第35話 保健室の眠り姫と狩人
ふっと目が覚めて、目の前に見えたのは見慣れない白い天井で、私はベッドで寝ていた。
ここどこ……? 私……?
ぼんやりする頭で記憶をたどって、廊下で角を曲がってきた男子とぶつかったことを思いだす。
首だけを動かして周囲を見れば、ベッドの周りには白いカーテンが引かれていて、ここが保健室だと分かる。
今日は朝起きた時から、嫌な予感はしていた。ちょっとの頭痛と眩暈。だけどどうしても今日は学校に行かなければならなくて、そんなのは気のせいだって気づかないふりして、でも結局倒れてしまった。
まあ、原因は眩暈だけじゃなくて、ぶつかった衝撃ってのもあるけど。
直前の千織ちゃんとの会話を思い出して、はぁーっと弱弱しいため息が漏れる。
大丈夫って言った直後に倒れるなんて情けなさすぎる。すごく心配させてしまってるだろうと思うと胸が痛んだ。
そこで、はっとする。
五限の英語の小テスト!
そのために今日は学校にきたんだった。
ぱっと視線を癖で左手の手首に視線を落とすけど、こういう日に限って普段している腕時計を忘れていて時間を確認することができない。
携帯は教室の鞄の中だし、ベッドから降りて保健室の壁掛け時計を探すしかないと、ゆっくりと体を起こしてベッドから滑り降りた。
転入して以来、初めてお世話になる保健室だから、私は恐る恐る白いカーテンの隙間から顔をのぞかせる。
確か、保険医の先生って若い女性だったと思うけど、顔はぼんやりとしか思い出せない。
制服のまま寝ていたからちょっと皺のついてしまったスカートを押さえながら、音をたてないようにカーテンの外に出ると、横には同じようにカーテンで区切られた空間が左右に四つ、離れた場所にもカーテンで仕切っている場所が一つあって、中央――ちょうど寝ていたベッドから出てすぐの場所――には長テーブル、その奥にはガラス扉の棚があって、薬品なんかが並んでいるのが見えた。長テーブルには丸椅子が数脚あって、そこには見覚えのある後姿が腰かけていた。
「たっくん……?」
振り返ったのは、ほんの少したれ気味の瞳で甘い微笑みを浮かべている葉若 樹生……
意外な人物に呆然と目を瞬くことしかできないでいると。
「久しぶりだなぁ~、その呼ばれ方」
くすりと甘い笑みをこぼして、おどけた口調でいう彼に、それまでぼんやりしていた思考が一気にクリアになって、慌てて言い直す。
「……樹生先輩、どうして保健室に?」
「別にたっくんでもいいのに、ここには俺と陽しかいないんだからさ。陽は倒れたらしいね、具合は大丈夫? たっくんって言っちゃうくらいだからまだ本調子じゃないよね?」
私の質問なんか投げうちゃって、質問で返してくる樹生先輩をちょっと睨む。明らかにからかわれているのが分かったから。
少しは思考が働くようになった私は、樹生先輩の言葉の中から情報を集める。
私と樹生先輩しかいないってことは、保健医の荒井先生はいまは保健室にいないってことだよね。どこにいってるんだろう。
まともに聞いてもちゃんと返事をもらえない気がして、尋ねる前にある程度の答えを探し当てる。
考えて黙り込んでいたら、ふいに樹生先輩が動く気配がして顔をあげると、丸椅子に座って振り返っていた先輩が体ごとこっちに向き直っていて、私と向かい合う格好で椅子に座って私を真剣な瞳で見つめていた。
視線がぶつかって、樹生先輩は真剣な表情をわずかに和らげて苦笑する。
「どうせ陽の事だから、無理して倒れたんだろう?」
痛いところを突かれるて、言葉に詰まる。込み上げてくる何かを堪えるようにぎゅっと唇に力を入れたら。
「別に怒ってるわけじゃないよ」
呆れたような、でもすごく優しい声で言って、私の額にかかった前髪をすくい上げた。
「陽は周りに心配かけないようにって頑張ったんだろうけど、倒れられた方が余計に心配になるよ。陽は頑張る方向がいつもズレてる、ほんと不器用だね」
言いながら、相変わらず私の前髪をかきあげる樹生先輩の口調は呆れているのに、私を見つめる瞳が優しく細められているから、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
目尻に涙が溜まってきて、それを誤魔化すように先輩から顔をそむける。
「荒井先生は備品取りに行ってて、もうすぐ戻ってくると思うけど陽はまだ寝てな。今日の授業もあと十分で終わるし。部のミーティングも休め、部長には俺から言っておくから」
「えっ……?」
樹生先輩の言葉に驚きに声をあげて、私は視線を壁際に走らせる。白い壁にかけられた時計は十四時五十分を示している。樹生先輩の言うとおりあと十分で六限目が終わる。
「しょ、小テスト……」
私は弱々しい声で呟き、ヘナヘナと力なくその場に座り込んだ。
五限の小テスト受けるために頑張ったのに、こんなことなら午前中は保健室で休んでるべきだった……?
でもでも、午前中は午前中で大事な授業があったし……
いくら考えても後の祭り。終わってしまったものはどうしようもないんだけど、頭の中が真っ白でもう何も考えられない。
うう、ただでさえ英語は苦手だから小テストで少しでもいい点とっておきたかったのに……
昨日の夜、遅くまで勉強していたのがいけなかったのかな。
ほんと、こういうのを本末転倒っていうんだろうな……
分かっていながらも、改めて自分の容量の悪さを思い知って嫌になる。
眩暈も襲ってきて、なんだか立ち上がる気力もなくてそのまま床に座り込んでいたら、保健室の扉が開いて白衣を着た二十代後半くらいの女性が入ってきた。この人が保健医の荒井先生だろう。
「あら、逸見さん目が覚めたのね。でもどうしてそんなところに座り込んでるの?」
キョトンとした表情で首をかしげて尋ねられた。
自分のことが情けなくて――なんて言えないし、なんと説明したらいいか困って口を開いて固まっていたら、すっと脇の下に腕を通されて立たされていた。
振り仰げば、樹生先輩がすぐ後ろにいて私の体を支えている。
「彼女、起きてきたんですけどまだ眩暈が酷いみたいでしゃがみこんじゃったんですよ」
たれ目の流し目を荒井先生に向けてしれっとそんな嘘を言って樹生先輩は私を助けてくれた。
「あらあら、大丈夫? もう六限も数分で終わりだし、そのままホームルームも寝ていなさい。熱がすごく高いみたいだけど、ご両親とか、誰か迎えに来れる方はいる?」
「いえ……」
うちは両親共働きだから、この時間はまだ仕事しているだろう。わざわざ迎えに来てもらうほど具合が悪いわけでもない。
「じゃあ、途中まででもいいから友達と一緒に帰ってもらいなさい」
言いながら中央の長テーブルに歩み寄り、電話を取ってどこかに電話をかける。
「あっ、藤田先生ですか?」
そう言って会話をはじめ、担任の藤田先生に私が保健室にいることを伝えて電話を切った荒井先生に友達が迎えに来るまで寝てるように言われて、再びベッドに横になった。




