第3話④
一目惚れだった。それは嘘じゃない。
入学してすぐ、植川のことがすきになった。どうしてか、なんて聞かれると困るのだが、やはり同い年にしては少しシャレているところなのかもしれない。
そんな感情は初めてで、ユキは戸惑った。いつも活発なキャラクターで通している自分が、男子を見て胸を切なくしたり、弾ませたりしている。そんないかにも乙女な振る舞いなんてできないし、バレるのも恥ずかしかった。だからそれは彼女だけの秘密―大事な友達にも打ち明けられない想いだった。
最初は、見ているだけでよかった。でもいつからか、合同授業が待ちきれなくなった。気が付けば視線を巡らせて、彼のことを探すようにまでなっていた。自分でも滑稽に思えるのに、止められなかった。
そして、夏休みが間近に迫ったある日、彼女は思い余って告白する決意をしたのだ。
彼女がいるだろう、とは思った。男女問わず友達が多いみたいだし、女子ときわどい絡みをして生活指導の先生に怒られているのを見たこともある。でも、自分がこういう気持ちでいるということを、彼に知ってほしかった。ただそれだけでよかった。
だから終業式の日―誰より早く学校にきて、植川の下駄箱の中にメモを入れた。みんな帰った後、視聴覚室に来てほしい、と。特別教室にはいずれも特に鍵はかけられていないのだが、校舎の端にある視聴覚室なら誰にも聞かれる心配はないだろう―そういう選択だった。
結果は惨憺たるものだった―植川を前にしたユキは想いが空回りして、ろくなことを喋れなかった。まともな言葉になったのは、名前と、すきだ、ということだけ。自分でもいたたまれなくなって、彼がなにかを言う前に視聴覚室を飛び出てしまった。
廊下に出て、ユキは足腰が立たなくなってしまって、へなへなとその場に座り込んだ。ほぼ人がいなくなった校舎で、いやなほど大きく聞こえる自らの心音に苛立ちながら、ユキはあり得ないものを聞いた。
『あー、世紀の瞬間って感じ? おもしろかったわー』
あれだけ熱くて仕方のなかった身体が、一気に冷えていくのを感じた。知らない男子の声が、背後から―視聴覚室の中から、聞こえてくる。
『え、待って、さっきの聞き取れたヤツおる?』
『いやあ、ありゃ無理やろー。まだ耳キンキンしてんで』
『キッキキーキー! 植川くんしゅき! キキー!』
『うっわ、おまえ似すぎ』
視聴覚室で、爆笑が起こる。下卑たその笑い声は容赦なく、ユキの心に突き刺さる。
潜んでいたのだ。視聴覚室特有の、あの箱のような机の中に―そしてそんなことができるのは、植川が予めメモの内容を内輪に漏らしていたからに他ならず―
『で、どうなんよ植川。OKするん?』
びくりと、ユキは身を震わせた。なんとか声を上げずに済んだ。再びドクドクドクンと心臓が早鐘を撃つ。だがそんな彼女の心境など知る由もなく、植川は答える。
『やー、もう勘弁してぇや。真っ赤なって、ホンマサルみたいやってんでアレ』
『でもおまえ童貞捨てたいって言うてたやん』
『セフレでも無理。立花優理くらい可愛かったら別やけどなー』
『言うなー植川。まぁあれ、文化祭で見たん、確かにごっつ可愛かったよなぁ』
―ユキはひどく機械的に、物音も起こさず立ち上がった。
ふらふらと、昇降口へと向かう―既にその時から、彼女は考え始めていた。
復讐してやる、と。
◇◆◇
一連の騒動に至るまでの動機を話し終え、ユキはそっとまぶたを上げた。
ビューティ・アキの一画―ソファに腰かけて、四人は朝と同じように向かい合っていた。
話し終えた今、ひどく凪いだ心持ちだった。この半月ほど、自らの中で溜め込んでいた泥濘をすべて吐き出し終えたような感覚だった。
ああ、もっと早く、こうすればよかったのだ。
