第2話⑥
反射的に野球帽は両目を閉じて、その瞬間を耐えようとした。
だが…いつまでたっても、その時が来ない。
恐る恐るまぶたを押し上げる野球帽の耳に、知らない誰かの声が聞こえた。
「……ハァ、ハァ……千十世…落ち着け…!」
「……離せや、シゲ……」
今なお猛る力を漲らせた千十世の右腕を、寸でのところで繁雄が取り押さえていた。
実際間に合わせるために全速力で掻けてきたのだろう、繁雄は息を荒くしながらそれでもまっすぐ千十世を見据えている。力ずくで引っ張って、なんとか少年から引き離した。
この妨害に、千十世は敵意をむき出しにして繁雄を睨みつける。
「なんで邪魔すんねん! こいつは美也を―」
「やから落ち着け言うとぉやろが! 美也は無事や!」
我を失っている千十世に繁雄は懸命に話しかけるが、無駄だった。千十世の頭には野球帽が美也を突き飛ばした場面ばかりが延々と垂れ流しで再生されているのだ。押し黙っていても、野球帽に対してどう報復するかしか考えていないことが繁雄にもわかった。
いつもは掴みどころがなく飄々としている千十世が、美也に何かがある時ばかりは豹変したようになる。
昔から一緒に育ってきた繁雄は、もう何度もそう言う場面を見てきた。そういうときの千十世は、その細い体のどこにそんな力があるのかというほど猛烈な暴力を振るう。普段の冷静ぶった素振りなどまるで吹っ飛んで、手負いの野生動物のように猛り狂うのが常だった。
共に両親がいない、ということで他人には言えない苦い心情を共有してきたつもりの繁雄も、時折覗く千十世の凄絶な一面は理解の範疇を超えていた。こういうとき、彼は千十世と美也の二人と自分たちとの間に、途方もない隔たりを感じて、いたたまれなくなる。
一体どんな経験が、千十世をこんなにしてしまったんだろう。
今も、自分では己を抑えきれない千十世を前にして、繁雄が感じるのは鈍く重く響くかなしみだった。
自分が何を言ったところで、千十世には届かない―制御が利かないほど乱れ荒ぶ感情の渦から、引き上げてやることが出来ない。
祈るように、心の中で繁雄は叫んだ。誰か千十世を助けたってぇや―誰か!
「チィ坊―何をしとるんや」
その時、誰かが、ざっざっと近づいてきた。
その低く、どこか心地よいしわがれた声は、我を失っている千十世の肩をびくりと震わせた。
「壱之助…さん……」
千十世の顔から熱狂の色が即座にひいて、青味ばかりが残った。
繁雄も声のする方を見る。そして、安堵し、千十世の手を放した。
そうだった、この人がいた。
髪の薄い、中肉中背の老人だった。だが背筋はしゃんとして、太い眉の下にある眼差しはしっかりとした意志を灯し、厳然と千十世を見つめている。
久保田壱之助―八奈結び商店街の組合理事長であり、なずなの祖父であり、そして―親を亡くした繁雄と和希、千十世と美也、それぞれの兄妹の親代わりになった人物だった。
震える声で、千十世が零すように呟く。
「旅行から…帰ってきてたの…?」
「何をしとるんか、聞いてるんやでチィ坊」
しわがれていながらも威厳に満ちた壱之助のその声は、千十世を駆り立てていた熱を全て奪い取っていった。千十世はいつものように、道化た笑いを浮かべようとした。だが先ほどまでの怒りの影はなお根差して、それが悲壮な印象を生み出している。
「…あはっ、やだなァ、ちょっと遊んでただけだよ…ね?」
千十世は鋭く野球帽を見やる。彼は勿論コクコクとうなずかざるを得ない。
だが当然、そんなことを鵜呑みにする壱之助ではない。
確かな足取りでつかつかと千十世に歩み寄ると、頭一つほど上の位置にあるその頬を逡巡なく、叩いた。
パァン! という気持ちがいいまでの破裂音に、思わずされていない繁雄まで頬を庇ってしまう。だが当の千十世は目を閉じたまま、何も言おうとしない。
「やりすぎや。何べん言うたら分かる? お前がそんなやと美也はどこにも行かれへん」
「……」
「さぁ、こないなときはどうすんねや?」
「……ごめんなさい」
「アホ! 儂に言うてどないすんねん! あっちの少年にやな…あ」
壱之助が自転車の下敷きになっていたはずの野球帽を指差すと、そこにあったはずの姿はなく―すぐそこの角を自転車であたふたと曲がっていくのが見えた。
壱之助はハァ、とため息をつき、髪の薄い頭を掻いた。
通りの向こうで、三人を呼ぼうとはりあげたなずなの声が聞こえてくる。
