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八奈結び商店街を歩いてみれば  作者: 世津路章
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第5話②

「こんにちは、角井さん!」



 角井豆腐店の軒先で、蝉に負けずにやかましい声が響く。ショーケースの中に豆腐を入れていた店主の角井さんと、奥さんのみさこさんが顔を上げると、よく見知った女の子―和希が立っていた。みさこさんは笑って返す。



「あらぁかっちゃん、こんにちは。今日はどしたん?」

「あんな、これもらったってんか!」



 和希は少し背伸びして、ショーケースの向こうの角井さんご夫婦に、手にしていた緑のビラ、その最後の一枚を渡す。一目見て、角井さんは頷いた。



「ああ、秋の八奈結び運動会のお知らせか。今年のメイン決まったん?」

「せや! 今年はなー、野球やで!」



 毎年、八奈結びでは町内会と商店街がタッグを組んで、ご町内対抗の運動会を秋に開催している。一日掛かりの大イベントで、午前の部では徒競走や玉入れなどが行われ、午後の部は毎年替わる団体競技が催される。この団体競技は事前に募った有志チームの対抗戦だ。去年はサッカーだったが、メインターゲット層の若手が集まらないという悲劇が発生した。のみならず、ほぼ走りっぱなしの競技だったので、参加層の大半を占める中高年から大ブーイングが巻き起こった。


 このため、一部過激派の画策により今年はゲートボールが選ばれかけたのだが、本格的に若年層が寄りつかなくなるとの懸念から辛うじて阻止され、折衷案でみんなだいすきベースボールが選ばれたのだった。


 ご多分に漏れず野球ファンの角井さんも、頬を緩ませる。



「ええなぁ。今年は俺も出てみようかな」

「やめときやめとき! アンタが出たところでバット折りまくって終わるだけやわ!」



 即座に大笑いしたみさこさんに心を折られた角井さんは、巨体をしょんもり小さくさせて、店の奥に退散した。この夫婦は往々にして奥さんの立場の方が強く、加えてその異色の経歴と普段のバカップルっぷりの強烈さから、商店街の名物のひとつになっている…という余談はさておき。


 みさこさんはショーケースから少し身を乗り出し、和希の顔を覗き込む。



「野球やったらシゲちゃんも出るんやろ? 楽しみやわぁ。なかなかガッツあるプレーしよるからな、あの子」

「アニキも…?」



 そのときになって、和希はようやくその可能性に思い至った。


 そう、中学を卒業するまで、彼女の兄・繁雄は野球に励んでいた。亡き両親の跡を継ぎ、うどん屋を切り盛りするようになってからは試合中継を見るくらいで、まったくそんな素振りは見せないが―



(そうや、アニキ…野球すきやったもんなぁ)



 彼が出ていた試合を、今よりなお幼かった和希も観に行ったことがある。もうおぼろげなその記憶の中、キャッチャーだった繁雄が生き生きと球を投げている姿だけは、今もなお明瞭に思い描ける。


 ずきん、と胸が痛んだ。その理由を、和希は知らない―いや、知ろうとするのを、無意識に拒否している。みさこさんに何か言葉を返さなくては、と思いはするのだが、いやに喉が粘ついて、口が開かない―こめかみに、冷や汗がたらりと流れる。


 そんな和希の頭に、ぽん、と誰かが手を置いた。



「配り終わったか、和希」

「じっちゃん…」



 気づけば隣に壱之助が立っていて、右の掌でわしゃわしゃと和希の頭を掻き乱すように撫でた。その動作の割に、優しく伝ってくる感触。それは、つい今しがたまで和希の胸を押し潰そうとしていた酷く恐ろしい重力を、あっけなく霧散させてしまった。


