第2話①
夏の日差しが、大阪に―そして八奈結び商店街に、容赦なく降り注ぐ。
空の向こうを見渡しても、雲一つない快晴だった。商店街の人口を六割以上カバーするご高齢の方々には厳しい暑さが続いている。瞬く間に熱を籠らせるコンクリートの歩道に水を撒くも、まさに焼け石に水。それぞれの店が戸口につけた風鈴の軽やかな音だけがせめてもの慰めなのだが、今日は風の通りも悪く、それすらも望めない。
そんな中でも、八奈結びの子どもたちは元気に跳ね回る。学校が休みになった今、彼や彼女らの自由を阻むのは毎朝のラジオ体操とオカンの怒鳴り声、そして夏休みの宿題だけだった。宿題のノルマを終わらせた、もしくは黙殺した彼らは、毎日目いっぱい公園やら河川敷やらで遊び倒し、商店街でも騒いで回る。だがそんな子どもたちもお昼の空腹にはかなわない。頭の上からドヤ顔の太陽が照りつける正午を迎え、八奈結び商店街は束の間の静寂に浸っていた。
早めの昼食を終えたふすま屋の西川さんが、軒先でうちわ片手にまどろみ半分で食休みをしている。足は桶に張った氷水につけているが、その氷の角も既に丸くなり始めている。それを苦々しく思っていると、乾いたアスファルトの上を、カラン、とゲタで往く音が聞こえた。
「こんにちは、西川さん」
「おう、千十世やないか。どこ行くんや」
千十世と呼ばれた少年は、手にしているどんぶりを西川さんに見せた。
「シゲのとこまで返しに行くの。やんなっちゃうよね、こう暑いとさ」
なまりのない言葉で話すこの少年は、それでも幼い時から八奈結びで育ってきた。今は引退した西川さんが現役でふすまを貼っていた時から変わったのは背丈くらいなもので、貼りつけたような微笑みも、藁束みたいで折れそうな体格も、人を食った態度もそのままに、今年で十七になった。
「よぉ言うわ、そんななまっちろい肌で、汗一つかかんような顔しよってからに」
「へへ、照れるなぁ」
「褒めとらんで、ったく…」
千十世は西川さんに緩く手を振り、カラン、コロン、とゲタを鳴らして去って行った。
「相変わらず覇気のない奴っちゃで…いったい将来、どうなるんやか」
溜め息を吐きながら、西川さんは空を仰いだ。
太陽ばかりが輝く天はただどこまでも青く、夏の暑さはまだまだ終わりが見えない。
◇◆◇
「はぁ……」
カウンター席で盛大に吐かれた北村さんの溜め息に、繁雄はギクリとして手を止めた。
反射的に、目で北村さんのどんぶりの中を覗き込む。十分ほど前に出したはずのわさびとろろうどんが、全く減っていない。夏になってから北村さんが好んで注文してくれる、鉄板メニューだったはずだが…。
「すんません、俺なんかミスってます? 不味かったですか?」
恐る恐る訊ねる繁雄に、北村さんは我に返ったというような調子で顔を上げた。
「え? …ああ、ちゃうちゃう! うどんはいつも通り美味しいで」
そう言いながら笑う北村さんの顔には、活力がない。ほんまやろか…と繁雄が訝しんでいると、北村さんは七味の小瓶を手に取り、うどんにかけようとした。が、
「き、北村さん! 下! 下ー!」
「え? …ああー!」
どこでもない場所をぼんやり見ていた北村さんは、七味が口から流れ出ているのに気が付かず、小瓶をカウンターに置いた時には白いとろろの上に七味の赤い小山がこんもりと誕生していた。
「えらいお疲れですね。店でなんやあったんすか?」
自分の出したうどんに問題がなさそうだと分かりほっとしながらも、明らかに様子のおかしい北村さんを繁雄は心配した。北村さんは八奈結び商店街の中でも若くして店を切り盛りする繁雄のことを応援してくれる、有り難い存在だった。その北村さんの一大事となれば、繁雄にとっても他人事ではない。
北村さんは言いにくそうに頬を人差し指で掻いていたが、もう一度溜め息を吐き、ポツリポツリと話し出した。
「いやなぁ…今、学校が夏休みやろ? そんで昼間っから子どもたちがうちの商店街にも遊びに来るやんか」
「ああ、それでやかましいっちゅう話スか? 北村さんとこは文房具屋やから、大変でしょうねぇ。人一倍うるさいんがうちにもおるし、その気持ちわかりますわ」
夏休みに入ると、八奈結び商店街は体力を持て余した子どもたちの騒ぎ声で、蝉の大合唱よりもやかましくなる。その筆頭が、繁雄の妹、和希だった。去年までは商店街の端から端までをかけっこのコースにして繁雄たちに怒鳴られていたものだが、今年は小学校のバスケットボール部の活動が忙しいらしく、幾分かマシである(それでも帰ってきた途端ドタバタ騒ぎ回るのだが)。
だが北村さんは苦笑する繁雄の言葉を、ゆっくり首を振って否定した。
