第2話②
さらりとした千十世の言説に、繁雄は思わず絶句した。北村さんは、痛々しげに口を結んで俯いている。善良な北村さんには、胃の痛くなる話だったが、自身が被害を受けている以上否定することは出来なかった。
「悪いことをするっていう背徳感は、時に何事にも替え難い快感に変わるからね」
千十世は鼻歌でも口ずさむように続ける。
「犯した罪が実際に自分の後の人生にどんな重さを以て影響を与えるか、実感に乏しい子どもがついつい万引きしちゃって、成功して、だんだんクセになる―まぁ、想像に難くないよね。おまけに、そのゲームをクリアすればタダで欲しいものだって手に入る。でもお小遣いに困らない金持ちの子どもだってやるっていうから、やっぱり行為そのものを楽しむ側面が強いんじゃないかな。店の―大人の監視を掻い潜る、そのスリルに立ち向かう俺カッコいい☆ みたいな」
「ちょ、ちょっと待て…!」
頭を抱えながら、繁雄は流暢な千十世の推論を制止する。
ごく一般的な倫理観と常識を持つ繁雄からすれば、千十世の話は筋が通っているように聞こえるものの、やはり不可解以外の何物でもなかった。
「そんな、そんなことって…ありえへん、やろ? そんなん…人のもん勝手に盗むなんて、やったらあかんラインめっちゃ通り越してるって、普通、わかるもんやないか」
「そうだよ、シゲ」
ごく平静に、千十世は答えた。
「君も僕も、普通にわかる。万引きをしない他の多くの子どもだって、わかってる。それがいけないことだって」
「せやろ? やのに―」
「大人がな、悪いんよ」
それまで口を噤んでいた北村さんが、自嘲気味に呟いた。
「今の大人はな、ちゃんと叱ってやれんのや。何がよくて、何が悪いんか―だから、わからんのやろうなぁ。まぁ、万引きに気づかんで見過ごしてもうた僕も、同罪や」
そう言って力なく笑う北村さんを見て、繁雄は何も言えなくなった。北村さんに、そんなことを言わせた自分が不甲斐なく、恥ずかしかった。どんな失敗をやらかしても優しく励まし、見守ってくれる―そんな北村さんのような大人がいてくれたから自分はやってこれたのだと、繁雄はわかっていた。そんな北村さんが自身のことを悪いというなんて、それ自体が間違っていると強く思ったが―どうすれば事態を打開できるのか、残念ながら繁雄には皆目見当もつかない。
「まぁ要は」千十世が全く深刻そうでない溜め息を吐きながら言った。「万引きに対する抑止力の喪失が問題なんだよねぇ。代替品が必要ってことなんだけど…どうしよっかなぁ」
呑気に千十世がうーんと唸って、会話が途切れた。気まずい沈黙が店内を支配し始めた、その時―
ズシャアッ!
と、店のすぐ外で誰かが盛大にずっこけた。
「…なずか」「なっちゃんだね」「なずなちゃんかぁ」
店内の三人が口を揃えて言うや否や、そのずっこけた本人が、弱々しく戸を開いた。
「こ、こんにちわぁ」
「大丈夫か、なず。膝すりむいてへんか」
「う、うん! へぇき…」
繁雄、千十世の幼馴染で、ふとしたはずみですぐズッコケることで有名ななずなが、ずれた眼鏡を直しながら気恥ずかしそうに俯いて店に入ってきた。なずなの高校も勿論休みであるので、今日は私服で、しかもよそ行きの格好だった。おめかしして着た薄いピンクのカーデガンと白のフレアスカートが、こけたせいで見事に汚れているのに気付き、あたふたとはたいて見せる。そして姿勢をきちんと正してから、何かをうかがうように繁雄の方をちらりと見たが、
「んで、今日はどないしたんや?」
そんななずなの視線の意味など全く気付かない繁雄は、何の気なしにそう言った。
「え、えっと、んっとな」なずなはそう訊かれることなどまるで考えていなかったようで、目をせわしなくキョロキョロさせた。「えっと、うち今から友達と出掛けんねんけど、帰りにまた寄るから、うどん三玉用意しといてくれへんかな?」
「ああ、なんや。お使いかいな、了解」
なずなの奇妙な素振りを全くスルーして繁雄は無邪気に笑った。それにポン、と湯気が出そうな勢いで顔を赤くしたなずなは口を小さくパクパクさせていたが、そのポケットから〝ぽぃんぽぃん〟と気の抜けるような音がして、あたふたとその中身を取り出した。
