第5話①
さて、夏休みも終わりに差し掛かったある日の八奈結び。
和希は、いつも見せているあけすけな笑顔はどこかにやってしまって、しかめっ面をしていた。といえども、不機嫌ではないのだった。手にしたそれを、穴が開かんばかりに延々と睨みつけている。
それは長方形の黒い布だった。夏休みの自由研究…というのでもない(彼女の場合、夏休みの課題は最終日に往生際悪く泣き叫びながらなんとかやっとこなすのである)。両手でしっかり掴んだそれを、和希は時折眼前にかざし、その度に頭をぶんぶん振って膝の上に落とす。
「よう出来てるで、かっちゃん」
そう柔らかく言ったのは、タマばあだった。
和希が今いるのは、商店街唯一の美容室だった。店の奥にある四人がけのソファでは、ときどきタマばあによる裁縫教室が開かれる。繊細な刺繍を丁寧に教えてくれるタマばあの講義は人気で、若いママさんからおばあちゃん方まで幅広く集まってくるのだが、今日の生徒は和希ひとりだけだ。
和希が手にしている黒い布には、優しい色合いをした水色の刺繍糸で、シンプルな線が横に流れて縫い取られている。線は二重になってうねり、波の模様を表している。そして右の端に、〝S〟と小さく、ややいびつな格好で刺繍されていた。
「なんやあんた、不服なんかいな」
会計の終わったお客さんを見送り、店の中に帰ってきたアキさんが言った。タマばあとは対称的に、年相応の熟慮などまるで持ち合わせない、意地の悪い笑みを浮かべている。
「タマさんを三日間も占領して、贅沢な奴っちゃのぉ。本来やったら特別受講料請求されてもおかしないねんで、自分」
「もう、アキちゃん」タマばあが呆れ半分に口をはさむ。「なに言うてんのん。そんなん要るわけないやんか」
ふたりのやりとりをよそに、和希はあくまでも黒い布から視線を外さない。そんな彼女を見て、タマばあは眦に刻まれた皺を一層深め、微笑んだ。
「どうしたん、あとは渡すだけやろ?」
わかっていながらも、タマばあはちょっと試すようにそう訊いてみる。すると和希はもごもごと口を動かして、
「…せやけど、こんなん……ウチらしくないっちゅーか……」
と、言葉尻を濁した。
そして、アキさんがそれをからかおうと口を開けるより前に、和希は立ち上がる。
「あーもー! やっぱやめやめ!! タマばあ、ごめんな!」
そして手の中の黒い布をさっとテーブルに置き、バタバタと店から出て行った。
ガランガランガラン! と、やかましく鳴り響くドアベルを聞きながら、アキさんは呆れた、と溜め息を吐く。その隣でタマばあが、くすくすと笑い声を立てた。
「ほんま、そっくりやなぁ」
開けっ放しにした扉の向こうから、しゃわしゃわしゃわ…と蝉の鳴き声が聞こえてくる。
頭の上でふたつに結わえた髪を、ばっさばっさと揺らしながら、和希は商店街の通りをぷんすか歩いていた。
(せや! そもそも、なんでウチがシゲオに………とか、せなあかんねん! せやせや!)
と、鼻息荒く、早足で歩いていく。なので、完全に注意力散漫であった彼女は周囲の状況を気にするわけもなく、前を歩いていた善良な通行人に勢いのままタックルをかましてしまった。
「わッ!!」
「ぬわわっ!!」
和希も、ぶつかられた通行人の彼も、びったーん、とその場でこけた。幸い和希は変なこけ方をしないで済んだので、すぐ立ち上がり、被害者に駆け寄る。
「ご、ごめんな! だいじょうぶか?!」
「う、うん、平気…」
被害者の彼―和希と同い年くらいの少年も、頭を掻きながらのそのそと起き上がる。言葉通り、大したケガは無いようだ。和希は胸をなで下ろしながら、相手の顔に見覚えがあるのに気付く。
「あれ? 自分、米図小の……」
「あ、きみ、うどん屋の!」
少年はパッと顔を輝かせた。高橋、という名の子だ。夏休みに入ってから商店街を騒がせた、あの万引き騒動で二人は知り合った。あの後何回かなずなのもとへ訪ねに来ていたようだが、そう言えば最近見かけなかったことに和希は気づいた。
高橋少年は照れくさそうに、頬をポリポリと掻いた。
「…実はな、母ちゃんに話してん…その、いじめられてたこと」
「! そうなん?」
目をパチパチさせる和希に、高橋少年は小さく頷いて見せた。彼は八奈結びにやってくるまで、自身が受けていたイジメのことを誰にも話せずにいたのだ。なずなはその相談を受けていたようだが―
情けなく笑って、高橋少年は続ける。
「めっちゃ怒られた、なんでもっと早う言わんのって。そんで…おかん、めっちゃ泣いた。それで―ごめんな、って、言うてくれた。それでな、最近奈良のばあちゃんちに行っとったんや。場所変えたら気持ちも落ち着くやろ、って。そしたらほんま、気が楽になって…おかんやばあちゃんともいろいろ話したんやけど、向こうに引っ越すことにしてん」
「そっか…!」
彼は身近な、誰より信頼できる人に心を打ち明けて、環境を変えることができたのだ。その報告を聞いて、和希も安堵を覚える。高橋少年は、気恥ずかしそうに目を細めて続けた。
「またきちんと挨拶にはくるつもりなんやけど、まず一番に八奈結びの人らに伝えなって思って、今うどん屋さんに行ってきたとこなんや。その…みんなには、すごい迷惑かけてもうたから」
「いやいやそれが子どもの仕事やで、少年」
背後から声がして、和希は振り返る。
そこには手に何やら紙束を持った商店街理事長・壱之助が立っていた。
高橋少年がこんにちは、と挨拶するのに笑顔で答えて、壱之助は咳払いする。
「確かに、それが誰かを傷つけたり苦しめたりするっちゅうことを知らんと好き勝手やって回るのはあかん。やけどな、最初はみんな知らんのや。せやから自分のしたこと・されたことを振り返ってちょっとずつ学んでいく―それが子どもの仕事や。少年、君はええ仕事してるで」
皺だらけの顔に優しい笑顔を浮かべ、壱之助は高橋少年の頭を撫でた。そのぬくもりが少年の双眸を途端に潤ませたが、彼はこれをぐっと我慢した。そしてハッと気が付いて、腕時計を見やる。
「わっ、バスが来る…! ごめん、昼には家帰ってないとあかんねん! また来るな!」
「おお、気ィつけるんやで少年!」
「またなー!」
走り出した高橋少年を、壱之助と和希は手を振りながら見送った。バス停へと角に曲がってその背が見えなくなると、和希が鼻を鳴らした。
「ふん、ええこと言うやん、じっちゃん」
「当然や、ワシを誰や思うてんねん」
壱之助は呵々大笑して見せる。中肉中背で、頭のてっぺんがさみしいことになっているおじいちゃんだが、その背は商店街中を包み込むようにでっかい。アザラシに例えられることもあるつぶらな瞳が、挑戦的に和希を見る。
「おまえはどないや、和希。ええ仕事しとるか?」
「あったりまえやん。ウチを誰や思うて…」
真似して見栄を切ろうと胸を反らした和希だが、言い淀む。つい先ほどの、ビューティ・アキでのゴタゴタを―その根っこの原因を、思い出したのだ。
それも見越しているように、壱之助は手にした紙束を彼女に差し出す。
「それはそうと、ビラまき手伝ってくれんか?」