「ちゃうねん…子どもたちが元気なのは構わんのや。問題は…」
「万引き、でしょ?」
カラカラと戸が開くとともに、飄々とした声が店内に響く。
流れ込んでくるじっとりとした外気とは裏腹に、入ってきたその少年は涼やかだった。白い肌は汗ばんだ様子もなく、首を傾げて薄ら笑うと、少し長い前髪がサラサラ音を立てた。長身の割に藁で出来たような細い体躯が青白い肌と相まって、病弱な文学少年のような儚い印象を与える。が、繁雄はその本性がそんな生易しいものでないことを知っている。
「…千十世。お前、外歩いてきたはずやのに汗一つかかんとか、どないなってんねん」
この酷暑の日々をひとり涼やかに過ごしている幼馴染に対して、繁雄の口からまず出てきたのは恨み言だった。千十世はにっこり笑いながら、後ろ手で戸を閉める。
「夏だから汗腺故障させたんだ。結構簡単だからシゲもやってみなよ。まずクーラーを常時五度設定にしてタンクトップのまま一週間…」
「いや、断固拒否する」
本気か冗談か(多分後者だと繁雄は思っている)わからない発言を早々に断ち切って、繁雄は千十世から差し出されたどんぶりを受け取った。お昼前に持って行った出前の物だ。頼まれれば、繁雄は店で茹でたうどんをおかもちに入れて宅配している。外出が困難なお年寄りに結構好評で、通常はどんぶりの回収まで行うのだが、千十世は例外だった。出不精なこの幼馴染を少しでも外に出そうという魂胆なのである。
何がなんだかよくわからなくなった場を戻そうと、繁雄はもっともらしく咳払いした。
「まぁ、それは置いといてやな…」
「自分で言ったくせに」
「じゃかあしい!」もっともな千十世のチャチャに顔を赤くしながら、繁雄は強引に軌道修正する。「お前さっきなんて言うた? 万引き…やて?」
その言葉を受けて、千十世は片眉を上げて返事した。そして北村さんの隣りのカウンター席に腰かける。
「そ。だよね、北村さん?」
「まぁ…そういうことや」
弱々しく笑って、北村さんが頷いた。このお人よしの代名詞みたいな人物である北村さんには〝万引き〟という言葉を発すること自体がストレスのようだった。
「夏休みになってから商店街中で増えてるんだよ。僕んとこの古本屋も、何冊かヤられた」
沈痛な面持ちの北村さんとは対照的に、千十世の口調はあっけらかんとしていた。その落差に、繁雄は脱力する。
「…なんや、お前が言うと一気に危機感のぅなるな」
「あ、ひどい。差別だ差別」
「じゃあ北村さん、そのせいで…?」
今度は無視だ、と言う千十世の抗議を完全スルーし、繁雄は北村さんを見つめた。北村さんは心を決めたように、一息ついて話し始める。
「恥ずかしい話なんやけど…そういうことや。気づいたんがそもそも、最近のことでなぁ。なんやここんところ冷やかしに来る子が多いなぁ、とは思ってたんやけど、別に冷やかされてなんぼの商売やからな、気にせぇへんかったんよ。帳簿と在庫が合ってないのでようやくわかってな…積んである箱、丸々一つ持ってかれてる消しゴムとかもあったわ」
「な…! そんなことて…!」
繁雄は急激に、頭に血が上るのを感じ、拳をきつく握った。北村さんの人の良さに付け込んで、悪さをする奴がいるという事実が、この上なく許せなかった。
「北村さん、俺手伝います。そいつら捕まえて、警察に突き出しましょう!」
「いや、もう遅いんや…ここ二、三日でぱったり子どもらが来んくなったんよ。こっちが勘付く前に…ってことなんやろな」
「そんな…!」
繁雄は奥歯をきつく食いしばった。北村さんは、気弱に笑っている。
「まぁ、僕の不注意やからね。ええ勉強になったよ」
「って、泣き寝入りするのが一番悪いんだって」
自分に言い聞かせるような北村さんの言葉を一蹴したのは、大人しくしていた千十世だった。
「ダメだよー、北村さん? 所詮この世は弱肉強食、そうやって弱み見せた奴からバクバク食い散らかされちゃうんだからね? もっとこう、肉食な感じで行かないと」
「う、うん?」
千十世は人差し指を立てて、幼稚園児に言い含めるようにウインクして見せる。それがあまりにも自然な流れだったので、千十世より一回り以上年上であるはずの北村さんもなんとなく丸め込まれてしまう。
「千十世、お前目上の人になんて口の聞き方すんねん!」
「ほら、このくらいの勢いで」
繁雄の繰り出す猛烈なチョップを、千十世は軽々と右手でいなす。それに一層繁雄が噛みついて、店内はリアル新喜劇の様相を呈してきた。落胆していた北村さんも、思わず吹き出してしまう。
「…ありがとうな、千十世くん。繁雄くんも」