「あれ、なっちゃんもとうとうスマホにしたんだ」
ニヤニヤと意地悪く二人の様子をうかがっていた千十世が、そこで声をかけた。そこでようやく千十世と北村さんに気づいたなずなは、慌てて挨拶してから返事する。
「そうなんよ。友達もみんなTMITTERやってて、うちだけ連絡取りづらいの申し訳ないから…」
「ああ、TMITTERってスマートフォンでメッセージやり取りするアプリやろ? 若い子はみんなやってるらしいなぁ」
「えへへ、うちはあんま使いこなせてないんですけどね」
北村さんの言葉に苦笑いするなずなだったが、画面を確認すると「わっ!」と小さな悲鳴を上げた。
「友達、もう着いてる! うち行くわ、騒がしくしてごめんな~!」
「おい、コケんよう気ぃつけろや!」
繁雄の言葉にうなずきながら、バタバタとなずなが出て行った。ピシャン、と戸が閉じてからきっかり三秒後に千十世が、はあああああぁ、と、これ見よがしな溜め息を吐いた。
「なっちゃんも大変だなぁ…出かける前にお出かけ用のとっておきの服見てもらおうってわざわざ立ち寄ったのに…」
「ハ? 何の話や?」
怪訝そうに訊ねる繁雄をよそに、「これだもんなぁ……っぷ」と呟いてから千十世は思いっきり顔を反らした。口に手を当ててはいるものの盛大に肩が上下しているので、馬鹿笑いしているのは全くもって隠せていない。
「…なんやようわからんがバカにされてんのはわかってんねんからな?」
「やだなぁ、そんなつもりじゃ…あ」
「なんやねん、謝っても許さんぞ」
急に動きを止めた千十世に、制裁の右手チョップを準備していた繁雄は噛みつく。だがその言葉も千十世の耳に入らず、しばらくした後、
「いいこと思いついた」
潰して遊ぶための昆虫を大量に捕えたような満面の笑顔で、そう言った。
◇◆◇
商店街の外れにあるその小さな公園は、普段あまり人が寄りつかない。
八奈結び商店街の中でもシャッターで閉ざされた店が多く客の流れがないことに加え、この夏、和希と美也、
それになずなが変質者に遭遇したことが決定打となり、子どものいる家庭では近づかないようきつく注意されていた。
午前十時、八奈結び商店街では徐々に人通りが増えてきた頃だったが、その公園はざわめきから遠く、蝉の泣き声ばかりがしきりに響いた。そこに、六台の自転車がキキッ、と音を立てて停まった。
乗っているのはいずれも、小学校高学年になろうかという男児である。何人かが、無頓着に服の袖やらまくり上げたシャツやらで滴り落ちる汗を拭っている。それなりの距離を自転車で走ってきたのが伺えた。
「なぁ、今日どないするん?」
いがぐり頭の少年が、野球帽の少年に話しかけた。その声は潜められながらも、興奮を抑えられない様子だった。
「俺、カードほしー」
「この前の漫画の続き読みたいわ」
少年たちは口々に自分の希望を述べた。野球帽はニヤニヤしながらそれを聞いていたが、自転車を降りてその傍に立ち尽くしている人一倍気弱そうな少年に視線を向けた。
「高橋が決めぇや。今日はお前のデビュー戦やん?」
野球帽がそういうと、高橋と呼ばれた少年はビクついた。自転車のハンドルを固く握りしめている。
「ぼ、僕は…その……」
高橋少年の額から汗が一筋流れ落ちる。その汗が暑さからのものだけでないことを、青ざめた顔が物語っている。
しばらく、少年たちの間から会話が途絶えた。取り巻く蝉の合唱がただただ重たくのしかかり、高橋少年の身体は潰れそうなまでに縮こまっていた。
野球帽は高橋の返答を待ってはいたが、やがて痺れを切らしたように彼の方にツカツカ歩いて行った。そして力任せに高橋少年の襟首を掴む。小さな悲鳴が、高橋少年の口の中で辛うじて噛み殺された。
「なんや。お前まだやりたないとか言うんちゃうやろな」
「そ、それは……」
「そないノリ悪いこと言うなや……ほら」
野球帽は歪な笑いを浮かべながら、左手でズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。画面上をその指が素早く滑ると、一枚の写真が表示された。
