第4話④
気が付けば、美也は久保田古書店にいた。
外では、雨が降っている―降り出したばかりの、天気雨。
カチャン、と背後で音がしたので振り返った。美也の足もとに、ボールペンが転がっている。
「ごめん、勢い余ってすっぽ抜けちゃった。とってくれる?」
カウンターの向こうで、千十世が苦笑しながらそう言った。さっきまでずっと止まっていたあの右手が、美也の方へと差し出される。
そう―キューはまた、行ってしまった。
どこか別の、歪みに耐え切れなくなった場所はないかと見回る、あてもなく、果てもない旅に出てしまったのだ。
彼が去り、世界が再び動き始めた今、あの止まった時間の中の出来事は、きれいになかったことになってしまった―なずなは今頃犬に吠えられてこけているだろうし、和希は吉田ととっくみあいの真っ最中だろう。
あの止まった世界の中、何か悲しいことを回避しようとどんなに美也が立ち回ったところで、すべてなかったことになってしまうのだ。これまで、何度繰り返しても、そうだった。そのことは、美也自身だってわかっていた。
そんなことしても意味ないっていうのに―
キューのその言葉が、美也の脳裏に過る。
そう、止まった世界で何をしようと、無駄なこと―ボールペンを拾いながら、美也は改めてその事実を噛みしめていた。
(でも、キューは言うとった)
立ち上がり、ボールペンを千十世に差し出しながら美也は考えている。
そう、自分が望むならどこへでも行ける―彼は確かに、そう言ってくれた。
◇◆◇
結局、台風は逸れてしまって上陸しなかった。
午前のあの天気雨の後は、憎々しいくらいきれいに冴えた青空が広がった。商店街の人々はホッとしながらも悪態をつきつつ、午後からは台風対策の片付けに追われていた。
久保田古書店でも、千十世が申し訳程度に半分下げていたシャッターを上げるなどして、だらだらと普段の店構えに戻す作業をしていた。美也は先ほどからその背に何度も声を掛けようとして、店の入り口で躊躇っている。
すると足もとで、
「ぶみゃあ」
と、ぶさいくな猫の鳴き声がした。
日なた窓が、たふんたふんと尻尾を振っている。
その黄色い目が力強く、美也を見つめている―それでようやく、ふんぎりがついた。
「おにいちゃん、ちょっとでかけてきてもええ?」
その声には、どうしても震えが混じってしまった。このときもやっぱり美也の顔は人形めいた無表情だったが、俯いたその肩が強張って、その緊張を示していた。
軒先の掃除をしていた千十世は一瞬手を止めた。が、その絶妙なタイミングで日なた窓がもう一度、ぶみゃあ、と声を上げる。毒気を抜かれたのか、千十世は溜め息をひとつついて、
「夕方までには戻っておいで」
そう言って、またほうきを持つ手を動かし始めた。
美也は力いっぱい頷いて、駆け出し、店を飛び出す。その後ろを、友達の黒猫がぴょんぴょん跳ねるようについていく。
商店街の大通りを、人にぶつからないように走って行く。みんな自分のことで手いっぱいで、気が付く余裕もなかった。力強く駆け抜けていくその小さな影が、いつも大人しいあの美也だなんて、誰もわからなかった。
美也と日なた窓は、大通りを抜けて、右手の道に入る。だがしばらく走ったところで、美也の足が止まった。
もう世界は静止していない。今この時も時間は進み、現実が流れている。
美也―あっちに行っては、いけないよ―
兄の声が耳に蘇り、そこから脳に伝って、全身をひりつかせる。
その言葉を破ってしまったら、あの人はどんな顔をするだろう。自分を護ることを糧にして、そればかりのために何とかようやく生きている、あの人は―
(……それでも)
美也は、なんとか一歩踏み出した。
二歩目、今度は止まらない。
三歩目で、また走り出す。
「ぶみゃフー!」
そのすぐ傍らで、日なた窓が声を上げた。美也は足を止めずに、視線だけ下にやる。今はもう、はっきりとは感じられないけれど、それでも十分すぎるほどこの黒猫の気持ちが伝わってきた―彼女を励ましてくれる友達の、その真摯な気持ちが。
美也は迷わず、さきほど辿った道を往く。
そしてほどなく、あの家に到着する。
せわしなく呼吸したまま、美也は屋根を見上げた。もう歪みは見当たらない。それは間違いなく彼が〝修理〟してくれたから。
だけど、今この瞬間も、この家の中では―
美也は手をまっすぐ伸ばしてジャンプし、呼び鈴のスイッチを鳴らした。一度だけではなく何度も、何度も飛び上がって、叩き続ける。
「は、ハイハイ! どなた?」
家の中からどたどたと、主が慌ててやってきた。ガラガラと引き戸を開けて出てきたのは、あの老婦人だ。突然のことで驚いている表情で玄関先を見渡し、ようやく美也と黒猫の姿を見つける。
老婦人は細い足で美也の前までやってくると、しゃがみこんで顔を覗き込んだ。少しばかり首を傾げる。
「ええっと、どこのお嬢ちゃんかな? どないしたん?」
見覚えのない少女に対して戸惑いを隠せないながらも、老婦人は柔らかく言った。
まだ呼吸に荒さを残しながら、そのまま美也は老婦人の手を取る。
「あんな、どこにでも行けんねんで」
「え…?」
唐突な言葉に、老婦人は虚を突かれた。