「はっ…!」千十世のペースにのせられてしまったことに気づき赤面する繁雄だったが、少し元気を取り戻した北村さんを見て、「…いや、その、はい」
「っていっても、問題は何にも解決してないんだけどね」
場をしっちゃかめっちゃかにした当の千十世が、シリアスぶって仕切りなおした。
「実際、あっちこっちでそんな話を聞くよ。小東さんとこの駄菓子屋さんも、結構な被害に遭ったって。北村さんのところも、またいつ戻ってきてもおかしくない」
「マジか…くっそ、よりによって理事長がいないこのタイミングで…」
繁雄は手拭い越しに、ガシガシと荒く頭を掻いた。
八奈結び商店街の組合理事長の壱之助・咲絵夫妻は、繁雄や千十世にとっても馴染みの深い人物だった。その人柄と実行力から商店街中の人々から人望を集めている。だが今は、金婚式を祝して商店街有志一同から贈られた記念旅行に出かけたばかりで、あと一週間は帰ってこない。
「だからこそ」
ポツリと千十世が呟いた。
「解決する。壱之助さんが帰ってくるまでの間に、絶対」
「…千十世?」
いつもとは違う様子で俯く幼馴染に、繁雄は思わず名前を呼んだ。その呟きは繁雄の耳にはっきり聞こえなかったが、なにやら凄まじい気迫を感じさせた。
「せやけど…なんでこない急に、万引きが増えたんやろか。商店街に来る子どもが増えるのは、この休みに限ったことやないのに…」
北村さんがため息交じりに愚痴をこぼした。確かに、と繁雄も頭を捻る。学校が長期の休みに入るとこの辺りに住む子ども達だけでなく、隣の地区の子ども達も自転車で遊びに来るようになるのは、毎度のことだった。電車に乗らなくても行けるそこそこ賑わいのある場所、ということで、八奈結び商店街は子どもたちの間でちょっとした人気スポットだった。それだけに、なぜこの夏休みになってから―という疑問が、当然湧いてくる。
ただ千十世だけがいつものように飄々として、「簡単だよ」と言った。勝手にお客さん用のピッチャーとコップを手に取って、水を注いでひと口飲む。
「和菓子屋の磯浪さんが去年の冬に亡くなったでしょ? そのせい」
「そのせい…って、なんでやねん」
「…あ」
繁雄は事情が全く呑み込めなかったが、北村さんは理解できたようだった。千十世はその様子を見て満足そうに、あの人を食ったような微笑みを浮かべた。
「シゲ、磯浪さんって怖かったよねぇ?」
「あ? ああ、せやなぁ…あのじいさん、俺らがガキん頃からなんや悪さしようもんなら即大声で怒鳴って…おかげであの店ん前通るん怖かったわ」
繁雄は小学生の頃公園で野球をしていて、その近くにある磯浪さんのお宅のガラスをしょっちゅう割ったことを思い出して、苦笑した。勿論今なら自分に非があることを素直に認められるが、思い返せばそういうふうに考えられるようになったのも磯浪さんの怒鳴り声があったからかもしれない。当時は、ただただ怖いじいさん、というイメージしかなかったものだが。
千十世は、わざとらしくしみじみとした調子で続ける。
「磯浪さんってすごかったよねぇ。お亡くなりになるまで現役のカミナリオヤジだったんだもの。高血圧で血管プチって切れて亡くなったって聞いたときにはすっごく納得したなぁ」
「千十世、お前何の話して…」
「だから去年までは、商店街中に磯浪さんのカミナリが鳴り響いていたよねぇ」
そこまで千十世が言うのを聞いて、やっと繁雄もわかった。とはいっても直感的なものだったので、まだ前後の理屈を上手く合わせられないようではあったが。
「あー…はいはいはい、なるほど、だから、えーっと………」
「そう、この夏の八奈結びには、子どもたちを叱りつけるこわーい大人が不在ってわけ」
ピンポーン、というように、千十世は人差し指でくるりと円を描いた。
「磯浪さんの次に怖い壱之助さんも、しばらく留守にしてるし…あとはか弱いおじいちゃんおばあちゃんに、北村さんみたいないい人ばっか。そんな話が夏までの間に広まったってトコだろうね」
それで納得したものの、繁雄はまた浮かんできた疑問に首を傾げる。
「…でも、それがどうして万引きの増加につながるんや?」
「僕、シゲがわからないことロクに考えないですぐ人に聞くとこすきだよ」
「遠まわしにアホって言うとんのはわかってんねんからな? あとキショいからすきとか言うな」
こめかみに青筋を浮かべんばかりの形相を浮かべる繁雄に対し、千十世はニヤニヤとした笑いを崩さない。
「結局ね、ゲームなんだよ」
「…は?」
「一概に、それだけとは言わないけどね。でも子どもが万引きをするのは―楽しいから。その場合がほとんどなんだって」