第30話 触れたら壊れそうな痛々しさ
振り仰いだ視線の先、息も触れそうな距離からどんどん顔を近づけてくる翼。
わずかに細められた眼差しは色っぽくて熱を帯びていて、どうしようもなく鼓動が駆け巡って――
翼の唇が自分の唇に触れてしまいそうになるのを私はただ驚きに目を見開くことしかできなくて、拒絶することもしなくて。だけど。
翼の唇が触れる直前。
プルルルル、プルルルル……
固定電話が着信を知らせて鳴って、翼の動きがぴたっと止まる。
どちらかがほんの少しでも動けば唇が触れそうな距離で均衡を保っていて、大きく見開いた私の視線と、僅かに眉根を寄せた翼の視線が交錯する。
何度目かの受信音が聞こえる中、翼はおもむろに顔の位置を私の顔の真正面から肩に移動させて、ぽふっと肩口に顔を埋めた。
えっと……、電話でなくていいのかな?
謎の行動に首をかしげながらもそう聞こうとした時、ピィーッと高い機械音が響いて留守電に切り替わった。
『……もしもし、翼君? まだ帰っていないのかしら?』
受話器越しに聞こえる留守電に吹き込まれる声は三十~四十代くらいの女性の声で、誰だろうと疑問に思い、翼が一人暮らしをしていることからお母さんじゃないかなって予想をつける。
ご飯は食べてる? 今度はいつ家に帰って来るのかなという内容に、私はやっぱり翼のお母さんなんだと確信したのだけど。
肩の方からチッと舌打ちした音が聞こえて、私は電話に向けていた視線を私の肩に顔を埋めている翼に向けた。
翼はすっと私の肩から頭をあげると、淀みのない足取りで固定電話の置かれているキッチンカウンターに向かい、受話器を持ち上げてガシャンっと電話を切ってしまった。
受話器に手を当てた格好のまま、翼は俯いて動かなくて、私はその背中に恐る恐る声をかけた。
「翼……?」
私の戸惑いの含まれた小さな声に翼がびくっと肩を震わせるから、私の方が驚いてしまう。
キッチンの明かりだけの薄暗い部屋の中、翼の背中がひどく傷ついたように見えて、触れたら壊れてしまいそうな脆さに、胸の奥がドクドクと煩い。
踏み込んではいけない――こんな雰囲気を以前にも感じたことがあると思って。それが、兄弟の話をした時だと思い出す。「お兄さんいるんだ?」って聞いた時、翼は苦々しげにぎゅっと眉根を寄せてどこか辛そうな表情をしていた。
エントランスもすごく広い高級マンション、四人家族が住んでも十分広そうな間取りに一人で暮らしている翼。
兄弟の話はタブーで、なんかご両親とも確執がありそうな雰囲気に、「どうして?」って疑問ばかり。そういえば、私はいつも翼に対して「どうして?」「なんで?」って思ってばかりで、何一つ翼のことを知らないんだと思い知る。それでも。
生活感のない無機質な部屋で一人で生活している翼を守ってあげたいっていう感情が湧き上がってくる。
電車も止まってしまって、この土砂降りの中歩いて帰ることは出来そうにない。
そうしたらもう、翼と一緒に一晩過ごすしかない。
言い訳じみたことを自分に言い聞かせながら、本心はそんなんじゃなかった。
ただ、辛そうな翼を一人にしておきたくなかった。
私はゆっくりと翼に近づき、未だに電話の前で立ちつくす翼の胸にそっと腕を回して優しく抱きしめた。硝子に触れるように力を入れすぎず、でも大切なものを包み込むように。
「翼、今日はずっと一緒にいよう――」
※
五年ぶりに再会した春馬は幼さが抜けてかっこよくなっていてドキドキした。
小学校の頃の淡い恋心がよみがえってくるのにそう時間はかからなかった。でも。
私が自分の気持ちを自覚したのとそんなに時間を空けずに、春馬が杏樹と付き合っていると知って、私の辛く切ない片思いが始まった――
初恋の人、だけど今は親友の彼氏で想いを伝えることはできない。
それでも私にとって春馬も杏樹も大事な親友だったから、私は二人の親友でいることを選んで、春馬への気持ちを隠して親友を演じてきた。
だけどあの日、自分と同じように苦しげな瞳をしている翼と出会った。
翼の杏樹を見つめる瞳を見て、一瞬にして翼が杏樹を好きなんだと気づいてしまった。私と同じ報われない片思いに苦しんでいることが身につまされて。
親友でいる、そう決めたのに、閉じたはずの気持ちが隠しきれなくなって。
忘れようって決意して、それでも私の心を揺さぶる。春馬が杏樹に優しくしている姿を見ただけで、ぎゅっと胸を握りつぶされたみたいな苦しさで息もできなかった。
それでも、このままじゃいけないんだって分かってる。
だからきっとこれはチャンスなんだと思う。ずっと迷ってて抜け出せなかった迷宮の、壁をぶち壊せるかもしれない予感。
私と同じように切なげな瞳で片思いしていて、私以上に何かを抱えている翼の側にいれば、私はそのきっかけを掴むかもしれない。




