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八奈結び商店街を歩いてみれば  作者: 世津路章
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第3話⑥


 植川が目覚めたときには、既に祭囃子が聞こえていた。


 まだぼんやりとした頭で裏手の茂みから社へと出ると、大勢の客でごった返している。夏の宵闇の空の下、屋台の裸電球と祭提灯の光に照らされ、誰もかれもが浮かれている。その溢れんばかりの現実味を伴った光景に、彼は目を瞬いた。



(…やっぱ夢やったんとちゃうか? 立花優理とお祭りデートとか…)



 どうにも、昼間の体験が空々しい白昼夢だったような気がして、彼はすっかり乱れてしまった髪に指を突っ込み、ワシャワシャと頭を掻く。どうにも、気を失う直前の記憶も曖昧であるし、釈然としない―いったい自分が何をしたというのか。



「ぶみゃっプー」



 被害者意識を昂ぶらせている植川の足もとで、ぶさいくな猫の鳴き声がした。

 見やると、でっぷりとした黒猫が植川を馬鹿にするように尾を揺らしている。確か、日なた窓と呼ばれ商店街で愛されている猫だ。


 不愉快に感じた植川は、爪先を上げて、しっし、と追い払おうとしたそのとき―左方から、鋭い視線を感じた。



「…?!」



 思わず息を呑んだ。

 鳥居をくぐり、一人の少女がまっすぐと、自分に向かって歩いてくる。


 彼女は初夏を思わせる薄水色の生地に、鮮やかな向日葵をあしらった浴衣を着こなしていた。紺地に花火の刺繍がよく映える帯がアクセントになっている。短い髪の右に留められた大きな紐飾りは、萌黄や薄紅、紫紺など、色とりどりの紐が吉祥結びにされていて、黒い髪に大輪の花が咲いているようだ。


 その出で立ちも素晴らしかったが何より植川の眼を釘つけにしたのは、彼女の顔だ。



「お、おまえ…」

「……」



 少女は植川の前に立つと、その奥二重の眼差しで冷ややかに睨みつけた。

 ユキだった。



 植川も、その顔を忘れてはいなかった。だが終業式のあの日より、目の前の彼女は何千倍も凛然としてうつくしく、植川はその気迫に圧倒されていた。


 サルと嘲笑った、あのときの顔と大きく変わりはない―と、突然のことで動転している植川には思えた。が、それは間違いだ。

 地肌と変わらない色味の下地で整えられた素肌に、ほんのりと添えられた彩り―薄くはたかれた頬紅、目尻にほんの少しばかり深紅のアイシャドウを乗せて、唇には軽くグロスを引いただけ。眉はそのまま、彼女の気質がしっかり顕れたへの字型。


 絶妙なバランスと、細心の注意を以て施された化粧。それはひとつとして彼女の素顔を損なうことなく、生来の力強さを内から外へと引き出していた。


 彼女が自分自身の人生を思いっきり楽しんだあかつきに手に入れる、誰のものでもない彼女だけの顔―その完成形の片鱗が、八奈結びのオシャレ番長の魔法により、今このひととき、この場に現出しているのだ。


 たじろぐばかりの植川に、ユキはにっこりと微笑んだ。



「あんたみたいなしょーもないアホんだれに引っかかった自分が、情けなぁて敵わんわ」

「へ?」



 なにを言われているのか理解できなかったような彼に、ユキは大きく息を吸い込んで、




「こっちが願い下げや言うてんねん、カス!!!」



 と、あの甲高い声で突きつけた。


 わっ、と気圧された植川は無様にもその場に尻餅をついた。目をぱちくりさせるばかりの彼、その腹を、のしのしと踏みつけるモノがいる。



「ぶみゃっフー!!」



 日なた窓だ。重量感のあるこの黒猫は植川の腹から軽やかに着地すると、総毛立てて威嚇してからその場を去った。

 その光景に少し笑ったものの、すぐそっぽ向いて、ユキは歩き出す。


 涙が零れそうになるのを、ぐっと堪えた。

 そう、今度こそ本当に終わったのだ。



(―あかんあかん! もう散々泣いたんやから…!)



