3章
家に帰ると母が駆け寄ってきた。
「ただいま。茜はいないの?」
「まだ帰ってないわ。」
茜というのは4つ下の妹だ。
この時間にいないということはアルバイトだろう。
靴を脱ぎ廊下を歩く。
後ろを母が付いてくるが話しかけてはこない。
どう声を掛けていいのか迷っているのだろう。
それか、俺の余りの普通さに動揺しているのかもしれない。
「夕方に事故ったらしい。詳しい事はまだ聞けなかった。」
「そうなの‥。」
「うん。俺も動揺してたけど帰り道に色々考えて少し冷静になれたよ。
先に風呂に入ってくるから、その後色々話すよ。」
「わかった。」
そう言うと母は台所に戻って行った。
「あ‥夕飯はどうする?」
「食べられるかわからないけど一応出しといてくれる。」
そう言って風呂に向かった。
帰り道、冷静になれたとか言ってみたが
涙を流すのが嫌で極力考えないようにしていただけだった。
湯船に浸かると一度だけ顔をこすり、天井を見上げた。
こすった顔は濡れていて特に違和感はないだろう。
だが目には涙が溜まり、頬を伝っていた。
声を上げるでもなく、ただただ涙が溢れている。
永遠の別れをするには急すぎるし
何より思い出が多すぎる。
さやかのいろいろな表情が浮かんできた。
こんなとき浮かんでくる表情は決まって笑顔だ。
もう2度とあの笑顔を見ることはないのだ。
怒った顔や悲しんだ顔はみたくはないが
あの笑顔に会えないと思うと胸が痛くなる。
この際怒った顔でも悲しんでいる顔でも構わない。
ただもう一度、さやかの「表情のある」顔が見たいと思った。
風呂から上がると食卓で母が待っていた。
ずっと考えてくれていたのだろう。
自分の前には何も出さず、テレビもつけず
目の前に組まれている手を見ていた。
パジャマを着て母の目の前に座る。
「ビールでも飲む?」
母から思わぬ言葉が飛んできた。
こんな事を聞かれたのは初めてだ。
「いや、この後もしかしたら出掛けないといけないかもしれないから。」
「そうね。」
少し間をあけて
「お顔は見れたの?」
「うん。顔には全く傷も無くてとても綺麗だった。」
「そう。」
「今晩は病院でさやかの傍にいてやるべきだったのかな?」
「そこはね、お母さんも悩んだんだけど
帰ってきてよかったんじゃないかって思うの。」
俺はうつむき加減で頷いた。
「夫婦ならともかく、さやかちゃんはまだ学生さんだし
今夜くらいは家族水入らずで過ごすというか‥
て言うより、変な言い方かもしれないけど
私ならそうしたいと思ったのよ。」
なるほど、そう考えればそうかもしれないと思った。
「蒼太や茜にもしもの事があったら
もちろん恋人が来てくれれば本人は喜ぶだろうし
顔も見てやってほしいと思う。
でも一応他人なわけで、
家族の中でしか伝えられないものとかってあると思うの。」
「そうだね。」
「うん。だから、詳しい事とかも知りたいかもしれないけど
相手方のご両親の立場になれば
向こうから言ってくれるのを待った方がいいんじゃないかって思うわ。」
「うん、聞く勇気も無いけどね。」
「えぇ‥。」
「俺って冷たいのかな‥?」
「え?」
「いや、こんなときなのに
今一番悩んでるのは翔たちになんて伝えたらいいのかって‥」
「確かに難しいし、口に出すのは余計つらいものね‥。」
「そうなんだ。」
「蒼太は冷たくなんかないよ。
それも思いやりというものだもの。
だけど翔くんたちには早めに伝えたほうがいいかもしれない。」
「そうかな?」
「蒼太よりもっと中途半端に話を聞かされていて
今頃どうしようか悩んでいるかもしれないもの。」
「そうだね。」
「伝える言葉なんて悩まなくていいかもしれないってお母さんは思うわ。」
「え?」
「私の知ってる限り、蒼太の友達は
ほんとにいい子達ばかりじゃない。」
「うん。」
「きっと察してくれるんじゃないかな。」
「そうか。」
確かにそうかもしれない。
メールで伝えるんなら
文章に悩むかもしれないが
メールで話すようなことではない。
電話なら相手からの質問に答えるだけで済むだろうし
俺の心境も言葉に出て、きっと察してくれるだろう。
「じゃあ伝えてくるよ。」
「えぇ。」
そう言って2階へ上がった。
早速電話を手にする。
誰に電話をかけようか少し迷った。
心を落ち着かせるためにも
絢人がいいと思った。
さやかとも何度か会ったことがあるし
なにより1番話しやすい相手だ。
一度だけふぅっと息を吐き
発信ボタンを押した。
すると5秒もしないうちに絢人は電話に出た。
「もしもし。」
「連絡遅くなった。悪い。」
「いや、いいんだ。それよりどうだったんだ?