美也は彼女の手をギュッと握りながら、たどたどしく、それでも、ありったけの想いをこめて次を紡ぐ。
「ミヤもな、気持ちわかるで。だってな、こわいもん―自分からどっかに行くの。やからな、ちょっとずつ練習、してんねん。今は商店街以外のところ、行かれへんけど…でも」
少女は、人形のようだと評されるあの表情に、ほんの少し微笑みを浮かべて見せた。
「商店街の人らな、みんなええ人やから。やから、だいじょうぶ。おばあちゃんも、いっしょに行こ?」
彼女の言葉は、まったく突然で、脈絡もなくて、拙かった。老婦人は、なぜ彼女が自分にそんな言葉をかけてくるのか、皆目見当もつかなかった。
なのに、その頬に、一筋の涙が伝う。
どうしようもなくあたたかな情動が、老婦人を充たしていた。自分自身でも目を逸らしていた心の、柔く、ひどく痛んだところに、触れられたような気がしたのだ。誰かにかけてほしくてたまらなかった言葉を、与えられたような、そんな気が―
老婦人は、自らの手を力強く包む小さな手を、知らぬうちにぎゅっと握り返していた。そうしてしばらく、泣いていた。美也はそれを黙ってじっと見つめていたが、
「美也…? どないしてん、こんなところで」
聞き慣れた声に呼ばれ、振り返った。
おかもちを下げた繁雄が、キョトンとした顔でそこに立っていた。
◇◆◇
台風騒動から、二週間が経った。
昼下がり、美也はいつものように商店街の通りへおさんぽに出かけていた。いつのまにか足もとに、あの黒猫がやってきて、ともに並んで歩く。
「ぶみゃっフー!」
日なた窓が突然、鳴き声をあげて走り出した。美也が走って追いかけると、すぐそこは角井さん夫妻の豆腐屋さんだった。軒先に老婦人がいて、豆腐を受け取っている。
「あら、美也ちゃんやないの」
老婦人は美也と日なた窓に気が付くと、はにかんで笑って見せた。
老婦人の名は、宮前さんという。あの日、繁雄と一緒に彼女の家に上げてもらった美也と日なた窓は、彼女の話を聞いた。
旦那さんを亡くして三年になること、息子夫婦は遠方に住んでなかなか帰ってこれないこと、自身も半年前身体を壊して入院して以来外出が怖くなってしまったこと―そうして、あの家でひとり、ただ日々を過ごすだけの生活だったこと。
淡々と紡がれる宮前さんの声には、しかし哀切な想いがにじみ出ていた。それは、現実をどうにも動かせないと諦めてしまった人の言葉だった。
美也たちは黙って聞いていたが、やがて繁雄がこう言った。
「俺、ここにときどき来ますよ、うどん持って。ほんで宮前さんがおいしい思ってくれるんやったら…いつか、店の方にも食べに来てください」
美也は、その横顔を見上げていた。泣きそうになるのをみせまいと、彼はニカッと目を瞑って笑っていた。そのお日様のような笑顔に、宮前さんはゆっくりと頷いた。
―そのいつかが、やってきたらしい。宮前さんはどこか吹っ切れたような、それこそ台風が過ぎ去ったあとのような微笑みを美也に投げかける。
「繁雄くんのうどんな、持ってきてくれるのもおいしかったけれど…お店で出来たてのん食べたら、もっとおいしかったわ。もっと早うに、こうして外に出たらよかったんやなぁ…」
宮前さんはしゃがみこんで、美也の頭をそっと撫でてくれた。その腕はやっぱり細かったが、伝わってくるぬくもりはじんわりと、確かに美也の心に伝わってくる。
「おばあちゃん、もうへいき?」
「うん、へいきや。美也ちゃんのおかげや…ありがとうな」
そう言われて、美也は精一杯笑って見せた。
まだぎこちなく、口の端がようやく持ち上がる程度だったが、そこから溢れるほどの嬉しさがにじみ出ている。足元の黒猫が、それをしげしげと眺めていた。
買い物の続きをしに行った宮前さんに美也が手を振っていると、その背後から、カラン、と下駄の鳴る音がした。
「新しいお友達?」
どんぶりを手にした千十世だった。
薄く微笑む兄に、美也は小さく頷いて返す。千十世は、そっか、と短く呟いて歩き出す。繁雄の店に、どんぶりを返しに行くのだ。美也もそれについていく。
今はまだ、ここより外に出ることはできない。彼の傍を、離れてはいけないから。
でも、いつか、その時が来る。
その時のために、美也は練習をする。
商店街を歩き、いろんな人とお話をして、満面の笑みを浮かべられるように―ちょっとずつ、ちょっとずつ、練習をする。
もうへいき―
ミヤ、もうへいきやで、おにいちゃん。
いつかそう言えるように。
店に辿りつき、千十世が引き戸を開ける。
「せやからなんでお前はいつもそうやねん!」
「それはこっちのセリフやアホアニキ!!」
「ふ、ふたりとも、落ち着いて…わっ!!」
店の中ではいつもどおり、繁雄と和希がケンカしている。巻き込まれたなずなが止めようとしてズッコケている。千十世が人の悪い笑みを貼りつけて、チャチャを入れる気満々で店の中に入っていく。
美也は足元の日なた窓に手を振ってバイバイしてから、
「しげにい、かずねぇ、ケンカは『ダメ、ぜったい』やで」
そう言って中に入り、戸を閉めた。
中から一層激しく聞こえてくる騒動にあくびをひとつこぼしてから、〝かみさま〟不在の商店街をパトロールすべく、黒猫はのそのそと歩き出した。