 それでもままならないのが、乙女心である。

 いたたまれない心持ちで雑踏を歩く彼女を、



「おぅい! …ちょお、待ってや!」



 と、どこか聞き覚えのある少年の声が引きとめた。


 ユキが顔を上げると、並んでいる屋台の中のひとつ、抹茶ソフトクリームを出している店の中に彼はいた。思わぬ偶然に、ユキは目を瞬く。



「南田センパイ?」

「びっくりしたわ、自分も来ててんな」



 南田は、ユキと美化委員で一緒の一学年上の先輩だ。眼鏡をかけた大人しそうな少年だが、委員の仕事に飛び込んでいくユキのフォローをよくしてくれる、そんなやさしさを持っている。そう言えば、彼はお茶屋の息子さんだと聞いたことがあるような…


 と、ユキがぼんやり考えていると、南田は抹茶ソフトクリームを差し出してきた。彼女がポーチ・バッグから財布を取り出そうとすると、慌てて首を振る。



「ええって、サービスや!」

「でもそんなん、悪いです」



 とてもユキが受け取れないでいると、南田は少しばかり躊躇していたが、やがて顔を真っ赤にしながら言った。



「ほんなら後で、一緒に出店周ったってや。俺もうちょいで休憩やし、その、ひとりで見て周るんアレやし、その…」



 そしてハッと気づき、



「…いや、彼氏と来てるんやんな…そんなかわいくバッチリ決めてるってことは…」



 と本気で落胆した。


 そんな先輩にユキは、なんだかおかしいような、嬉しいような、気恥ずかしい想いを抱いた。それは植川に感じた胸の弾みにも似て、だがそれ以上にもっと、あたたかく、やさしく心を充たしてくれる感覚だった。


 彼女は抹茶ソフトクリームを受け取って、



「いいですよ、これ食べながら待ってますね」



 別の手で目尻に浮かんだ雫をそっと払ってから、そう言った。



   ◇◆◇



(ユキ…よかった……)



 それを鳥居のかげから見守っていたなずなは、ほっと胸をなで下ろした。


 お祭りの日のひと騒動は、なんとか無事に終結を迎えた。もちろんユキは、自分のしでかそうとしたこと―現に、他人へのなりすましは行ってしまっているのだ―と、これから向き合っていかなくてはならない。その報いを、受けなければならないときも来るかもしれない。


 だけどきっと、彼女はそこから逃げないだろう。

 そのときは、なずなも友達としてともに向かい合いたい、と思う。



(…でももしかしたら、うちなんか必要ないかもな)



 嬉しげに、抹茶ソフトクリームを食べながら歩き出すユキを見て、なずなは微笑みをこぼした。と、その背後から、カランコロン、と下駄の音がして、



「大活躍だったそうじゃない、なっちゃん」



 耳馴染みの性悪な声がした。

 なずなが振り向くと、千十世がいつもと変わりない格好で、いつもと変わりないニヤニヤ笑いを浮かべていた。



「ち、ちぃくん?! だ、大活躍って、なんのことかなっ…!!」

「またまたとぼけちゃって。アキさんから全部聞いたよ?」

「全部!!?」



 なずなは爆発せんばかりに顔を赤くして慌てた。今日の自分は一事が万事、空回って醜態をさらしていたようにしか思えないので、誰にも言わないようアキさんとタマばあには頼んでいたのだが―『おお、ええで』と請け負った傍からこれである。やはり大人は汚い。



(ハッ…! もしかしてシゲちゃんにも知られてるんかな…?!)



 顔から一気に血の気が引く。それだけは是が非でも阻止したい。が、千十世が知っているという以上すべては手遅れのように思われた。


 そんな凄まじい懊悩をして見せるなずなを、しばらく千十世は黙ってニヤニヤしながら鑑賞していたが、やがて気づいて訊ねる。



「あれ、なっちゃんは化粧してもらわなかったの?」

「へ?」



 千十世の指摘通り、なずなはアキさんに化粧をしてもらわなかった。ユキと同じように、タマばあに浴衣を着せてもらい、髪をそれに合わせて結ってもらっていたものの、化粧だけは断ったのだ。


 ユキの化粧は、復讐のために必要なものだった―だが自分はそれに便乗してしまっていいのか、となずなは思ったのだ。


 頼りなく笑いながら、でも他の誰でもない自分だけの顔に、ほのかな決意を滲ませて彼女は言う。



「うち、ちょっとズルかった。勇気が出んのを顔のせいにしとったらあかんやんなぁ…やから、ええねん」

「…ふぅん」



 千十世は、そこで目を眇めさせた。


 おや、となずなは思う―彼のその表情が、いつもの底意地の悪い笑いでなくて、なんだか―決して手の届かない光を対岸から眺めているような、そんな儚げなものに感じて―



「おーい! チトセー! 早よ来ぃやー!!」



 と、祭囃子にも負けず騒がしい声が、人ごみの中からふたりに向かって投げかけられる。

 ハッピにねじり鉢巻き姿の和希と、手を引かれた美也だ。



「あれ? ナズナ? うわ、誰かおもた!」



 和希は近づいて初めて、千十世と共にいるのが馴染みのなずなだと気付いたらしい。大きなネコ目をキラキラと瞬かせる。美也は何も言わないが、なずなの浴衣姿を上から下まで何度も見返していた。興味津々らしい。


