第1話①
夏の日差しが、八奈結び商店街のアスファルトを焦げ付かす。
アーケードもない商店街の通りをじりじりと熱して、向こうを見渡そうとすれば像が姿をゆらりとくゆらす。午後三時を過ぎた頃、涼しい夕風を期待するにもまだ少し遠い時間帯。
それでも微かな風が、どこかの店先の風鈴を鳴らした。呼応するように、あちこちで軽やかな音色が立ち上る。遠くに聞こえる蝉の合唱と相まって、ちょっとした演奏のようになる。
駄菓子屋の主人の小東さんが、うちわを仰ぐ手をゆっくり止めた。ふと見やれば軒先に吊るした小さい『氷』の掛け軸が、ほんの少し揺れて、じきにまた動かなくなる。小東さんは首にかけた白い手ぬぐいで、こめかみから垂れてくる汗をぬぐってから、よっこらしょ、と掛け声をつけて立ち上がった。
もうしばらくすれば、授業を終えた小学生たちが商店街を賑わせに来る。彼らは家にランドセルを置くと、また外へと遊びに繰り出す。その中には、小東さんのかき氷を食べに来る子らもいる。小東さんの皺だらけの手で丁寧に削られた氷は、いちごかレモンかメロンのシロップが掛けられる。どれも子どもたちには大人気である。
小東さんが一日で一番忙しい時間帯へ向けて準備をしようと店先に出ると、果たして一番の常連が、向こうから走ってくるのがぼんやり見えた。頭の上に左右に結わえた髪をなびかせて、いつものように元気いっぱいに駆け回る姿を、小東さんはよく知っている。小東さんだけじゃなく、八奈結び商店街の、誰もが彼女を知っている。
「おぉい、かっちゃん。今日は氷なんにする」
その少女が聞こえるようなところまで来て、小東さんは声を張り上げた。でも少女は足を止めず、小東さんの前を走り抜けた。そのまま顔だけ振り向かせて、笑って見せた。
「今日な、いそがしいから要らへん!」
そして、ランドセルの冠をバタバタ言わせたまま、少女は通りを左に曲がっていった。
笑いながら、小東さんは溜め息を吐いた。あの娘が忙しいなんて言う時には、決まってひと騒動起こるのだった。
大ごとにならなければいいが……ひっそりそう祈る小東さんの耳に、どこかで水打ちする音が聞こえてくる。
まだ始まったばかりの夏が、八奈結び中を照らしている。
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湯がよく煮えている。
勢いよく立ち上る白い湯気、その向こうからちらちらと覗く水面のそのさらに向こうには、白く細く長いものが無数、沸き起こる湯の対流に揺られ踊っている。麺である。そのいずれもが一秒ごとに艶めきを増し、掬いあげられるのを心待ちにしているかのようにも見える。
繁雄は、その麺の声に耳を傾ける。実のところ、それがどういうことなのかはまだよくわかっていない。半年間教えを仰いだ師匠から与えられた言葉だったが、繁雄自身が師のように実感を伴ってそれを理解するにはまだ何年もの歳月が要されることだろう。
それでも、麺を湯から引き上げるタイミングは大分掴めるようになってきた。うどん屋を継ぐ、と決心した時の右も左もわからない状態から、実際短期間で繁雄はよく精進した。少なくとも、うどんを食べたいと思った客の腹をそれなりに満足させられるようなものを作る程度の実力を、その両腕につけたのである。後はひたすら、経験を積み重ねるのみだった。
頭に巻いた手拭いの結び目が緩んでいるのに気付き、繁雄はきつく結びなおした。
次の瞬間、その右手は吊り下げてあったてぼに伸びている。
取っ手を掴むや大鍋の中を悠々と湧き立つ湯の中に沈め、てぼの網の内に手早く麺を納めていく。ぬかりなく全て入れ終えると、繁雄は背後の流し台へと身を翻した。わずか半歩、何ら淀みのない動作である。
ざるは既に用意されていて、その上に静かに麺を滑らせると同時に、繁雄は蛇口を捻る。勢いよく水が流れ出し、湯がきあがったばかりの麺の身を締めていく。
繁雄はその中にそっと指を入れ、撫でるような手つきで混ぜ、麺をまんべんなく流水に晒した。その大きな指先のひとつひとつに、細心の注意がこめられていた。こうした日々の荒行に痛むことなく、繁雄の指は十七の少年に相応の弾力を持っていた。
そうして過不足なく水に晒し、麺が程良く仕上がったのを見計らって、繁雄は蛇口を閉める。
その時、
「ただいまぁ!」
店の戸がけたたましく開いたかと思えば、明るすぎるほどの声が狭い店内に響いた。




