第70話 舞踏会の夜に
「そろそろ、あっちも終わる頃かな?」
こくんと首をかしげて笑った樹生先輩は、もういつものちゃらっとした甘い微笑み。
「あっちって……」
「ダンパだよ。十九時にはお開きのはずだからそろそろだろ」
そう言って腕時計で時間を確認する先輩を覗きこめば、時計の針は十八時半をさしていた。
「ちょっと様子見てくるけど、陽も行く?」
「えっと、はい……」
別に行ってもダンパの会場には入れないけど、やっぱりちょっとはダンパに興味があって、誘われて頷いていた。
先に立った先輩の横で、私も階段から立ちあがる。それから階段を下りて、教室棟と渡り廊下を繋ぐ扉から外に出て、ダンパ会場の体育館へ続く渡り廊下を進む。
「ねえ、陽」
振り返りにこりと笑った樹生先輩はたれ目をさらに下げて、いたずらを思いついたような無邪気な表情をしている。
「折角だから、ダンパ会場に潜入してみようか?」
「潜入って」
言い方がおかしくて、つい笑ってしまった。
きっと、普通に誘われてたら断っていたと思うけど、好奇心いっぱいに瞳を輝かせて無邪気な笑顔を向けられたら、なんだか悪巧みに乗ってもいいかなって気分になってしまった。
「いいですよ」
はぁーっと吐息と共に返事をする。
「こんな機会ないですし、やっぱり私もちょっとダンパ、気になってたんです」
だって、業者が入って飾り付けた会場内は中世の舞踏会のように華やかだっていうし、音楽もオケ生演奏だっていうし。三年に一度の開催じゃ、機会はこの一度っきり、高校生活で今日のこの日限りなんだよ。
あと三十分もしないでお開きというのも私の背中を押して、先輩の提案を受け入れていた。
受付を通って中に入ると、心地よい音色を奏でるオーケストラが壇上にいて、壁際に並べられた長テーブルには豪華なご馳走。中央では男女がくるくると楽しそうにステップを踏んでいる。
「わぁ~~……」
あまりに華やかな会場に、思わず感嘆のため息がこぼれる。
これは想像以上っていうか、すごすぎる……
人生の中でこんな規模のダンスパーティーなんて、一般家庭で育っている限りそうそう体験できないだろう。
すごいとしか言いようがない。
隣に立つ樹生先輩も目を瞬いて驚いているのが伝わってきた。
私の視線に気づいたのか、こっちに振り返った樹生先輩が、優雅に一礼して手を差し伸べる。
「お姫様、一曲お相手願えますか?」
わざとらしく気取った口調で言われて、でも悪い気はしなくて。
「私、お姫様なんかじゃないから、ダンスなんてへたくそで、樹生先輩の足踏んじゃうと思いますよ?」
ちょっと拗ねた口調になってしまう。
いちおう、ダンパ対策として体育の授業でワルツの時間が二回ほどあったけど。あんなちょっとやっただけじゃ上手く踊れる自信なんてない。
なのに、樹生先輩はそんなこと気にしないっていうように、相変わらず甘い笑みを浮かべたまま。
私は視線を彷徨わせて、それから思い切って樹生先輩の手に手を重ねた。
ううん、手を重ねようとして、後ろからすっと伸びてきた腕に腰を絡め取られて、強く抱きしめられる。
出した手は空をかいて、先輩との距離が広がる。
「…………っ!?」
驚きで声にもならなくて。振り仰げば、必死な形相をした翼がいた。
「陽があんたを好きだとしても、俺は陽を渡すつもりはないから――」
静かな、だけど威圧的な声音で言った翼に私は、一瞬、頭の中が「はっ!?」ってなる。
慌てて翼の視線の先を見れば、針のように鋭い視線を樹生先輩に向けている。
ぎゅっと体に巻きついている翼の腕をほどくようにもがくと、翼は若干狼狽えながらも腕を離してくれたから、私はくるっと体を後ろに振り向かせ翼を真正面から見上げ、怒鳴っていた。
「何言ってんの!? 先輩に失礼なこと言わないでよっ!!」
樹生先輩はちょっと、いやかなり?? 態度はちゃらちゃらしてるけど尊敬できる人で、私が弓道を始めたきっかけになった人で、私が悩んでいる時もさりげなく話を聞いてくれて。
とにかく、翼が樹生先輩のことを威嚇するみたいに睨んでるのが気に食わなくて、私も負けじとキッと鋭い視線で翼を睨み付ける。
なんなのよ、突然、現れたと思ったら。なんなのよ……
じわっと目尻に涙が溢れてきそうになるのを必死にこらえて、ただ翼を睨む。
不意に視線がそらされて、翼が決まり悪げに横を向くから、気勢がそがれてどうしたのだろうと思ったら、次の瞬間には腕をとられてぐいぐい歩き出すから、私は前につんのめるように引きずられる格好で。
「ちょっ、なに……!?」
「いいから、来て……」
突然のことに声が裏返ってしまう。だけどそんな私に負けないくらい、翼の声も動揺して掠れていて、なんだか切なくて、腕を振りほどくことが出来なかった。
あっ、樹生先輩……
慌てて振り返れば、なんともいえない表情で微笑んで、軽く手をあげて振っていた。
にぎやかな会場を抜け出し、渡り廊下を教室棟に続く明るい方ではなく、反対へと進んでいく。
私はただ翼に腕を引かれるまま歩きながら、さっきは聞き流した翼の言葉が今頃になって甦ってくる。
『俺は陽を渡すつもりはないから――』
それってどういうこと……?
期待してしまいそうな甘い魅惑的な言葉に、心が絡め取られる。
体の芯がうずいて、とろけてしまいそうで、でも同時に聞き間違えじゃないかって不安が襲ってくる。
期待と不安に挟まれたまま、ふわふわと夢心地で腕を引かれるまま渡り廊下を進んでいった。