 まるでそんなことには気づいていないみさこさんは、壱之助に笑いかけている。



「あらぁ、理事長こんにちは!」

「おお、みさこさん。よかったら角井くんと一緒に、運動会参加したってな。練習あるから無理にとは言わんけど」



 いたずらな笑いを含ませながら、店の奥にも聞こえるようにちょっとばかり声を張って、壱之助はそう言った。角井さんの嬉しそうな咳払いに、みさこさんも苦笑しながら頷く。


 片手をあげて角井夫妻に挨拶すると、壱之助はゆっくり歩きだした。慌てて、和希もそれについていく。


 商店街はおやつどきも過ぎて、夕飯の買い物客でにぎわい始めていた。が、まだ人影はまばらで、その間を壱之助と和希は散歩するように進んでいく。ちらほらと起こる柔らかな談笑と、遠くに聞こえる蝉の声が、通りに優しく流れている。



「助かったで、和希。おかげさんで、はよぉ終わったわ」

「ん、ま、まぁな…」



 そう返す和希の声は、普段と比べてやはりどこかぎこちなさが残っていた。だが壱之助はそれを気にする素振りを見せず、自然な足取りで進んでいき、ある店―南田茶店の前で立ち止まった。


 和希に軒先のベンチに腰掛けるように言って、壱之助はガラス戸をあけて店の中の人に何かを注文していた。そしてすぐ、自身も和希の隣に腰かける。



「何頼んでたん?」



 和希がそう訊くと、壱之助はベンチに背をもたれさせ何の気なく言う。



「抹茶ソフトや、手伝いの駄賃代わりにな」

「ほんまっ!?」



 ここで、やっと和希は顔を明るくする。現金な少女の変わりように、壱之助も鷹揚に笑う。

 そのとき、カラカラとガラス戸が開き、店員が抹茶ソフトクリームを持ってきた。



「はい、おまちどーさん…って、和希?」

「わ、ユッキーやん! なんでここおるん?」



 中から出てきた店員は、なずなの友人で、和希とも顔なじみのユキだった。南田茶店のエプロンを身につけた彼女は、慣れた手つきでソフトクリームを壱之助と和希に渡す。



「最近バイトで来るようになったんよ…ってまぁ、お手伝いくらいなもんやけど」



 気恥ずかしげに、ユキはそう言った。壱之助は微笑みながら、彼女に代金を手渡す。



「ユキちゃん働き者で助かる、って南田さん言うてんで。息子さんが受験で忙しいからあんま手伝われんかったところに、タイミングよう来てくれたってな」

「ん…まぁ、その…」



 小銭を受け取ったユキは急にもじもじして、顔を赤くした。



「まぁ、うちがちょっとでもお店手伝ってたら、センパイも勉強に集中できるかな、って…そんだけなんやけど」

「センパイ? あの眼鏡のにいちゃん?」



 口ごもるようなユキの言葉で、なんとか聞き取れたところだけを和希は尋ねて見せた。が、ユキは噴火しそうな勢いでますます顔を赤くし、



「ほ、ほなごゆっくり!」



 と、あの特徴的な甲高い声で言い残し、店の中に戻っていった。

 事情が呑み込めず首を傾げている和希の隣で、壱之助が「青春やなぁ」と、のどかに言う。和希は詳しく聞いてみようと口を開けたが、その前に壱之助はソフトクリームに口をつけた。



「どないしたんや和希、はよ食べな溶けるで」

「あ、うん…」



 八月も末を迎えたとはいえ、この時間でも太陽はいまだ力強く、クリームの線は早くも頼りなくなりつつある。和希は慌てて、ぱくっとそのてっぺんを口に含んだ。


 南田茶店の抹茶ソフトクリームは、去年発売してから大人気の一品だ。渋すぎない抹茶の風味が、クリームの甘みとよく合わさっている。しかしまだまだ現役の子ども舌を有する和希は、これまでその美味しさにいまいちピンとこなかったのだが…



「うまいか?」



 何気なく掛けられた壱之助の言葉に、和希は素直にうなずいた。


 なんでかはわからないけれど、これまでよりずっと、美味しく感じる。舌の上に残る微かな渋みはどこか、先ほど胸に感じた重圧を思い出させて、ほんとは嫌なはずなのに―つい、ひと口、ふた口と、食べてしまう。


