きっと春になったら
あれは何ていう花だったっけ。もう思い出せないや。
芽さえ出なくて庭先に立ちつくした時のあの気持ちは、いつまでも覚えているのに。
大学受験が近付いている。でも勉強したって焦る一方だった。だって、受かる気がしない。
用事を終えると外はすっかり夕方になっていた。想像以上に寒くって、指先をセーターの袖にしまう。
校門までの道をとぼとぼ歩いていると、花壇に色とりどりのコスモスが咲いているのに目が止まった。
私の学校には花が多い。そこかしこに花壇があって、四季に合わせて色んな花を咲かせている。
コスモスの前で私はしゃがみ込んだ。よく見るとしおれている。見頃は終わったんだなあ。
それでも自分の使命を全うしたコスモスはなんだか誇らしげで、もっと綺麗な時期にじっくり見ておけば良かったと後悔した。
「綺麗でしょ?」
ふいに声を掛けられて顧みると、小林先生が立っていた。四十代後半くらいの男の国語の先生で、喋り方が静かだから、この先生の授業は眠くなる事で有名だった。
「はい、綺麗です」
素直に頷いたけど、先生の言い方には少し引っかかる。
私は、嬉しそうな表情を浮かべる小林先生が、手にシャベルやら軍手やらを持っていることに気付いた。
「もしかして先生が世話してるんですか?」
花壇を指さして言うと、小林先生は照れたように笑った。
「実は、うちの学校の花壇はほとんど。手伝って貰いながらですけど」
「えっ! すごいです。知りませんでした」
用務員の人がやってるとばかり思ってた。大変だろうなあ。
「趣味なんです。こうやって花壇いっぱいに花が咲くの、いいでしょう」
彼の眠くなる声色は受験生の天敵だけど、今は心地良い。普通に話すにはいい人なんだな、知らなかった。三年間この高校に通ってきたのに知らないことばっかりだ。
コスモスが風に揺れる、音がする。
せっかくだから、少し話をしてみようか。
「なんで生物じゃなくて国語にしたんですか? 植物が好きなのに」
小林先生は眉根を寄せる。
「苦手なんだよね、生物。物理とか化学はもっと苦手だけど。でも教師の仕事には興味あったから、得意な国語でいいかなあと思って。そんなに好きじゃないですけど」
そんなもんなのか。――そんなもんなんだな。
肩の力が抜けてしまった。私は、自分の将来に期待しすぎている。立派な考えを持った、立派な大人に、なりたいと思っていた。けどそれが、そんなに大事なのかな。夢を追いかけて、叶えて見せた人が、この世界に何人いるのだろう。
面接の練習で訊かれた「どうしてうちの大学を選んだんですか」が頭から離れなかった。偏差値で選びました、とは言えない。それが本音だけど、もっと格好のいい理由が欲しかった。
「昔、好奇心で花を育てようとしたことがあるんです。なんていう花かは忘れたんですけど、種をまいて水をやって。……でも、芽も出ませんでした。花って、難しいんですね」
掘り起こした種は、死んでるみたいに見えた。あの種は、私が殺したんだ。
「ちゃんと調べて、世話の仕方を守れば大丈夫だよ」
「そうですよね。あの時は、水さえやればいいって思ってたんです」
私が苦笑すると、先生は手に提げていたビニール袋から球根を一つ取り出した。
「僕、これからチューリップ植えようと思ってるんです。アンジェリケっていう種類なんだけど、冬を越えて春になったら、綺麗な花が咲くんですよ。毎日真剣に世話したら絶対答えてくれるから、育てがいがあります」
「へえ。春が楽しみですね」
自然に出た自分の台詞に、びっくりした。春が楽しみ、なんて受験生になってから一度も考えなかった。
「球根って、球根自体に養分があるから初心者でも育てやすいんです。よかったらこれ、ひとつあげる」
鼻先に突きつけられた球根に、私は目を瞬かせた。私に出来るかな。また殺してしまったら、どうしよう。
小林先生は首を傾ける。
「あ、受験忙しいだろうし、いらない?」
私ははっとして首を横に振って球根を受け取った。
「ありがとうございます、頑張ってみます」
そのままじゃ持って帰りづらいから、と小さなビニール袋を一枚貰った。立ち上がって、私はコスモスを見下ろす。大きく息を吸うと、冷たい空気に背筋が伸びた。
「詳しい育て方も教えましょうか?」
先生の質問に、私は授業の時じゃありえないくらい得意げに答える。
「大丈夫です。自分で調べてみます」
小林先生はにっこり微笑んでくれた。挨拶を交わして、私は歩き出した。
球根を両手で包み込む。この花は、私が咲かせる。
春になったら、きっと綺麗な花が咲くだろう。
アンジェリケというチューリップの花言葉は、夢です。