第36話 夕虹の帰り道
今日の授業もあとほんの数分、ちょっと横になって帰りのホームルームが終わるのを待つつもりだったのに、気がついたら寝てしまっていた。
ぱちっと目が覚めて、寝てしまっていたことに慌てて上半身を起こそうとしたら、優しい声が降ってきた。
「陽、目が覚めたのか?」
胸に染みいる穏やかな口調に、ほんのちょっとの心配の声音。愛おしい声に、そんなわけないって思いながら顔を声のした方へ向ければ、ベッドの横の丸椅子に座っているのは春馬だった。
「どうして……?」
口から洩れたのはかすれた小さな声。
春馬には聞こえなかったのか、不思議そうに首をかしげて気遣わしげに眉尻を下げている
「どうした? まだ熱高いんじゃないか?」
言いながら顔を覗き込んできた春馬に、既視感を覚える。
以前、教室で熱があるんじゃないかって言って、春馬が自分の額を私の額にくっつけたことがある。
どんどん詰まる二人の距離に、息も触れそうなほど間近に迫った春馬の顔。
コツンっと額と額がぶつかって、視線と視線が絡みあう。
見上げれば、甘い顔立ちとその周りに揺れる茶色の癖毛。髪と同じく色素の薄い瞳を縁どる長い睫毛までくっきりと見える距離に心臓が破裂しそうなくらい煩い。
春馬はその距離感のまま「う~ん」って唸るような声で「まだ熱が高いな」と言って眉根を寄せた。
そんな表情さえも私の心臓を高鳴らせる。
恥ずかしいとか思いながら、春馬の顔から視線が逸らせなくて、私の視線と交わった春馬はふっと優しい笑みを浮かべる。
瞬間、どんどん染まっていく頬に恥ずかしくて視線をそらした。
「具合悪いならまだ寝ててもいいぞ、チャリ通のヤツにチャリ借りたから駅まではチャリで帰れるから」
「えっ……?」
額を離して丸椅子に座りなおした春馬の言葉に、首をかしげる。
どういう意味……?
「まだ調子悪いだろ、俺が家まで送るから」
「えっ、でも春馬は杏樹と帰らないの……?」
本当はそんなこと願ってないけど、春馬は杏樹の彼氏なんだから、杏樹を差し置いて送ってもらうわけにはいかない。
「杏樹は今日部活」
そっか、今日は調理部の活動日なのか。
「でも……」
なんとか春馬の申し出を断る口実を必死に探す。
「あのっ、千織ちゃんに一緒に帰ってもらうから、だいじょ――」
「俺が送るんじゃ不満?」
私の言葉が言い終わる前に、春馬がちょっと拗ねたような口調で言うから、私は言葉に詰まって唇をかみしめる。
そんなわけないじゃん……、だけど……
言いたいことはたった一言なのに、伝えることができない。
「安部に頼まれたんだよ、用事があって一緒に帰れないから陽を頼むって。それに安部は方向反対だろ? 俺なら家まで送れるし。本当は翼が適任なんだろうけど、昼休みから姿が見えないんだよ。陽が倒れたってのにどこいってんだか。やっぱり陽は翼に送ってもらいたいよな……」
斜め上に視線をやって申し訳なさそうに言う春馬に、内心でため息を漏らす。
そういうことじゃないんだけど。
でもそっか、千織ちゃんに頼まれたから春馬がいるんだ。
春馬の意志じゃなくて、頼まれたからここにいると分かって納得がいく。春馬は優しいから、放っておけなかったんだよね。でも、ちょっと心が痛い。
胸に渦巻くいろんな感情を整理できなくて、瞼を閉じていたら。
「それでも――」
真剣な春馬の口調に瞼を開ければ、じぃーっと春馬が私を見つめていた。その瞳は、射止めるようにまっすぐ私に向けられている。
「もうちょっと、俺にも頼って」
その言葉の後に、続く言葉を知っていても、胸に甘い痺れが広がる。
分かってる、春馬がそんなふうに言ってくれるのは“親友”だから。
それでも、優しい言葉に、泣きそうになる表情を隠すように上半身を起こして、春馬に背を向ける。
「ん……、ありがと」
※
結局、五限の英語の小テストは受けられなかったし、部活も樹生先輩に休むように言われて、杏樹にもプレゼントを渡せてないまま。
無理して倒れて、千織ちゃんに心配かけて、さんざんな一日だった。
それなのに、春馬に送ってもらっていいのかな……?
嬉しい気持ちと後ろめたい気持ちが交互に押し寄せてきて、複雑な気分だった。
春馬が自転車通学のクラスメイトに借りた自転車の荷台に座って、自転車をこぐ春馬の背中に腕を回している。揺れるたびに、頬が触れそうになる春馬の背中にドキドキしてしまう。それと同時に、春馬と二人きりで帰るのがあまりにも久しぶりすぎて、何を話せばいいのか緊張して分からなかった。
学校から駅までの道のりは、自転車では十五分もかからなくて、あっという間だった。
駐輪場に自転車を停めにいった春馬を待って、一緒に電車に乗り込む。
春馬は空いている席を見つけて私に座るように言ってくれて、次の駅で運よく私の隣の席が空いて、春馬も腰を下ろした。
英語の小テストはどうだったとか他愛もない会話を少しした後、春馬はあまり話しかけてこなくなった。緊張で私の口数が少ないのを、話すのも辛いと勘違いしたみたい。それでも、常に私の体調を気づってくれる優しさが温かかった。
「陽」
あと一駅で降りる駅に着くという時、不意に春馬が話しかけてきた。電車の揺れが気持ちよくて眠りそうになっていた瞳を瞬いて、春馬の方を向くと、春馬はまっすぐに正面を向いていて、その横顔がどこか緊張しているように感じた。
「具合がよくなったら、週末出かけないか?」
「あっ、うん、杏樹の誕生日祝い、結局できなかったしね」
苦しい気持ちを隠して笑いながら言って、春馬から視線を前に向ける。だけど。
「たまには二人で」
その言葉の真意が分からなくて、私は春馬を振り仰いだ。
まっすぐ正面を見据えていた春馬は首を傾けてこっちを見て、困ったようななんとも言えない複雑な苦笑を浮かべていた。
たまには二人だけで出かけよう――
天に舞い上がれそうなほど嬉しい誘いなのに、春馬がそんなことを言うことに不安が胸を締めつけた。




