第54話 不器用な距離感
ガタゴトと揺れる電車の中、頬が翼の胸に当たって上気してくる。それを誤魔化すように私は窓の外に視線を向けた。
翼は私の部活が終わるのを待って一緒に帰っただけでなく朝も迎えに来てくれた。というか、同じ沿線に住んでいるから、翼が私の駅で一度降りて待っていてくれる。それだって一本早い電車に乗らなきゃならないんだから面倒だろうに、「待ってる」ってメールが届いて、宣言通り翼はホームで私を待っていてくれた。
学校に向かう電車は、朝の通勤通学時間だからというのもあって、ぎゅうぎゅうの満員電車。その中で、翼は私を庇うように立ってくれて、空いたドア側に誘導してくれたんだけど……
ドアに背を向ける私の前に立つ翼とは、密着するような距離感で、近すぎて心臓が爆発しそうに煩い。
近すぎるけど、身動き取れないくらい満員電車なんだから仕方ないんだろうけど……
それでもドギマギせずにはいられない。
ふっと鼻先に香るグレープフルーツのようなすっきりとした柑橘系の匂いに、体中がしびれる。なんかいい匂いすると思ったら、翼って香水なんてつけてるんだ。
こんなに翼の近くにいるのは初めてだ。
そう思って、以前、翼の家に行ったときにもっと近く、息もかかりそうなほどの距離に翼の端正な顔が迫ってきたことがあったと思い出して、嫌なくらい顔が赤くなって俯いた。
いまはお互い普通に立っているから私の顔は翼の胸の位置で、翼がそんな表情しているのか見えないのが救いだった。だって、私から見えないってことは、翼からも見えないってことだから。
電車がカーブを曲がり車内が大きく揺れて、とっさに踏ん張れなかった私の肩を翼の大きな肩が掴むから、ドキっと大きく心臓が飛び跳ねる。
「大丈夫か?」
「うっ、うん……」
動揺して声が裏返っちゃことがすごく恥ずかし。
翼の意志の強い瞳が私をじっと見降ろしてくるから、その視線から逃れるように慌てて俯いて、ばくばくいう心臓を服の上からぎゅっと強く抑えた。
これはただ驚いたから。
男子に免疫なくて、翼が近すぎたから……
瞼を閉じて、自分に言い聞かすようにして、それから細い吐息を吐き出した。
つい昨日まではほぼ無視だった翼が、送り迎えしてくれるようになった。いまだって、学校に向かう通学路を歩く私の隣には当り前のように翼がいて、他愛無い会話をぽつぽつと交わしている。
ギクシャクしてたなんて思えないくらい……
昨日まではあんなに不機嫌そうだったのに。やっぱり翼の怒りポイントは私には理解できない。そう思おうと同時に、いま私に優しくしてくれるのも翼の気まぐれでしかないんだって思ったら、胸の奥がぐちゃっとなった。
翼が好きなのは杏樹なのに――
あんなに切なげで苦しそうな視線を向けて、焦がれているのに。
通学で使う路線に痴漢が出たからって、偽物の彼女の心配して送り迎えするとかしなくていいのに……
教室について自分の席に鞄を置くと、すでに教室に来ていた千織ちゃんが私の側にやってきた。
「おはよー」
「おはよ、千織ちゃん」
肩をすくめて挨拶を返した私、千織ちゃんはちらっと視線を横に向けてから、ちょっと屈んで顔を寄せて小声で話しかけてくる。
「なんで宇野君と一緒? 下駄箱で偶然あっただけ?」
「えっと……」
私は言うべきかどうか迷って視線を天井に彷徨わせ、それから千織ちゃんには言ってもいいかと思って説明した。
「かくかくしかじか……痴漢のことで心配してくれてるみたいで送り迎えしてくれることになって」
「はっ? なにそれ!?」
千織ちゃんにつられて小声で説明した私に、千織ちゃんはあからさまに不愉快そうに眉根をぎゅっと寄せて大きな声をあげるから、ビックリしてしまう。
「ね、心配とかいいのにね、偽物の彼女なんだから」
興奮している千織ちゃんを宥めるように小声で言ったら、千織ちゃんが振り返ってギロッと鋭い視線を翼が座っている席に向けるから、私は瞠目した。普段ひょうひょうとしている千織ちゃんが声を荒げるのも、こんな怖い視線を向けるのも初めて見るから。
「なんなのよそれ、送り迎えとか……、ほんと余計なことするなってのよっ!」
翼から視線をそらして、忌々しげにちっと舌打ちした千織ちゃん。ちょっとキャラ変わってない……? ってか、ガラ悪いよ……
私に向き直った千織ちゃんは、私の手をぎゅっと力いっぱい握りしめて心配そうな視線を向けてきた。
「陽ちゃん、ほんっと、気をつけなよっ!!」
えっと、なにに……?
翼の怒りどころも理解できないけど、千織ちゃんの忠告も曖昧すぎて意味が分からない。
だけど、その忠告がいつもいつも的確だってことは、後になって思い知る……、私って学習能力ないなぁ……
なんだか変なきっかけで翼といままで通りになって、教室でも普通に話しかけてくるようになったし、メールも昨日から来るようになったし。これが翼の気まぐれだってわかっていても、ギクシャクしているままよりはましってちょっと浮かれていたら、四限が終わる直前に携帯が一通のメールの着信を知らせた。
『話があるから、お昼に屋上に来て』
今日は金曜日。
それは杏樹からの呼び出しのメールだった。