◇◆◇
「儂のおらん間にそないなことになっとったんか…」
そう言って、壱之助は思い切り肩を下した。
一連の騒動が何とか過ぎ去り、八奈結びもとっぷり日が暮れて夜が来た。
高橋少年を何とか帰途に送り出した繁雄と千十世は、なずなに和希、美也と合流し、壱之助・咲絵夫妻の家にお邪魔していた。夫妻が帰ってきたということで、商店街の馴染みの面々がこの古風な日本家屋に集まり、ささやかな宴会が開かれているのだった。旅行疲れもなんのそのと盛大に振舞われた咲絵の料理と、後田酒店提供のアルコールにより、既に出来上がって、転がっている面々もちらほら見受けられる。
挨拶回りと土産話で引っ張りだこだった壱之助も何とか落ち着き、事の顛末を繁雄から聞いているところだった。だがその壱之助の反応に、繁雄は首を捻る。
「あれ、理事長…なんも聞いてへんかったんスか? 臨時会議開いたときに、千十世が理事長らに話はつけてる言うとったんスけど…」
「…あれがそないな連絡入れると思うか?」
壱之助は焼酎の入ったグラスを啜りながら、縁側の方を顎でしゃくった。
そこには宴会の喧騒から一人外れ、縁側に座って庭を眺める千十世がいる。来て早々自分の分だけ料理を更にとりわけ、盛り上がる一同に背を向けたままである。どこか気まずくて、繁雄も話しかけに行くことが出来なかった。
「大方、儂と咲絵に要らん気ィ遣いおったんやろ。ふん、あれのそういう所は昔っから全く治りゃせん」
そう言ってグラスを煽る壱之助の目に哀愁が漂う。それを見て繁雄はためらったものの、やはり抑えきれず先ほどから我慢していた質問を投げかけた。
「…理事長、その…千十世に昔何があったんかは、やっぱり教えてもらわれへんスか…?」
「あれがお前に儂から聞けとでも言ったんか?」
「それは…違いますけど…」
「ほな、儂が話すいわれはないな」
壱之助がちゃぶ台にグラスをおくと、中の氷がもの悲しくカラリ、と鳴った。毛の薄い頭を大分赤くはしていたが、それでもその瞳に敢然とした光を湛えて、壱之助は繁雄を見つめた。
「シゲ坊。人はな、誰かの過去を知ったところでホンマにそいつのことを理解できるわけやない。ましてや、他のもんから無理くり聞き出すようなことでもない。わかるやろ?」
「せやけど、俺は…!」
つい反射的に言葉を募らせようとした繁雄だが、壱之助が正しいのはわかっていた。千十世が話したがらないことを、無理やり壱之助から聞いたところで、余計千十世との溝が深まるばかりだ。
それでも―という歯がゆさが、繁雄に拳をきつく握らせた。
そんな繁雄に、壱之助は目を柔らかく細めて微笑みかけた。
「それよりもシゲ坊、あれのために今すぐしてやれることがあるんちゃうか?」
「え?」
唐突な話の変換に、繁雄は思わず口をポカンとあげた。が、すぐその意味が分かる。
ドタドタドタドタ! という無遠慮な足音がたちどころに響いたかと思うと、
「チーートーーセーーーー! なーにしてるん!!」
はしたなく広間を走って突っ切り、縁側に腰掛ける千十世めがけて和希がジャンピング・ダイブした。
「あーーー! チトセ全然食べてへんやん! やからそんなガリんちょなんやで、ほらもっと食べぇや!」
「おにいちゃん、もっと食べな、メ! やで」
遅れて美也もつくね棒を持ちながら駆けつける。そしてさらに、台所から大皿を運んできたなずながその様子に気づいて、
「ほら、おばあちゃん特製塩むすびやでー! ちぃくん、召しあが―きゃああ!」
千十世に向かって歩いて行こうとして転がるビール瓶を踏んづけ、見事にズッコケる。その気配を察知した千十世が間一髪振り返り、宙に舞う寸前の大皿をキャッチした。
繁雄は苦笑しながら溜め息を吐いて、壱之助に一礼すると立ち上がった。それを笑って送り出し、壱之助は空のグラスに焼酎を注ぐ。
「…お前らなぁ! もうちょい静かにせぇや!」
主に和希に向かい、繁雄の怒号が炸裂する。それを受けて和希が舌を出して応戦し、眼鏡を落としてそれどころじゃないなずなは必死に床を手探る。美也が、心持ち嬉しそうな顔をしている。
「いや、どう考えてもシゲの声が一番うるさいよね?」
そして千十世があの意地の悪い薄ら笑いを浮かべている。
熱気のこもる夏の夜の宴会は、まだまだ続く。
八奈結びの通りを風が一陣涼やかに吹いて、どこかの家の風鈴を鳴らした。