 そんな彼女を、目を眇めるようにして壱之助は見つめていた。そして、おもむろに口を開いて、



「和希、ええ仕事してるか?」



 ぽつんと、そう訊ねた。

 ソフトクリームを食べる和希のその手が、止まった。


『当然』…、そう答えようとして口ごもってしまったその問い。


 あの高橋少年は、自分の身に起きた辛い災いも、それを抱え込んでいた過ちも、すべてを受け止め、そこから一歩踏み出したのだ―勇気を振り絞り、周りに打ち明けたのだ。まだまだ彼の行く手には多くの困難が待っているだろうが、これからも彼はきっと同じように乗り越えて行けるだろう。


 それに対して、自分はどうだろうか―和希は、下唇を噛む。



 自分のしたこと・されたことを振り返ってちょっとずつ学んでいく―それが子どもの仕事や。



 壱之助は、そう言った。和希は自答する―自分はそうやって、学べていると言えるのか?

 まだあの日のことも、謝れていないのに。


 …ひゅう、と、やけに冷たい風が吹いた。


 それは、嫌がおうにもあの日の記憶を脳の奥底からひきずり出す―理解できない、したくもない存在がいて、そいつに生活を脅かされる可能性が現実にある―そのことを、身を以て思い知らされた、あの日。


 それは間違いなく、自分の軽はずみな行動によって導かれたのだ。だから、最悪の結末が訪れても、文句の言いようなんてなかった…だけど、



 ―無事か、和希!



 兄は駆けつけてくれた。


 いつもと同じように怒って、だけどいつもの何千倍も必死になって、その背に自分を庇ってくれた。

 和希はあの時、はっきり知ったのだ。


 それは、本当は、ずっと前からそうだった。


 父と母が不慮の事故で亡くなって、たったふたりっきりの家族になってしまったときから、兄はずっとそうしてくれていた。


 ずっと、護ってくれていた。

 そしてそれはきっと、自分のための色んななにかを諦めることによって。


 その事実は、和希には―あまりにも大きすぎた。向き合うにはまだ、彼女はあまりに幼かった。だから今も、意識の上では明確に悟っていない。だが無意識の深層で抱いた罪悪感は、こうした折りに頭をもたげる。胸の内に、暗雲を呼び寄せる。

どうしたらいいのか、どうすべきなのか―わからなくって、動けなくなってしまう。


 その彼女の頭に、優しいぬくもりが伝った。


 和希がハッと見遣ると、壱之助が皺だらけの手で、頭をそっと撫でてくれていた。その手は決して大きくないのに、力強い。和希の心身を縛り、痛めつける暗い情動を、祓いさってくれる。



「ひとつ、ええこと教えたろ」



 ちょい、ともじゃもじゃの眉をわざとらしく上げ、壱之助は片目をつぶって見せる。



「でっかい仕事はな、急いでやらんでええ。ちょっとずつ、自分の出来るところから片付けていったらええんや…そうして、そのうち『あれ、終わってもうた』って気づく時が来る」

「できる、とこから?」



 和希がゆっくり呟くと、壱之助は頷き、柔らかい笑顔を浮かべた。



「せや。ほんで、自分が今、何をできるんか…おまえならもうわかってるやろ、和希」

「…!」



 そうだ、わかっているのだ。


 それをしたところで問題をすべて解決できるわけではない―けど確かにひとつ、自分には今できること…いや、やらなければいけないことが、ある。


 そしてそこから、いつまでも逃げているなんて―それこそ自分らしくない!


 和希は、手の中に残っていたソフトクリームを勢いよくがっついて、すぐ完食した。口の周りについたコーンの屑も拭わないまま、立ち上がり、壱之助に頭を下げる。



「あんがとうな、じっちゃん! ごちそーさまっ!」



 言うなり、駆け出した。その後ろ姿はいつもどおり、賑やかで騒がしい、あの和希のものだった。



「ほんま、孫っちゅうんは…いつまで経っても見てて飽きへんなぁ」



 残された壱之助は誰にともなくそう笑って、再びソフトクリームをゆっくりと食べ始めた。

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