さやかちゃんが事故ったって言って飛んでったけど。
理沙もものすごく心配してたぞ。」
「だよな。理沙にも話さなきゃ。」
そう話した途端に
ふっとある考えが頭をよぎった。
(これで理沙と付き合えるんじゃ)
一瞬で我に返り
そして自分に絶望した。
まさかこんな時に自分がこんなことを考えるなんて‥
しかもさやかの死をいいように取った考え方だ。
なんてことを。
ついさっきまで自分の彼女だった相手だ。
死を知った瞬間自然と涙まで出る
長い月日を共に過ごした
かけがえのない相手だ。
自分自身にショックを受け
少し黙っていると絢人が口を開いた。
おそらく、この10秒にも満たない沈黙で察したのかもしれない。
「まさか‥けっこうやばいのか?」
「いや‥」
その先を言おうとしたとき言葉が出なくなった。
「なんだ、たいしたことなかったのか。」
絢人は「いや‥」という言葉に反応する。
「‥死んだんだ。」
「え??」
「さやかは死んだ。」
「何言ってんだ?ほんとなのか!?」
「あぁ。死んだなんて言葉は使いたくないけど
俺も混乱してて、何をどう伝えればいいのかわからないんだ。」
絢人は息を飲む。
「連絡が遅れたのもそのせいなんだ。
他にも伝えなきゃいけないのに言葉が見付からない。
わからないんだ。どう‥すれば‥いいのか‥うぅ‥」
この日初めて声を出して泣いた。
「そりゃそうだな‥恋人の死なんて‥
経験した人のほうが少ないし‥。」
絢人の声も震えている。
自分に置き換えて想像しているようだ。
「他って翔って人とかだろ?
早い方がいいかもしれないけど
少し待ってろ。
今から一旦そっちに行くよ。」
その言葉は本当にありがたかった。
来てくれた方が幾分か考えなくて済むようになる。
「理沙ちゃんには俺が伝えてやる。
お前らは今微妙な状況だし
そんな状態のお前の声を聞いたらいても立ってもいられなくなるだろ。」
「かもしれない。理沙にが一番どうしようか悩んでたんだ。」
「とりあえず向かうから。」
「わかった。」
そう言って電話を切った。
ベッドに横たわり目を閉じる。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
天井を見上げていると目が回った。
目を閉じ、涙を流していると
いつの間にか眠ってしまっていた。
「もしもし。」
「どうしたの?」
「落ち着いて聞けよ?」
「‥うん。」
「蒼太の彼女のさやかちゃんが亡くなったらしい。」
「え?‥うそ‥‥」
「蒼太から直接連絡するつもりだったらしいけど
俺が止めた。」
「そ、そう。」
「あぁ。あいつの気持ち知ってるだろ?」
理沙は沈黙している。
「あいつも気持ちは傾いてたとはいえ
彼女が死んだんだから混乱してるみたいなんだ。
今理沙ちゃんと話すのは良くないと思った。
あいつが落ち着いてから話したほうがいいだろ。」
「うん、そうね‥。」
「俺は一回蒼太のとこに行ってみる。
あいつたまに不安定なとこあるから心配だしな。
心配しなくても大丈夫だからな!」
「ありがとう。」
「あぁ、じゃあな!」
「待って。今駅に向かってるの?」
「そうだよ。」
「一つだけ聞いてくれる?
自己嫌悪でこのままじゃおかしくなっちゃう。」
「どうしたんだ?」
絢人は走る足を止めゆっくり歩き出す。
少し息は上がっているが
早く蒼太の元へ向かいたかった。
「あのね、私、おかしいかもしれない。」
「なにがだ?」
「彼女さんが亡くなったって聞いて
今はものすごく悲しくて胸が痛いんだよ。」
「あぁ、俺もだ。あいつの気持ちを考えるとな。」
「だけど、聞いて事態を飲み込む前に
これで蒼太くんと付き合えるんじゃ‥なんて思っちゃったの。」
「‥え?」
絢人は足を完全に止めた。
「私、なんてことをかんがえるんだろう‥」
理沙は泣き始めた。
「理沙ちゃんも混乱してるんだよ。
それにそう思ったのは理沙ちゃんだけじゃない。
俺は二人にうまくいって欲しかったから
実のとこ俺もそう思ったんだ。
蒼太と電話を切った直後にな。
だから少し驚いたけど
もしかしたら蒼太もどっかでそう思ったかもしれない。」
「だけどこんな時にそんなこと思いたくなかった。」
「あぁ、ハタから見れば薄情かもしれないな。」
絢人はあえてきつく言った。
「だけど恋愛感情なんてそんなもんだと思うぞ。
それに悲しんでばかりもいられない。
蒼太が一番苦しんでる。
支えてあげたいっていう気持ちから
そう思ってしまったんじゃないか?」
「それもあると思う。」
「じゃあ蒼太が落ち着いたら目一杯支えてやれ。
こんな時にそんなこと考えちゃうんじゃ
理沙ちゃんの気持ちは本物だよ。」
「ありがとう、ってお礼を言うとこなのかな?」
「まぁあんまり深く考えるな。
明日は蒼太とも会うだろうから
心配せずに早めに眠れよ。」
「わかった。気を付けてね。」
「おう。」
そう言って電話を切るとまた足早に駅へ向かった。
電車に乗ると絢人は考えていた。
間違ったことを言ってないかどうか。
絢人は見た目の性格とは裏腹にすごく心配性だった。
(あんな言葉で理沙ちゃんは落ち着けるだろうか‥。)
そんなことを考えてる場合じゃないと気持ちを蒼太のことへと切り替える。
まず他の友達にはなんて伝えさせるか。
経験のない話だ。
人の死と向き合うのも
小学校のときの15年ぶりだ。
だけどとにかく事実は伝えなければならない。
頭を一度振って考え直した。
この際伝え方なんてどうでもいいんじゃないか。
あいつの友達だ。
悪いやつじゃないだろう。
きっと蒼太が一番辛いのをわかってくれる。
そう考えると少し気持ちが楽になった。
気がつくともう目的の駅に着いていた。
急いで降り、また駆け出した。