるつもりだったのだろう。
「でも、ちょっと小腹がすいているから、酒のつまみになるようなものってあったっけ?」
せっかく待ってくれていたのだからと、良いか悪いか判断しかねたが、とりあえず母に尋ねてみた。面倒臭がって適当に返事してくれてもいいし、当人の気が済むようにしてほしいと思った。ただ、面倒臭がりながらもなにかを用意してくれるようだったら、ちょっと失敗したかなとも思うが。
「魚の酢漬けがあるよ。」
あ、あるんだ。
「ああ、それでいいや。」
「いま持ってくるからね。」
夜更けなのに意外と元気な母。眠たくはないんだろうか? 本当なら物の所在だけ確認すればあとは自分で用意しようと思っていたのだが、率先して動いてくている。僕は母のお尻を追っかけて台所までついていくと、棚から自家製の黒すぐり酒を取り出した。
「もしまだ寝なくて大丈夫だったらさ、一緒に飲まない?」
魚の酢漬けを取り出している母の背中に声をかける。
「おおッ? じゃあ、少しだけ付き合おっか。だけどもう夜遅いんだからあんたも少し飲んだらすぐ寝るんよ?」
そう言うと母は魚の酢漬けを載せた皿を持って、トコトコとリビングへ姿を消した。僕は二つグラスを持って、そのあとを追う。
食卓の上に黒すぐり酒、魚の酢漬けとチーズが並ぶ。母がコルクを抜き、僕のグラスに酒を注ぐ。僕は母から瓶を取り上げ、遠慮する母のグラスにワインを注ぎ返す。こうして僕と酒が飲めるなんて思わなかったと母は嬉しそうに言う。なんにも悲しいことなんてないのに、僕が病に伏せっていたときのことを思い出したのか、母は笑いながらも目に涙を浮かべていた。弟がちょっと道を踏み外しそうになったこともあったが、僕がしっかりと家業を継ぎ、弟共々これからの家族を牽引してくれれば、なにもかも上手くいくはずだ、と母。弟と協力して、というのは僕には思いつかなかった構想だった。母の考えた生活が果たして成り立つのか、それともただ僕が弟のことを侮りすぎているのか、判らない。だが、もう決めたことだ。ちょうどいい機会だと思い、僕はこの町を出ていく旨を母に告げた。なんでぇ? と母は険しい表情を隠さない。僕は、病で三年間も家に閉じ籠ったおかげで、この町やみんなと距離ができてしまったように感じていることを説明した。できれば誰も知り合いのいない土地で再スタートを切りたい、と。話をするうちに母も観念したのか、どこへ行くつもりなのかと尋ねてきた。まだよくは考えていなかったが、ふと思いついて、母の故郷にでも行ってみようと思う、と答えた。ああ、あそこはいい所だ、と母。じゃあ、出立の前に一緒に下宿先を探しに行こうと母が提案してきたので、僕はそれを承諾した。話が落ち着いたところで、「父さんにもちゃんと話しなさいよ?」と念を押して、母はリビングを出ていった。
僕のグラスにはまだ琥珀色の液体が半分ほど残っていた。誰かとならまだしも、さすがに一人で飲もうなんて気になれないから、グラスの残り分は捨ててしまった。
翌晩、夕食を済ませ、父がリビングでウイスキーを飲みながら新聞を読んでいる。一方、僕は同じテーブルに着いて、ひたすらピーナッツの皮を剝いている。
「父さん。」
父に声をかける。
「あ?」
バサっと父が新聞紙を折って、僕の方へ顔を見せる。
「ちょっと話があるんだけど。」
「なんだ?」
そう返事しながら、また顔を新聞紙で隠す父。ああ、いいさ。僕の話は片手間で聞いてな。
「僕、もうそろそろこの家を出るから。」
そう告げると同時に、ブーッとなにかを噴き出す音がして、新聞紙が音を立ててわずかに揺れた。
「ダニー、お前もか?」
父がテーブルに置いた新聞紙が濡れていた。はッ、ビックリして噴き出したんだな。盾になってくれてありがとう、新聞紙。それにしても、“ も ”ってなんだよ?
「待ってろ、いまお守りをやるから。」
そう言うが早いか、父は紙片になにやら書き始めた。まもなくその紙片を小さく折り畳んで、「ほら、これを肌身離さず持ってろ」と寄越してくる。広げてみると、“ 経営難のウイリアムのバターピーナッツ工場……金庫の中にはお金じゃなくて落花生が詰まっている!? ” と書かれていた。なんだ、これ?
「父さん。」
「安心しろ、経営に問題はない。あくまでそれはお守りだからな。それがあれば、例え家族が離ればなれになったとしても、心までバラバラになることはない。」
ああ、弟の誘拐事件のときの教訓を活かして、ウチに金はないと、未来の犯人に事前に告知しているわけか。当時はウチの資産ほぼ全額を要求されて、途方に暮れたからな……って、なにを考えてんだ?
「父さん、誘拐のことを心配してるんだろうけど、僕はスティーブのように家出するわけじゃないからね? ふつうにこの家を出て、余所で独り立ちしようと思ってるだけだから。」
呆れながらも説明すると、父も得心したようだった。
「まあ、いま時分のことだから、ポポロ市といっても、汽車使えばチョロの間だしな。今生の別れということはない。」
そう言って儚げな笑みを浮かべる父。ウチの家族はこの土地とセットだからな。僕の我儘で一家で引っ越しなんて無理だし。おそらくこの町のほとんどの人が、マビ町を離れることはできても、ケルン市からも出ようだなんて思わないだろう。
僕はほかの人とはちょっと変わっているようだ。いや、仙道になってるというのを差し引いてもな。