 ふたりのこの様子に照れながら、なずなも挨拶する。



「こんばんは、かっちゃん、みっちゃん。ふたりともかっこええなぁ」

「ふふん、せやろ!」



 和希は小さな胸を盛大に反らした。



「これからガッツリ太鼓叩くからな! なっ、ミヤ!」

「ミヤな、バシバシやねん」



 そう言われてなずなは気づく。ハッピを胴体に押えつける腰布に、バチが挟まれている。毎年八奈結び神社の夏祭りでは近隣のお子様たちによる和太鼓ショーが開催されていた。去年抽選に漏れた和希は今年こそ、と意気込んでいたのをなずなは思い出す。その甲斐あってか、栄えあるメンバーに選ばれたようだ。


 和希は千十世の手を引き、社の奥へと歩き出す。



「もうぼちぼち始まってまう! チトセ、カメラは?」

「ばっちり」

「よし!! ほな、ナズナ! アニキと一緒にうちらのかっこえー太鼓、見に来てや!」

「え?」



 なずなは、そこでようやく思い至る。そうだ、繁雄の姿はまだ見えてない。

 と、千十世がそこで振り返りながら、やっぱりあの人の悪い笑みを浮かべ、ウインクひとつ寄越しながら言った。



「というわけで、子守りは僕が請け負うから。心行くまでふたりでデートしてきてよ」

「へっ?! ちぃくん、それっ、どーいう…っ!!」



 なずなの問いには答えず、「朝笑っちゃったからね、おわびおわび」と軽く言いながら、千十世は和希と美也に連れられて、人ごみの向こうに消えていった。



(でーと…?! でーと、て、ゆうんは、つまり…)



 再び爆発しそうになる頭をぶんぶん振るなずなに、通行人が不審の目を向ける。その中の一人が立ち止まって、



「…なず?」



 と声を掛けた。

 無論、繁雄である。



「し、し、シゲちゃん!!」

「おお、なんやそんなカッコしてんからわからんかったで」



 繁雄はいつもと変わらず、黒のTシャツにジーンズというラフな出で立ちだった。店で頭に着用している手ぬぐいは、さすがにつけていない。


 ニカっと笑って、まっすぐ言う。



「ええな、似合ってるやん」

「あ、あ、あ、ありがとう…!」



 シンプルなその言葉で、堪えられないほど充たされてしまったなずなであった。裾で顔を隠したくなる衝動を、ハッと気づき、何とか押えつける。



 今、ここだ。

 勇気を出すときは。



 ぶるぶる震える手をぎゅっと握り、喉をゴクリと鳴らし、目を固く瞑って言う。



「あ、あんな! その…お祭り、一緒にまわろ!!」



 やや絶叫気味のお誘いに、思わず周囲の足も止まった。

 面と向かって言われた繁雄も目をぱちくりさせている。



(し、し、しまったーーー! こない大声出してどないすんのん、うちのアホ!!)



 スコップがあったら穴を掘って埋まりたい…いや、スコップで自らを殴打して死にたい…と、悶えるなずなの肩を、ちょいちょい、と叩く指。見遣れば繁雄が苦笑して、



「俺もそない言おう思ててん。千十世が、和希の面倒みるから羽伸ばせ、なんて珍しく気ィ遣いよってな。ひとりで周るんもつまらんし」

「ほ、ほんま…?」



 信じられないものを見るような調子で言うなずなを、理解できないように首を傾げる繁雄である。



「なんで嘘つく必要あんねん」

「そ、そっか…せやんな、へへ……」



 なずなは気が抜け、脱力しそうになった。この幼馴染の挙動にやはり繁雄は首を傾げていたが、遠くから聞こえてきた歓声に、首をめぐらす。



 どんどん、どどん、どんどどん―



 和太鼓の、力強い響きだ。

 繁雄は慌てて足を速める。



「あかん、始まってもうた! なず、急ぐで!」

「! う、うん!」



 広場では、和希が力任せに和太鼓を打ちまくっている。美也も負けじとバチを振るう。それを千十世が絶え間なく激写する。

 そのハレの場に向かうべく急ごうとして、



「きゃっ!」



なずなが道に足を引っ掛け転びそうになる―



「おいっ、大丈夫か?」



 のを、繁雄がなんとか抱き留める。




 無言で何度も頷く彼女の顔を、祭提灯が一層赤く照らし出す。

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