第39話 裏切りの彼女
「杏樹の態度が最近よそよそしいんだ」
既視感を覚える言葉に、胸がざわりと煩くなる。
「メールしてもあまり返事こないし、電話もぜんぜん出ないんだ」
それってノロケですか……とか突っ込んじゃいけないよね?
ボックス席の向かい側に座った春馬は切なげな表情で、声は掠れている。その深刻な雰囲気に声がかけられない。
「誕生日も用事があるって断られて一緒に出掛けていない……」
そんなの聞いていない……
試験明けの杏樹の誕生日は一緒に過ごしたとばかり思っていた。だって、恒例の金曜日ランチの時は、二人ともいつも通り仲良しだったし……
そこまで考えて、なにか引っかかるものを感じる。
そういえば、春馬に一緒に出掛けようって誘われたのはいつだった……?
「杏樹に、好きなやつがいるみたいなんだ――、他の男と一緒に出かけてたって噂になっているし、俺も見たんだ……」
「知らない……、私はそんな噂聞いたことないよ……?」
杏樹が春馬以外に好きな人がいる――?
そんなこと信じられなくて、声が震える。
私の言葉に、春馬は苦しそうに唇をかみしめて視線を斜めに落とした。その表情をからは春馬が嘘を言っているとはとても思えない。
でも、杏樹の噂なんて私は知らないよ?
杏樹とは二年になってクラスが端と端に分かれちゃって学校で会うことはほとんどないけどメールのやりとりは頻繁にしているし、そういう話は聞いていない。
私自身、噂話に詳しい方じゃない。だからその噂の真相がどうなのか詳しくは知らないけど、一つだけはっきりと分かることはある。
「杏樹が浮気なんてありえないよ。杏樹は誰よりも春馬を大切に想ってるよ?」
春馬を安心させるために口にした言葉。私だって杏樹に限ってそんなことないって信じてる。自分の言葉に胸がじくじく痛むけど、辛そうな春馬を見ている方がもっと痛いから必死で言葉を紡ぐ。
「もしも杏樹が他に好きな人がいるなら、そんな隠れてこそこそしたりしないと思う。きっとなにか事情があるんだよ。杏樹は春馬一筋だよ」
慰めの言葉に、春馬沈痛な面持ちで俯いている。
「ねえ、ちゃんと杏樹に聞いてみた方がいいよ?」
「怖くて聞けねーよ……」
少しの沈黙を挟んでやっと聞こえた春馬がの声は、絞り出すようなか弱い声で胸がキリキリと痛む。
「私が杏樹に確かめるから。だからそれまで、春馬は杏樹を信じていてあげて。杏樹は絶対に浮気なんてする子じゃないよ」
きっぱりと言い切った私に、やっと顔をあげた春馬は泣きそうなのを堪えるような切なげな表情で笑った。
その笑顔が切なくて胸にしみるのに、その笑顔が自分にだけに向けられていることに、どこかで喜んでいる自分がいて苦しくなる。
春馬が私に、たまには二人で出かけようって言った理由がこれだったのだ。
杏樹に春馬以外の好きな人が出来たという噂、それだけでなく男子と一緒に出掛けているのを見かけて、春馬は杏樹への不信感を抱き始めていた。きっと誰にも相談できなくて、一人で抱え込んで悩んで苦しんで、私に相談したかったのだ。
杏樹が浮気などしないことは分かっているのに、春馬に頼りにされたことが嬉しくて。どこかで、このまま杏樹と春馬が別れてしまえばいいと思っている自分がいて嬉しさと後ろめたさ、矛盾した気持ちに罪悪感が募る。
杏樹が春馬を裏切っていないことを祈りながら、どこかで噂が真実だったらいいと思ってしまう。
好きな人の幸せを願えないなんて――春馬への気持ちの限界を感じずにはいられない。
ただ私は祈るような気持ちで、杏樹にメールをした。
※
春馬に相談されたその日のうちに、私は杏樹にメールした。
『話したいことがあるから、会えない?』