初めての恋は惨敗に終わり、無残にも踏みにじられた―それを誰にも打ち明けることが出来ず、外に出せない負の感情が勢い余って、復讐に乗り出させた。
しかし今になって思えば、なんて恐ろしいことをしようとしたのだろう。強姦冤罪を作りだし、何も関係のない少女を被害者にしようとした―自分のやろうとしたことは、そういうことなのだ。
ぶるりと、ユキは怖気に身を震わせる。そんな、普通ならありえないと笑い飛ばせる、そんな判断すら自分はできなかったのだ。自分の中にそんな制御の出来ない感情があることをユキはこの上なく恐ろしく思った。
だが今回は―寸でのところで、踏みとどまることが出来た。
それは紛れもなく、今隣に座っている友達のおかげだ。
「なずな、ほんまありがとう…とめてくれて」
酷いことを言ったのに、彼女はなお自分を心配し、ついてきてくれたのだ。感謝してもしきれない。そして、絶交だ、などとあまりにも思い上がった言葉を口にした自分を恥じた。
だがなずなは、まだ大粒の涙をぼろんぼろんと流しながら、大きく頭を振った。
「ごめんな…ごめんなぁ、ユキ」
「もう、なんでなずなが謝るんよ」
「だって……だって」
なずなは涙で曇った眼鏡レンズ越しに、まっすぐユキを見つめながら、その手を自らの掌でそっと包んだ。
「辛かったやんなぁ…そんなん、人に話せられへんやんなぁ…せやのに、うち、何で話してくれへんかったんや、なんて……」
それ以上は言葉にならなくて、なずなは手のひらに一層力を込めた。そこから伝わるあたたかな気持ちが、ユキの心をほぐしていく。
ユキは顔を正面に向け、目の前の二人―タマばあとアキさんに、頭を下げた。
「ふたりにも、迷惑かけてすみませんでした…」
アキさんはこれに、腕を組んで瞼を下ろしたまま、答えなかった。タマばあは、身を乗り出して柔らかく微笑む。
「うちな、ユキちゃんのことを何度か見かけたんよ…バス停で。最初の内は隣町に遊びに行ってたんかいな、思てたんやけど、どうも尋常やない様子やったから、気になっててん」
「……」
「そのときに、声をかけたらよかったんやな…頼りないばあさんでごめんな、ユキちゃん」
「そんなことは…!」
タマばあが深々と頭を下げるので、ユキは慌てた。しかし上手く二の句が継げずにいるところで、
「どうやった、その顔は」
と、冷静な声が響いた。
見ればアキさんが目を開けて、じっとユキを見据えていた。
それは荒れ狂う波に人々が呑まれる狂乱の中、ひとり港でそれを眺め、タイミングを見極めようとしているような、そんな眼差しだった。手にした縄を、いつ投げるのか―その最良の機会を定めるのに、切実な―
ユキは、こくりと喉を鳴らした。言葉を探して唇が何度か空を切ったが、やがて情けないような笑みを浮かべ、ぽつりぽつりとこぼした。
「…正直に言います。最初は、嬉しかったです。植川は勿論、道端で通り過ぎよるヤツらも、みんなチラチラうちのこと見てくる。そんなん、これまで一回やってなかった。植川なんて鼻の下伸ばして、やたらと優しさアピールしてくるんですよ? 途中からもう、笑い堪えるん大変やった―やけど」
次第に、ガチガチと歯の根の鳴る音が混じり出す。
る、と、涙が頬を伝った。
「なんや薄々、変な感じがしとった―ああ、これ、うちに対してじゃないんや、って。それは、どんどん自分の中で膨らんで、とうとう最後―堪えられへんくなってもうた。この化粧剥ぎとったら、ああ、誰もうちのことなんか見向きもしてくれんのや―そう思って、もう、自分が―あ、あんまりに、惨めで……!!」
言葉は続かず、泣き声がとって代わった。
なずなはそれを邪魔すまいと、ぐっと口を一文字に結んだ。今こうしてありのままの思いを吐き出すことが、ユキには何より大事なのだ。それでもやはり、ともに涙を流さずにはいられなかった。せめて気持ちだけは寄り添いたくて、ユキの手を包む手のひらに一層力を込めた。
