第21話 憧れの先輩
これからどうしたいか――
考えても答えが出ないっていうか、ゆっくり考えている暇がないというのが正解かもしれない。
暦は七月に移り、じとじとした雨の続く梅雨の季節。
中間試験が終わったと思ったら、次はあっという間に期末試験が迫ってくる。二週間後に試験を控え、校内はだんだんとピリピリした空気が張りつめている。
風を切る音に続いてビシャッという、水溜りの水が跳ねる音に私は鬱々とした長いため息を吐き出した。
「はぁ~~~~……」
放課後の弓道場。外は土砂降りの雨。今日はぜんぜん弓道日和じゃない……
ぜんぜん集中できないのが自分でも分かる。
つい今しがた打った矢は、的の真下、的には刺さらずに地面に落ち、運悪くもそこにできた水溜りに羽が沈んでいるのがさっきのビシャッていう音で分かった。
水に濡れたままにしては羽がダメになってしまうので、すぐにでも取りに行かなければいけない。残心の格好のまま項垂れていたのだけど、いつまでもそのままではいられないと弓を倒して揖して射場から出ると、後ろからぽんっと肩を叩かれた。
「珍しく調子悪いね~。まっ、雨だし気分も滅入るか」
軽い調子で言ったのは、三年の樹生先輩。流し目で安土に視線を向けているから、私もつられてそっちを向く。私が射ていた二的の的の六時の方向に私の矢が集中しているのだけど、矢の半分も的に当たっていない。
私は微妙な笑顔で答え、先輩は私と入れ違いに射場に入っていった。
樹生先輩は弓道部の先輩で、私が弓道を始めたきっかけにもなった人。口調とか見た目はちゃらちゃらしているけど、実際は物事を見極める能力がある。みんなうわべに騙されがちだけど、本質が分かる人。
まぁ、あまりにも軽い行動ばかりで、私でも時々、この人の本性はちゃらい方なのかもしれない……って本気で疑う時もあるけど、いざって時はすごい人なんだ。
私はそんなことを考えながらぼぉーっと樹生先輩の射を見ていたことに気づいて、弓を置いて、床に正座して右手にはめたかけを外してかけ袋の上に置くと、道場の後ろに向かいその扉を開ける。瞬間。
ザァー、ザァーとうっとおしいほど激しい雨音にぎゅっと眉根を寄せた。まだ夕暮れ前だっていうのに、空には重い雲が垂れ込めて、辺りはすでに薄暗い。
足袋を履いた足でサンダルをひっかけ、泥が跳ねないように袴の裾を左手で少しまくり上げて、右手で傘を開いて肩にかけ、後ろ手で扉を閉める。
錆びてキィキィ音を出す扉が閉まる直前に、その隙間から樹生先輩が滑り出てきた。
「俺も矢取り」
「えっ、私がとってきますよ!?」
矢取りは後輩の仕事で、三年生を矢取りに行かせるわけにはいかない。
暗に、先輩は戻っててくださいって言ったのに、樹生先輩は私の肩にかけていた傘を奪いとり、二人の間よりも私寄りにかかげてくれた。
「矢所みたいからいいの」
矢の辺り所をみたいと言われてしまえば来ないでくださいとも言えなくて、仕方なくて傘を持った樹生先輩と並んで矢取り道を進み、看的所に入った。
タイミングを見計らって矢取りをして、看的所に戻ってくる。そこで矢の先についた土をタオルでぬぐってから道場に戻るのだけど、私の矢の大半は羽が水溜りに浸ってしまってビショビショで、一本ずつ水を飛ばしていく作業に取り掛かる。
薄暗くて狭い看的所の中で、私は矢の状態を確かめながら項垂れたい気分をそばに樹生先輩がいることでなんとか誤魔化そうとしたのだけど。
「で、なにを落ち込んでるのか言ってごらん」
気軽い口調で、すでに矢を拭き終わって壁にもたれかかった樹生先輩が尋ねてきた。
「えっと……」
私がなんて答えたらいいか分からなくてためらっていると、はぁーっと大きなため息をつかれてしまった。
「言った方がいいと思うよ? どうせ陽の事だから一人で悩むだけ悩んだんだろ。それでも答えが出ないんなら、人の意見を聞くのも手だよ。特に俺なんか経験豊富だし?」
そう言った樹生先輩はうっとりするような流し目でくすりと笑う。
「先輩としてアドバイス出来ると思うけど?」
