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八奈結び商店街を歩いてみれば  作者: 世津路章
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第2話④

 ただ、繁雄の動きを見切った千十世はミートする直前でほんの半歩のけぞり、その威力を殺いではいた。だが完全にダメージを打ち消せはしない。殴られると同時に肩も解放されてはいたものの、千十世は体勢を崩して、そのまま俯いていた。



「……ハァッ…ハァ…ッ…そうと、違うやろ…そういうことや、ないやろ…!」

「……」



 怒りを爆発させてなお、繁雄は荒ぶる思考を鎮めることが出来なかった。それをなんとか、言葉にして外に吐き出さずにはいられなかった。



「いじめられてんのが恥ずかしいから助けてほしいって言えんとかな…そんな状況自体、あったらあかんことやろうが…! そんな状況に無理やり放り出されて、辛い思いして、どないもできん―声も上げられへん弱い奴のこと、そうやって突き放すんが正しいって、お前は言うんか―?!」

「……」



 千十世はなおも俯いて、何も言わない。その様子がまた、繁雄の血を沸騰させる。



「なんとか言えや、千十世ぇッ!」


「ちょ、ちょお、落ち着けや繁雄!」



 再び千十世に掴みかかろうとした繁雄を、騒ぎを聞きつけ駆けつけた豆腐屋の角井さんが後ろから取り押さえた。



「離してぇや、角井さんっ!」

「アホぬかせ! お客さんビビっとるやないかこのタコ! お前らなんでいきなりケンカなんか―」

「―どれだけ正論並べたところで、〝そんな状況〟はなくならない」



 がっちりと羽交い絞めしてくる角井さんから逃れようともがく繁雄の耳朶を、千十世の声が冷や水のごとく打った。


 肩越しに角井さんを見ていた繁雄は、その視線を正面に戻して、はっとした。


 千十世も顔を上げて、また彼を見ていた。


 その顔にあったのは、先程までの無表情でも、繁雄の良く知る薄ら笑いでもなかった。


 散々に使い倒され、明日には自分が廃棄されるのを知ったボロ雑巾のような、底のしれない陰ばかりが差している―。


 繁雄が初めて見るその表情に絶句していると、空洞を通るかのような昏い響きのする声で千十世は続けた。



「理不尽で、目も当てられない、世間一般からフタをされてしまうような臭いしかしない、どうしようもない状況―そんな中にいる奴は、それでも足掻き続けなきゃいけない。フタをするなって、引っ張り上げてくれって、声を上げ続けなきゃいけない。それが…どんなに惨めで、望みがないとしても」



 そして繁雄に背を向け、



「その闘いを放棄する奴に、僕は謝りたくない」



 そう言って、カラ、コロ、とゲタを引きずり、すぐそこの角を曲がって千十世は去った。



「…何やったんや、一体…」



 緊急参戦のため事態をさっぱり呑み込めない角井さんは、そう呟いて繁雄から体を離した。繁雄が脱力しきっていて、これ以上騒ぎを起こさないだろうと判断したのだ。


 角井さんの呟きにも、周囲のどよめきにも、繁雄は全く気が向かなかった。


 平行線だ、と思った。


 今でもやっぱり、千十世があの少年に向けて放った一言を許すことはできない。


 だが―千十世は千十世で、何か譲れないものがあるのもわかってしまった。



(あいつ…何ちゅう顔しよるんや……)



 最後に見せた千十世のあの表情を、繁雄は反芻した。幽霊の方がまだマシかもしれないと思うほど、得体のしれない不気味さがあった。普段へらへら笑っているのは、ともすればあんな一面を隠すためなのかもしれない―。


 そうした考えに沈んでいると、その背後でザッと足音がした。



「…おい、シゲ坊。これは一体何の騒ぎや?」




   ◇◆◇




「…どう? 落ち着いた、かな?」



 なずなはようやく泣き終わり、鼻をスンスン鳴らしている少年にそっと声をかけた。


 少年―名を高橋というのだと、辛うじて口にした―は目を乱暴にこすりながら、小さくひとつ頷いた。


 千十世を追いかけて嵐のように繁雄が飛び出して行った後、高橋少年はひたすら泣きじゃくった。それは今まで誰にも言えないで溜め込んでいたフラストレーションの爆発でもあった。なずなは泣き声と共に発散される彼の思いのたけをぶつけた言葉を、否定せず、手を握って優しく頷きながら耳を傾けた。