それに少し慰められたのか、次第にユキの泣き声は小さくなっていった。
鼻をすする音が断続的に混じるようになり、店内が少しずつ静まってきた頃、
「化粧はな、やから怖い」
アキさんが、そう言った。
「整形も、服も…ダイエットや、パーマかけるんもそうや。中でも化粧は、一番タチが悪い。ちょっとテクを身につけて高い化粧品使えば、誰でも簡単に自分以上のモノになれる。それが自分の手で、自分の顔に、直接やってるもんやから、段々みんな錯覚するんや―化粧の終わった鏡を見て、ああ、これが自分や、と」
アキさんは、そこで自分の胸にそっと指を当てた。
何か取り返しのつかない罪を確かめるように―そこから決して逃げはしないと決意を新たにするように、ぐっと指先に力を込める。
「でもどうあがいたって、それは自分の顔やない」
それは今までのどんな彼女の毒舌より、容赦のない両断だった。
なずなとユキはいつの間にか涙が止まっているのにも気づかず、アキさんに釘付けになっている。
アキさんは、視線を落とし、淡々と続ける。
「どんなに錯覚しても、頭の奥底で、それを忘れることはできないんや。そしてどうしようもない歪が起こる―それを埋めようとしてみんな、高い化粧品やの服やの買い漁って、毎月のように美容室やサロンに通う」
自嘲するように片眉を上げ、嘆息まじりに言う。
「うちは、それを全否定したいわけやない…こんな商売やっとるくらいやしな。綺麗になるんは楽しいし、嬉しい。せやけど―」
アキさんは双眸を伏せた。
そうして少しの間沈黙していたが、やがておもむろに口を開いた。
「度が過ぎれば、それは毒や。何にも解決せんと、ただひたすらに次を欲してしまう…麻薬みたいなもんや。でも、多くの人間はそれに気付かへん―いや、気づきたくないんや。皮を剥いだ自分の顔が、しょーもないものやって」
そして正面に座すふたりの少女をまっすぐ見て、
「やからあんたらはな、自分の顔を―誰にも負けん自分だけの顔を、作っていかんとあかん」
そう告げた。
その眦が、少しばかり、やわらかくたわむ。
「自分のすきなことめいっぱいやりこんで、自分の大切な人をとことん大事にして、ムカつくことには真っ向から体当たりして、思いっきり泣いて、でも最後には、笑う―そうしていくうちに、勝手に出来るんや。他の誰でもない、自分だけの、めっちゃ輝いている顔が」
胸に当てていた手を下ろし、ウインクして見せる。
「ほしたらな、強いで? そういう顔はな、バカどもの中傷なんかには絶対負けへんねん。ちょっと化粧したくらいじゃ、全然埋もれへんねん。そんでな、そんな顔を作れるのは―思いっきり、自分の人生楽しんだヤツだけや!」
「…!!」
ユキは、もう何も言えず、大きく頷くだけだった。
その目尻からまた一筋涙が流れた。
しかしその顔には―今やメイクがぐちゃぐちゃになって、元の顔が覗いてしまっているその顔には、他ならぬ彼女自身の笑顔が、灯されていた。
「よし、ふたりとも分かったみたいやな。ほんならさっさと座り」
「「へ?」」
唐突な話しの転換に、なずなもユキも目をぱちくりとさせた。
アキさんは親指でクイックイッと何かを指している。
それは鏡面の前に据えられた、お客さん用の椅子で―
「まぁ、すっぴんで過ごせるうちはすっぴんで行け、がうちのモットーではあるんやが―今日だけ特別や。上っ面でしか美醜を判断できんボケナスに、きっちり復讐せなあかんからな」
「え、アキさん、うち、もうそれはええって―」
慌てるユキにぴっと人差し指を向け、アキさんは邪悪な笑みを浮かべた。
「憶えとき。ええ女の真の復讐っちゅうんはな―逃した魚はごっついでぇ、って知らしめたることや」