第57話 私の嫌いな人
後ろでまだいろいろ文句を口にする彼女達のなかで、始めに話したショートカットの子と石井さんは何も言わず、なにか言いたげな視線で見てるだけだったのが少し気になった。
もしかしたら二人は、憧れとかじゃなくて本当に翼を好きなのかもしれない。
好きだから、口にできない想い……
身につまされて、体の奥からビリビリと痺れて胸が苦しくなる。
ため息をついて、校庭側から昇降口に向かって歩いていたら、バシャっという水音が聞こえて私の視界が真っ白になった。
ぽたっ、ぽたっと水滴が滴る音を聞きながら、私は何が起きたのか理解できなくてその場に固まった。
くすくすと嘲笑うような女子の笑い声に、濡れて額に張り付いた前髪をどけながら上を見上げれば、窓から顔を出した女子数人がくすくすと笑っていて、その手にはバケツが握られていた。
「いい気になってるからよ」
耳に聞こえた言葉に、心臓がぐちゃっと音を立てた。
目の奥がきゅっと浸みて、溢れそうになる涙をこらえるように俯いた。
濡れてるのは前髪だけじゃない。頭も制服もビショビショだった。
差し込む日差しとからっとした空気に、少し感謝した。
これが冬場だったら寒くて身を震わせただろうけど、暑かったから濡れて涼しくなってちょうどいい。服が体に張り付くのがちょっと気持ち悪いけど、この天気ならすぐに乾くだろう。
こんなのどうってことない――
そう思っていないと泣きそうだったから、私は強がって顔をあげて、制服の裾と髪の毛を絞って昇降口に駆け込んだ。
少しは水けをきったとはいえ、まだ体からはぽたぽたと水滴が垂れてて、そんな恰好で教室に入ったものだから、私の姿を認めた千織ちゃんが驚いた声をあげて駆け付けてきた。
「陽ちゃんっ!? どうしたの……っ」
「んっと、極地的豪雨にあって?」
考えながら言った言葉に、千織ちゃんは一瞬目を見張って泣きそうに顔を歪める。
「ごめん、私も一緒に部室までついていけばよかったね……」
疑問形の私の言葉だけで、だいたい何があったのか察してしまった千織ちゃんはごめんねって謝ってくる。その優しさが胸をついて、我慢していた涙が溢れそうになるから私は笑って言う。
「だから雨だったんだよ、謝らないでよ、千織ちゃん……」
雨じゃなくて翼か春馬を好きな子が嫌がらせに二階からバケツの水を私にかけたんだけど、雨ということにする。彼女達がやったことを許したからじゃなくて、千織ちゃんに負い目を感じてほしくなかったから。
「あれほど気をつけてって言っていた私が気を付けるべきだった……」
そうこぼす千織ちゃんに大丈夫って笑いかける。
「とにかくそのままじゃ風邪ひいちゃうから保健室行こう」
千織ちゃんがそう言って扉の方へ促されて扉に行こうとしたら、ちょうど扉から春馬と翼が教室に入ってきたところで視線があった。
瞬間、翼の眉間にぎゅっと皺がよって不機嫌オーラが醸し出される。物言いたげな険しい表情で私をじっと見据えて近づいてくる翼から、私は反射的に視線をそらしてしまった。
「陽」
視線を逸らした私に翼が声をかけてきたけど。
「千織ちゃん、行こ」
翼を避けるように体ごと背けて廊下へと出た。
私に続いて廊下に出た千織ちゃんがちらっと振り返ったけど、私は振り返らなかった。
表情は不機嫌そうだったけど、心配して駆け寄ってくれたのが分かったから、だから余計に翼と顔を合わせたくなかった。
大人数で取り囲んで翼に近づくなって言った彼女達に気をつかってるわけじゃない。
今すごく情けない顔をしていそうで、そんな顔見られたくなかった……
結局、保健室でジャージに着替えて五限目は遅刻していって、六限まで普通に授業を受けて、放課後は担任の挨拶を終えると一目散に教室を飛び出した。
部室についてすぐ、『今日は部活のミーティングで遅くなるから待ってなくていい』と翼にメールした。
袴に着替え終わって、胸の中にぐるぐる渦巻く気持ちに服の上からぎゅっと心臓を押さえる。
春馬のことは好きだし、その気持ちがちゃんと隠せていなかったのかもしれない。でも、春馬と杏樹が別れたのは 私のせいなの?
杏樹は私に春馬をとられたくないって言う前に春馬に言うことがあるんじゃないの?
翼が女子の誘いを断るのは私のせいなの?
翼がいう“好きな子”っていうのは杏樹なのに?
春馬に好かれて、翼にも好かれて、それでも不安になって春馬を疑って、他の男子と出かけて、友達にも庇ってもらって……
杏樹は欲張りだ。
杏樹に対して苛立つ気持ちが抑えられなくて、それと同時に妬ましくもある。
だって翼はそんな杏樹のことが好きなんだ。
そう思うと胸がなにかにぎゅっと押されたように苦しくて、あまりにも締め付けられて、ぶちっと張り裂けた音がした。
翌日、いつも通り朝の電車に乗った時、メールの着信を知らせて携帯が震えた。
送信者が翼だと確認して、その時はじめて翼が今日はいないことに気づく。
痴漢騒ぎ以後、毎日律儀に朝も帰りも送ってくれていた翼がいない。
車内に視線を巡らせてから携帯を開くと。
『寝坊。もう、朝も帰りも送らない』
絵文字一つない、素っ気ない文面に、ビリッと冷たい電流が体中に流れる。
なんなの……っ
苛立ちと、それとは違う気持ちに胸の奥が痛む。
学校についてみれば、ほどなくして翼が教室に現れて、一本後の電車ぐらいだったら待ったのに、ってちょっと 残念がっている自分に突っ込みを入れる。
別に、一緒に登校したいわけじゃないし。
翼が勝手に送り迎えするって言いだしただけだしっ!
「翼、おはよう」
もやもやする気持ちを誤魔化すように笑顔で翼に挨拶したら、すっと視線をそらして翼は近くにいた男子に声をかけた。
「今日のリーダーやったか?」
「やってねぇよ~」
男子と話しながら私を前を通り過ぎていく時、翼はちらりとも私をみなかった。
なんなのぉ……?
喉の奥がぎゅっと握りつぶされて、涙が溢れそうになるのを唇に力を込めて堪える。
昨日、避けたのは私だけど。また翼の態度が一変して冷たくなって、戸惑わずにはいられない。
翼が急に不機嫌になるのはいつものことだって分かっているのに、よくわからない翼の態度にどうしようもなく切なく胸が締め付けられた。
その後も翼に話しかえようとすると無視されて、イライラが募ってくる。
翼なんか嫌いだ――っ