「俺ら友達やろ? いつもチームでやってきたやんか…な?」
野球帽はスマートフォンをありありと高橋少年に突き付けた。
それはいがぐり頭が店の棚から商品を持ち出そうとしているその瞬間を撮った写真で―いがぐり頭を背で庇い見えないようにしている、高橋少年の姿もあった。
「ホンマよぉ撮れてるよなぁ、これ! お前の母ちゃんにも見てもらう? 俺らめっちゃ仲いいですよー言うて!」
「や、やめてや! それだけは…グェっ!」
高橋少年は半ば泣きそうになりながら抗議したが、その声を濁らせた。野球帽がいつの間にかスマートフォンをしまったその右手で拳を握り―高橋少年の鳩尾を、勢いよく打ったのだった。
野球帽が襟首を掴んでいた手を放すと、高橋少年は腹を抱えて力なく蹲った。くぐもった嗚咽を漏らす彼を、冷酷な眼差しで野球帽は見下し再度問う。
「じゃあどないすんねん」
野球帽がそう言うと同時に、周囲の蝉が一斉に泣き止んだ。
高橋少年は自分の喉がごくりとなる音を克明に聞いた。
「……ほしたら、あの文房具屋で………」
そのか細い声を塗り潰すかのように、また蝉達ががなり立ててくる。
◇◆◇
野球帽の指図の元、少年達は二手に分かれた。
それぞれ別の入り口から商店街に入っていく。高橋少年が指定した文房具屋には、一直線に向かわない。高橋少年と同じ班に自ら入った野球帽に至っては、小東さんの駄菓子屋でかき氷を注文する余裕を見せた。
一般の買い物客に紛れて如何にも遊びに来た風を装う少年たちは、約束の時間になったことを確認すると、不自然にならないように文房具屋に足を向けた。野球帽と高橋少年達はもう一方のグループが既に入っていることを確認すると、手動のガラス戸を静かに開けて自分たちも入っていく。
もう中にいた仲間たちはそれに気づくと、カウンターで帳簿に書き物をしている北村さんにわざと大きな声で話しかけに行った。
「なーなーおっちゃん! ヴァンガラッシュマンのカード置いてへんのー?!」
「ん? 何のカードやって?」
北村さんはしばらくしてから手を止め、少年達の方を見た。
「やから、ヴァンガラッシュマン! 新しいのこの前出たやん?」
「あーごめんなぁ。うちにはあんま流行りもん置いてへんねや」
「えー!! うっそォ!」
申し訳なさそうに謝る北村さんに対し、少年たちはなおもやかましくヴァンガラッシュマンを要求した。子ども特有の理屈を聞かないゴリ押し―のようではあったが、内実は違う。
「ほら高橋…早よせぇよ」
「う、うん……」
カウンターから死角になっている店の隅の棚のあたりにいた野球帽らのグループは、北村さんから最も見えにくい位置にいる高橋少年を更に見えなくするように立っていた。高橋少年に一番近い位置にいる野球帽は、横目で彼を睨みながら、催促する。
直線距離で十メートルもない場所でなされている少年達と北村さんのやりとりすら霞むほど、自分の心臓が高く鳴る音が高橋少年の耳に大きく響いている。本当は、彼はそこからそれ以上動きたくなかった。だが野球帽や仲間の少年の冷たく鋭い視線が、それを許さない。
錆びついた機械になってしまったかのような動作で、高橋少年は並べられている消しゴムに手を伸ばす―その指先が消しゴムに触れ、ぶるぶる震えながらも掌の中に押し込める。
(と、と、とってもうた……)
そう思ったとき、強烈な感情の波がうねり狂って彼の思考を浚っていった。
もはやまともに物を考えられなくなった高橋少年は、ただその姿を誰にも見られたくない―その一心で、手の中のちっぽけな消しゴムをズボンのポケットに隠そうとする―
その時、店内の照明が一斉に、落ちた。
「な、なんや?!」
気が動転した高橋少年は、つい叫んでしまった。
すぐ傍を誰かが駆けていく気配がしたが、彼自身は膝が笑ってその場から動くこともできない。カウンターの方でも、慌てる仲間たちの声が聞こえてくる。
突然の出来事に狼狽しきった彼らに追い打ちをかけるように、ガラピシャン! と凄まじい勢いで出入り口が開け放たれ、
「何しくさっとんねんこの悪ガキィァアアアアア!!」
極限まで目を吊り上げた繁雄の怒号が、店内を打ち崩さんばかりの勢いで、炸裂した。