5-18(144) 変わった
仙人の泉を訪れて数日経つと、徐々に身体が変化してゆくのが判るようになった。仙道になったからだと思うが、心臓が鼓動するように、血管が脈打つように、新たなエネルギーが身体の内を駆け巡っている感覚がある。拳骨を作って、力を入れて握りしめてみる。入れれば入れるほどどこまでも力が入る。まるでこれまでの本気が本気でなかったかのような、言うなれば本気のさらに先に続く道が開通したという感じ。今度は手を軽く握り、空を切る如くジャブを打ってみると、我ながら感心するほど速く打てる。
おおおッ、なんだこれッ?
僕はついに人間でなくなってしまった?
一瞬、目の前が真っ暗になった。焦燥感が押し寄せて、大小様々、とりとめのない不安が溢れ出てくる。
ふつうの人じゃなくなって大丈夫か? 家族にはなんて説明しよう? 病院に行ったときに変なことにならないか? 病気は人と同じ種類のものに罹るのか? 僕はこれからも人間然としていられるのか?
テーブルの上にあった硬貨を指で挟んで力を込めると、硬貨がグニャリと潰れる。こんなの人間にできる芸当じゃないッ。胡桃割り人形以上の怪力じゃないかッ。化物ッ、化物だッ。僕は化物になっちまったッ。
その晩、お酒を引っ提げて生物学的に僕と同種であろうジークさんを訪ねた。奥さんの案内によりリビングに通されて、ジークさんに挨拶する。
「どうも、この度はおめでとうございます。というわけで、一緒に飲みませんか?」
僕も今日からジークさんの仲間だよ。
「え、なにがあったんだ?」
ジークさん、見当が付かないみたい。ま、急におめでとうと言われても判りっこないよな。
「またまた、とぼけちゃってぇ。」
僕は不躾にジークさんの肩に腕を回した。
「仲間が増えたんじゃないですか。」
奥さんに聴こえないように、耳元で囁く。
「仲間?」
ジークさんも声を抑えている。
「そう、正真正銘のね。僕もついに化物になっちまいましたよ。」
「なるほど、そういうことか。」
そこでジークさんの声のトーンが元に戻る。僕も声を大にして「ね? おめでたいでしょ?」と微笑んだ。
それから場所をジークさんの部屋に移して、二人で飲んだ。酒を注ぎ合い、小さく「乾杯」とグラスを持ち上げ、僕は静かに二杯空けた。
「で、いまどんな気分だい?」
ジークさんの人をからかうような意地悪な笑顔。
「うん、最ッ高の気分だよ。三年間を棒に振ったけどようやく元気になれてさ、不安はあったけど周りのみんなは僕の想像以上に優しくて、スティーブの件ではいろいろ苦い思いもしたけれどもね、でも、良いも悪いも、全部これからだって思ってたんだよ。ふつうに暮らしていけると思ってたんだ。それがいきなり仙道……仙道だよ? 人間離れしちまって……へへ、おかげでもう食うには困らないっていう。“万国ビックリ人間ショウ”でも催行しながら、ジプシーするだけでみんな喜んでくれるだろうさ。うん、そうやってエルメスを流れ渡るのも悪くないな。想像するだけでワクワクするね。」
脳裏にキャシーの言葉が過ぎった。僕はどこの街へ行ったって、受け入れられない、か。もう人じゃなくなっちまったから、その言葉も少し真実味を帯びてきたぜ。満足かい? キャシー。
「もう酔ったか? お酒は好きじゃない?」
「うん、あまりね。スティーブはこれが大好きみたいだけど。ダメな兄貴だよ。」
「ダメじゃないさ。酒にもいろいろある。ダニーはこれからイイ酒を覚えていけばいい。心が温まる、愉快な酒をな。」
もう弟やカルロスに勧められていろんな酒に手を付けてるんだけどな。
「大体気分が悪くなるんだけど。」
「じきに慣れるさ。」
お酒の話題に触れてからというもの、無暗に優しい雰囲気を醸し出すジークさん。意地悪な笑顔の仮面を剥がすと、仮面の裏には真面目なジークさんが隠れてたっていう。