とにかく直接顔を見て話がしたかった。春馬にあんな悲しそうな表情はしてほしくなくて、一つの真実も見落とさないように。
お互いの都合がいい日、久しぶりに家に遊びに来てという杏樹の提案で私は杏樹の家へと向かった。
約二週間ぶりに会い、夏休みのことなど他愛もない会話を少しして、私はさりげなく本題を切り出した。
「最近春馬と会ってる?」
春馬の名前を聞いても、杏樹はぎこちなくなることもなくいつものふわふわの砂糖菓子みたいな可愛らしい笑みを浮かべてはにかむ。
「んー、最近はあんま会えてないけど、メールは毎日してるよ」
「春馬が杏樹に会えないって寂しがってた」
「そうなんだ? 学園祭の準備が始まって忙しくて、後で電話してみる」
杏樹の部屋の窓際、小さなテーブルを挟んで座っている私はにっこり笑いながら話す杏樹をまっすぐに見つめる。
去年、学祭前に杏樹が調理部の準備で忙しそうに駆け回っていた記憶があるから、春馬と会っていないのは学祭の準備が忙しいという理由で嘘はないのだろう。
千織ちゃんをまねて、杏樹の表情から真実を一つも見逃さないように頑張ってみる。
いつもと変わらない杏樹の態度に、やっぱり春馬以外に好きな人が出来たとは思えない。
「杏樹が春馬以外の男の子が好きって噂が流れてるの知ってる?」
「えっ!?」
私の質問に、驚きの声をあげた杏樹をじぃーっと見つめる。その表情は、そんな噂知らないという純粋な驚きに見える。
杏樹になんて聞こうかずっと悩んでいたけど、直球で聞くことにした。だって、杏樹が浮気しているなんて思えないし、変に探るよりもいいと思ったから。
「ええっ、なにその噂!?」
おろおろと慌ててた杏樹は、手に持っていたティーカップを落としそうになっているから、私は深刻にならないように苦笑する。
「杏樹が春馬以外の男子と一緒に出掛けていたとこを見たって、噂が女子の一部で流れてるの、知らない?」
さすがに春馬の耳にまで噂が届いていることは伏せる。
しばらく考え込むように俯いて黙っていた杏樹はぽそっと小さな声をもらす。
「……もしかして、調理部の買い出しに行った時の事かな? 本当は春君と遊ぶ約束してたんだけど、試作会がその日しかみんなの都合が合わなくて、私は買い出し班だったから中条君とは一緒に買いだしに行っただけでなにも……」
不安げな瞳で見え気てくる杏樹に、私は安心させるように微笑んだ。
「私は噂なんか信じてないよ、杏樹が春馬一筋だって。でも、杏樹に会えなくて不安になってる春馬の耳にもし噂が入ってたらって心配になって」
だから春馬をちゃんと捕まえていてよ――
そう心の中で付け加える。
杏樹はちょっと泣きそうな表情で唇をかみしめてコクコクと首を縦にふった。
「ねえ、杏樹。春馬のこと好き?」
そう尋ねた私に、杏樹は一瞬言葉に迷って。
「好きに決まってるよ……」
顔を真っ赤にして恥らいながらも杏樹の瞳は強い意志が宿っていて、その言葉にほっと胸をなでおろすと同時に、鈍い痛みが胸を襲ったけど気づかないふりをする。
「うん、そっか。ちゃんと春馬に電話するんだよ」
私は杏樹にビシっと人差し指を立てて、勝気に笑ってそう言った。杏樹は強く頷き返してくれた。
自宅に帰る道すがら、私は話している時の杏樹の表情を思い出す。春馬の名前を出しても狼狽える様子はなかったし、噂も本当に知らないみたいだった。私が見た限り、杏樹が嘘をついているとは思えない。
その夜、杏樹は浮気なんてしてなかったよって春馬にメールして、私は腰かけていたベッドに背中から寝転がった。
喧嘩していたわけじゃないから仲直りっていうのは変かもしれないけど、春馬の杏樹に対する不安が晴れてくれたらいい。心からそう思う。でも――