「…辛かったやんね。よう、今まで我慢してきたね」



 柔らかな毛布で包むようにかけられたなずなのその言葉に、高橋少年の瞳はまた潤んだ。


 カウンター席で話を聞いていた和希は、それまで何とかこらえていたが遂に耐え切れず、「あ゛ーーー!!」と奇声を発し、両手で頭をわちゃわちゃとかき乱した。



「あーもうなんなん?! 教科書にガムとか落書きとか机ないとか、先生もグルになっていじめしとぉとか…ありえへんし米図小!! 許されへん!!」

「ちょちょちょ、ちょっとかっちゃん、どこ行くん?」



 ずんずんと戸に向かって歩いて行く和希を、慌ててなずなが止める。怒りで血が頭に上っているらしく、大きくクリクリした瞳が今は兄のようにキツく吊り上っていた。



「今からそいつら殴りに行く!」

「ダメーーーーーーーーーーー!」



 叫んだ勢いでバランスを失い、なずなは椅子からものの見事に滑って落ちた。その見事な間合いに、カウンター席に座っている美也が拍手を投げかける。



「あいてて…かっちゃん!」盛大に打ち付けた腰をさすりながら、なずなは精一杯厳格な顔をする。「女の子がそんな危ないコトしたらあきません! それに今夏休みやから! 行ったところで誰もおらんから!」

「あ、そっか…ちぇっ」



 それを受けて、しぶしぶと席に戻る和希だった。何とかこの爆弾娘を押し留めることに成功し、床に正座してほっと一息吐いているなずなの耳に、クスクスという笑いが響く。



 彼女がはっと高橋少年の方を見ると、彼は恥ずかしげに俯いた。だけどやっぱり一連の出来事が面白かったらしく、顔を綻ばせる。



「おねえちゃんら、おもろいな。……僕、こんなん、ひさしぶりや」



 こんな些細のことで心から喜ぶ高橋少年を見て、なずなは自分まで泣き出しそうになってしまった。それを必死で堪えていると視界の端で、美也がカウンター席から、ぴょん、と飛び降りるのが見えた。


 美也は小さな足でてくてくと歩いて行くと、高橋少年の隣のテーブル席に座った。そして精一杯その手を伸ばして、彼の髪を一生懸命撫でた。



「あんな、ミヤがこわいゆめ見ると、おにいちゃんこうしてくれんねん。そしたらな、こわいゆめどっかいくねん。やからな、だいじょぶ」



 幼く、たどたどしい美也の言葉には、それでも真心が詰まっていた。受け取った高橋少年の鼻が、また赤く、グズグズと鳴り出す。なずなは微笑みながらその光景をしばらく見守っていたが、立ち上がってテーブル席に座りなおすと真正面から少年を見つめた。



「なあ、よかったら…また八奈結びに来ぉへん?」

「え…?」



 突然の申し出に、高橋少年は目をぱちくりさせた。柔らかく笑いながら、なずなは続ける。



「米図小の子やったら、ちょっと遠いかもしらへんけど…なんかあったときにはな、話くらい聞くことはできるで?」

「せやで! なんやったら一緒にやり返したるし!」

「かっちゃん!」



 和希の横やり(本人はいたって真面目)を一喝し、なずなは咳払いして話を戻す。



「…うちもな、わかるで。誰にも…それがお父さんとかお母さんとかやったら余計に……その、知られたないっていうの。でも、嫌な気持ちは吐き出さんとあかん。うちでよかったら、いつでも話聞くから。せやから、おいで」



 気弱ななずなには、いじめられていることを誰にも打ち明けられない少年の気持ちが理解できた。少年ほど深刻ではないにしろ、ドジな彼女は小・中学生の時にはよくからかわれて嫌な思いをした経験も多々あった。


 だけどその時は、繁雄が彼女の代わりに怒鳴り、千十世が悪態を吐いてくれた。今よりうんと幼かった和希と美也も、明るく励ましてくれた。今少年に必要なのは、そういう拠り所なのだ、となずなは直感していた。


 高橋少年の目頭が熱く潤み、こらえていた涙が幾筋にもなって頬を滴った。だが今度は泣き喚くことはせず、思い切り頭を下げた。




   ◇◆◇




 夕暮れの茜色に、八奈結び中が染まっている。


 とりあえず今日のところは高橋少年年を帰すことにしたなずなは、再び北村さんの店を一緒に訪れた。盗った消しゴムは既に返していたが、もう一度きちんと謝りたいと彼が言ったのだった。だが訪ねた時には北村さんは留守にしていて、店には鍵がかかっていた。



「ほしたら、僕、また明日来ます。今日はとりあえず…帰ります」

「…ひとりで、大丈夫?」

「平気です。チャリで来てますから」



 心配そうに尋ねるなずなに、高橋少年ははにかむように笑って答えた。そこにはまだやはりぎこちなさがこびりついていたが、それでも最初黙秘を決め込んでいた時よりは大分心がほぐれているようだった。



「何かあったら、すぐ電話してな? 夜中でも大丈夫やからね」



 見送りはここまででいいと言うので、最後になずながそう念押しして、ふたりはそこで別れた。


 高橋少年はいつまでも自分を見送り続けてくれているなずなに手を振りながら、おぼろな記憶を辿って公園に通じる角を曲がった。


 着いたときにも増して、その通りは閑散とし、夕日を赤黒く映しだしていた。なずなと別れた時には周囲に取り巻いていた買い物客のざわめきも、通りを進むにつれて背の向こうに小さくなっていく。足元から這い登ってくる不気味な焦燥感にぞくりとして、高橋少年はすぐ先に見える公園へと走って行った。