「ああ、嘘、嘘だ。すいません、嘘吐きました。」
「嘘?」
ジークさんは僕の唯一の理解者になりえる存在だ。彼に対して嘘や誤魔化しで逃げるなんて、孤独と手を取り合って奈落への階段を下りてゆくようなもんだ。僕にとっては彼だけ、彼にとっては僕だけじゃないか。彼にだけは真摯な態度で臨まなくてはならない。
「身体が変わっちまったのはショックだけどさ、元々ふつうに暮らせるアテなんてなかったんだよ。さっきのはただのうわ言さ。」
ふう、とジークさんが息を吐く。
「確かに仙道になると人間離れした力が身に付くが、ふつうに暮らせないわけじゃない。現に、オレはいままでふつうに暮らしてきた。こないだ、材木置き場で仙道としての能力を利用したが、いまのところその一回切りだな。ああ、あと、仕事でちょっと楽させてもらってるかな。いままでと同じ金を稼げてるのに、いままでより全然キツくないっていうね。そんなだから、仙道ってのも考えようによっちゃイイもんよ。」
「ふん、せっかく力があるのに、稼いでる額が同じってのが泣けるね。」
「ああ、泣けるだろ?」
「ジークさんは仙道の力を利用してもっとなんかしようとか思わないの?」
「思わないってか、なにも変えたくないんだ。」
「変えたくない、とは?」
「前、ダニーんチで話をしたときに、強くなりたいかって聞いたら、安易に強くなるわけにもいかないって言ったろ? アレはなんでだ?」
なんでそんなこと聞くんだろう?
「え? くだらない理由だよ。強くなると、我を通すのに無暗に喧嘩を売っちゃうとか、あるかもしれないじゃない? いや、あると思います。つまり、手の付けようがない我儘ちゃんになることが懸念されるわけだよ。」
「ふん、オレもそれと似たような理由さ。」
「と、いうと?」
「いまが十分幸せだから、わざわざ変えなくたっていいってことさ。お金で生活は潤うかもしれないが、人の心まで潤うかどうか判らない。オレ自身は大丈夫でも、ウチの嫁さんは金で心を変えてしまうかもしれない。ふふ、お金持ちになったことないから判らないがね。ま、なろうとも思わないが。」
「欲がないというか、立派というか。」
「欲はあるけど、いろいろ手に入れてるから満足してるだけさ。家に嫁さんに子供に温かい家庭、そして今日は……レアな仲間も増えたしな。おお、こう考えると、確かに今日はオレ、おめでとうかもッ?」
「そうだよ。今日はめでたい日なんだ。最初は冗談で言ったんだけど、案外冗談ばかりでもなかったね。」
ジークさんがいてくれたおかげで、仙道になったことも前向きに捉えられそうだ。
それから話題はリヴィエ一家の動向へと移る。ジークさんたちは場所を選びながら、できるだけ騒ぎにならないかたちで暗殺をしていて、すでに三人やっつけているらしい。攻勢はまずまずだが、守りでは最近、ウチの周りに怪しい奴を見かけるのでこれからが心配だ。家の周りをウロウロしていて怪しいからといって、手を出すわけにもいかないし。口出ししたところで正直に答えてくれるわけもない。そんな話をすると、ジークさんはお姉さんとともに怪しい奴の素性を探ると言い出した。
受けるのは家族のこともあるからどうにもマズい。攻めて攻めて、できるだけ衝突を避ける。なにしろ仙道といっても、撃たれたら死ぬらしいぜ? 攻めに秀でていても、守りとなるとてんでダメ。仙八宝だってそのほとんどが武器らしいから、仙道ってのも実は好戦的な人種なのだろう。僕の仙八宝はまだ形になっていないが、どんな武器になるのか楽しみだ。怪しい奴らの目的が白日の下に晒された暁には、そいつら全部僕の仙八宝の錆にしてやる。そもそも僕の弟の家出に端を発してるから、ジークさんばかりに負担をかけるわけにはいかない。なに別に戦おうってわけじゃないんだ。ウチに徒為す奴は静かに死んでくれればそれでいい。