どう? って聞くように肩をすくめて見せる先輩を私はまじまじと見つめる。
先輩の言うとおり、悩むことにはかなりの時間をかけたと思う。この後どれだけ考えても、今の私では答えを見つけることはできそうにない。それなら先輩に相談して、違う視点から意見を聞いた方がいいのではないかと思う。でも。
私はちらっと視線だけで先輩を見る。
いくら尊敬している先輩とはいえ、好きな人は親友の彼氏とか、会ったばかりで好きでもない人と偽の恋人同盟を結んだとか、これからどうしたらいいか分からなくて悩んでいるなんて……言えやしない。
「ええっと……」
相談したい気持ちはあるけど、どこをどう説明したらいいか困っていると、先輩はすべてを悟っているような表情で苦笑して、私の頭をぽんぽんっと撫でた。
「全部言えないなら、言えるとこだけでもいいから言ってごらん?」
そう言った先輩はとても優しい眼差しで私を見ていた。
※
いつまでも矢取りから戻らないわけにはいかないから、帰りながら話を聞いてもらうことになった。
部活後、いつもなら自主練するために残るんだけど、今日は帰りの神拝を済ませてすぐに部室に戻って道着から制服に素早く着替えた。
結構急いだのに、部室から出ると部室棟の廊下にはすでに樹生先輩が待っていて、私は待たせてしまったことを謝った。
ちょうど部室に戻ってきた他の三年生が樹生先輩と私が一緒にいるのを見て冷やかしてきたけど。
「後輩に手ぇ出すわけないだろ」
って、しれっとヤジをかわす樹生先輩を、私はちょっと白い目で見てしまった。
その視線に気づいた先輩はたじろいで苦笑する。
「なにか言いたそうな視線だね、陽」
「いいえ、別に」
私は、先輩をまねてしれっと答える。
「去年、後輩に手を出して問題起こして、女子部員をやめさせてしまった人がいたなぁとか思い出してませんから」
「めっちゃ根に持ってるな……」
目尻を下げてすごい困った苦笑を浮かべる先輩をちらっと見て、私は苦笑する。
「別に部内恋愛は自由ですからいいんじゃないですか、問題さえ起こさなければ」
去年の二学期の始まりの時点で、同学年の女子は八人程いた。他の学年から比べると今年は多いねって喜ばれたんだけど、女子が多いと問題も多い。とくに恋愛面。
初心者と経験者の割合は初心者の方が多くて、一学期と夏休みを費やして的前にあげれるようにするんだけど、その夏休みの練習中、樹生先輩が熱心に一年生を見てくれていたらしい。といっても、他の二年生も見ていたし、誰かを特別贔屓してしたわけじゃないんだろうけど。二学期になって二人の女子が揉めだした。その原因が樹生先輩。
先輩に優しくされて勘違いしてしまったのだろう。先輩を巡ってその二人はトラブルが絶えなくて、それになぜか私もちょっと巻き込まれて――ちょうど転校してきて途中入部で、樹生先輩が私を見てくれてたから。それで見かねた樹生先輩がきっぱり二人に言って、結局二人とも退部してしまった。巻き込まれたことよりも女子部員が減ったことがわたし的には残念でちょっとあてつけがましく言ってしまった。
確かに先輩からは手を出していないんだろうけど、先輩のさりげない優しさが女の子を勘違いさせちゃうって気づかないのかな……、いや、きっと樹生先輩は気づいているだろう。絶対確信犯だよ……
誰にでも優しいところが、太陽みたいなキラキラの笑顔と重なってしまって、胸の奥がチクッと痛む。
“天然たらし”
そう千織ちゃんに言われていたのを思い出して、くすっと苦笑を漏らす。
そうなんだよね、先輩とかぶるけど春馬は先輩とは違って無意識なんだよね……
無意識の方がやっかいだったりするけど……
そんなことを考えて自分の思考に沈んでいたら、コホンっと横からわざとらしい咳ばらいが聞こえてはっと顔を上げる。
すでに学校を出て駅に向かう道を歩きながら、先輩は私を真剣な瞳で見下ろしていた。
「で、なにを落ち込んでるのか言ってごらん」
部活中とまったく同じ質問、だけど真摯な口調で尋ねられて、私は先輩にかいつまんで事情を説明した。