 遊具の殆どないさびれた公園だったが、そこに自分の自転車がきちんと停まっているのを見て、高橋少年は内心安堵した。そして、中に入ったところで気づく。他の自転車もまだ、隣に並んでいる。



「え―」



 目の前の光景の意味に気づくより先に、彼は両腕を突然何かに絡め取られた。



「な、なんや?!」



 慌てて左右を確認すると、それは彼と共に文房具屋へ万引きに入ったいじめっ子の二人が、高橋少年のそれぞれの腕をがっちり押さえている。


 突然の事態に、彼はただただ従わなければならなかった。左右の二人に引きずられるまま、小さな公園の奥にどんどん連れて行かれる。



「おー…遅かったやんけぇ」



 ドーム状滑り台の影から姿を現したのは、野球帽だった。他の仲間たちもそれに合わせてぞろぞろと出てくる。



「なん、で…?」



 文房具屋に誰もいなかったのを見て、彼はすっかりいじめっ子たちは既に帰ったものと思い込んでいた。その甘い見通しを嘲笑うように、野球帽は少年の正面に立つと、軽くその頬をはたいた。



「った…!」

「いやぁ、待ちくたびれたでぇ? あの後わりとすぐにオッサンから解放されたんはよかったけど…ほら、お前どっかに連れていかれたやん? いやーもー心配で心配で…」



 野球帽ははたいてそのままにしていた右手で、乱暴に少年の顎をがっちりと掴んだ。夕日の中逆光になっているその顔をずい、と高橋少年の前に突き出して、野球帽は続ける。



「お前…何も余計なこと言わんかったよなぁ…?」

「……!」



 今日一日、この商店街で出会った人々が満たしてくれた温かい安らぎが、その一言で高橋少年の中から消え失せた。野球帽は全てお見通しといった調子で、左の拳を高橋少年の鳩尾に突き付けると、微妙な力加減で、ぐりぐり、とねじる。左右から動きを封じられている高橋少年は、逃れる術がない。



「おい、早よ何とか言えや…」

「う、うう…僕は……」



 何も言ってない―その言葉が、のど元までせり上がった。


 それを言えば、とりあえずこの場はしのげる。二・三発は食らうかもしれないが、それ以上酷い目には合わないだろう。少なくとも、野球帽がにじりにじりと押し上げてくるこの威圧的な恐怖から、取り囲む他の連中の圧迫感から、逃れることはできる―




『じゃあ君は―』




 その時、鋭い痛みと共にその言葉は彼の脳裏に蘇った。


 それを聞いたのはつい先ほどの事だった。

 それは無慈悲な宣告で―事実だった。


 あの人は、こう言った。




『一生そのままだね』




 ―おぞましい寒気が、脊髄を駆け上った。


 目の前のこいつらに、こうして、付き纏われ続ける―暴力を振るうためのサンドバックにされ、暇つぶしのために嘲弄の的にされ、犯罪の片棒を担がされ、挙句の果てに全てをなすりつけられる―。それでもどうにか耐え抜いて行けば、いつか終わりがくるだろうと思っていた。それよりもこんな情けない自分を、誰かに―父と別れ、仕事ばかりで疲れている母親には、見せたくなかった。


 だけど―本当に?

 本当に、終わりなんかあるのか?


 卒業しても、奴らと縁が切れなかったとしたら?


 いや、仮に切れたとして―同じような奴らが、現れてしまったとしたら?



(―嫌だ…)



 その考えに、高橋少年は到底堪えることが出来なかった。そして気づいた時には、小さく開いたその口から、ぽつりと呟いていた。



「……て」

「あ?」



 訝しげに聞き返す野球帽に構わず、高橋少年は思い切り空を仰いだ。涙も、鼻水も盛大に垂れ流しながら大声で、



「助けてええええええ! 誰かああああああああ!」


 

 喚いた。


 長い間腹の奥底に押し込んでいたその言葉を解き放った以上、もう歯止めなどは利かなかった。彼は声の続く限り絶叫し、必死に助けを求めた。無理な声の出し方をしたせいでどんどん喉が荒れてしゃがれていくのも、厭わない。


 高橋少年を取り囲むいじめっ子たちは最初こそ呆気にとられていたが、その様を見て囃し立てた。野球帽は後退して、わざとらしく腹を抱えて大笑いする。



「あっははははは! お前…バカとちゃうか! なっさけねー!」

「そんなんで誰も助けに来るはずないし! みっともなー!」

「だよねぇ?」



 嘲笑の中に混じる異質な相槌に気づいたのは、野球帽だけだった。他がまだ少年を笑い続ける中で野球帽が振り返ると同時にパシャ、というシャッター音が響いた。



「そうだよ、みっともない。情けないし、バカみたいだ」



 そのときになって、他の連中もようやく気づいた。


 公園には入り口が二つあって、少年達が出入りしたように商店街側に接続している。もう片方はその反対側に位置していて、通りの少ない車道に面している。


 そいつは、そっちから歩いてきた。


 カラン、とゲタを鳴らしながら。

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