2章
理沙とは大学で知り合い、
仲のいいグループの一員だったのでよく遊んだ。
出会った当初からいい印象だった。
だが理沙には彼氏がいた。
俺にも長年付き合っている彼女がいた。
名前を木下さやかという。
いったと言った方がしっくりくるのかもしれない。
大学も卒業に迫った頃、
正直俺の気持ちは理沙に向いていた。
理沙もそうだったようだ。
その半年ほど前に理沙は彼氏とは別れていた。
別れた理由が俺だというのはつい最近知った話だ。
さやかとは別れるつもりでいた。
お互い忙しい時期が過ぎるのを待って切り出すつもりでいた。
さやかは別の大学に通っていたが同い年。
高校が一緒でそのときから付き合っていた。
情もあってか、別れを切り出すタイミングを計っていたのだ。
卒業式当日、式を終え皆で談笑しているときにその電話はかかってきた。
さやかが事故に遭ったというのだ。
俺は混乱した。
その日会う約束をしていたのだが友達との会話が弾み、
少し遅くなると伝えた直後だったからだ。
地下鉄で病院に向かう。
その間連絡を取れないので余計に心配だ。
さやかの母親の様子からして軽傷ではないことは明白だ。
病院に着くとすぐに看護婦に病室を聞いた。
それに気付いたらしいさやかの弟が泣きながら駆け寄ってきた。
それを見て勘付いてしまった。
「さやかは死んだのだ」と。
さやかの弟はどうすればいいのかわからない風でこっちを見ている。
母は錯乱していてどうすることもできない、
父は職場からこっちに向かっているが道が混んでいてまだ着かないそうだ。
そのときまだ現状を飲み込めていないせいからか
「電車で来て良かった」
などと考えていた。
決して冷たいのではない。
俺も錯乱しているのだ。
別れを決心していたとはいえ、
何年も一緒に過ごした間柄だ。
看護婦に連れられていった部屋の前には
彼女の母が顔を覆っている。
なんと声を掛ければいいか分からず立ち尽くしていると
母はこちらに気付き電話のことを謝った。
後から考えれば確かに要領を得ない電話ではあったが、
ここでそんな事を咎めるつもりは毛頭ない。
母も混乱しているのだ。
その謝りながら泣いている姿を見て
初めて涙が溢れてきた。
ようやく現状を飲み込めたのかもしれない。
「会ってやってください。」
そう言って身体を部屋の方に向けられた。
「大丈夫。ほんとに綺麗な顔をしているのよ。」
そう言うと母はまた嗚咽しながら泣き始めた。
そっと扉を開くと白い布を被せられた身体が寝転がっている。
そっと歩み寄り、そっと布に手を掛けた。
紛れも無い、さやかだ。
本当に顔には傷など一つもなくとても綺麗な顔をしている。
だが血の気は引いているし、
頭には包帯が巻かれている。
呼んでも起きない事は明白だった。
また涙が頬を伝った。
触れようか悩んだが母がいたので気が引けた。
うつむきながら部屋を出て頭を整理しようと目を閉じた。
きっと簡単には整理などできないだろう。
だがさやかの母、弟との沈黙の空間は
苦痛でもあったのでそこから逃げたかったのだ。
椅子に腰を掛け10分くらい経っただろうか。
母は警察官と話している。
そんなすぐに話さなければいけないことなのだろうか。
今ぐらいそっとしておいてやってほしい。
ちょうどそのときさやかの父が走ってきた。
普段病院なら看護婦から走らないでくださいと言われるところだろう。
だが看護婦もこういうときばかりは目を瞑っている。
父は母に駆け寄った。
母はフラフラした足取りで父をさやかの眠る部屋に案内する。
前を通った時に軽く会釈をし合った。
初対面ではないが母や弟とほど話したことはない。
だがお互い顔を見れば誰かは判るほどの距離感ではあった。
父の目にもすでにうっすら涙が浮かんでいた。
「さやか、さやか」
と、呟いている。
こんな時父親というのはどういう心境なのだろうか。
父親の娘に対する感情というものには
特別なものがあると聞いたことがある。
取り乱して泣きじゃくってもおかしくないほどショックな出来事だろう。
だが一家の長として
家族の様子にも目を向けなければならない。
一番辛いのは父かもしれないなと思った。
この時、やはり自分は冷たい人間なのではないかとふと思った。
こんな時なのに、やはり冷静すぎるのだ。
仮にも彼女が亡くなったのに他の人の事を考えすぎている。
その事が何故か悲しかった。
他にも自分が涙を流したのはいつ以来だろうかなどと考えた。
過去に涙を流したときの記憶が曖昧で、
その事が、やはり自分が冷たい人間なのだと感じさせた。
一瞬、これだけ冷静なのだから
彼女の家族に声を掛けるなり励ますなりしてみようかと思った。
だがすぐに思いとどまった。
ここで出て行くのは野暮というものだ。
とりあえず自分の母やさやかとの共通の友達に連絡しようと思った。
ポケットに携帯があることを確認し、
立ち上がろうとしたときさやかの母が寄ってきた。
「翔くんや凛ちゃんにも伝えて貰えないかしら‥」
そのタイミングに驚いた。
見透かされていたようだ。
「そのつもりです。失礼します。」
軽く頭を下げその場を立ち去った。
病院の入口を出た瞬間にふーっと息を吐いた。
その瞬間、立ちくらみがした。
自分でも気付かないほど気が張っていたのだろう。
少し空を見上げ幾度か深呼吸をした。
とりあえず母に電話をしようと携帯の電源を入れた。
先にメールが来てないか問い合わせてみる。
すると予想よりは少ない、
1件だけの受信があった。
絢人だ。
開くと
「落ち着いたら電話くれ。
直弥と理沙も心配してる。」 と書いてあった。
どうやらただ事ではないことを察し
絢人が代表して送ってきたようだ。
あとで電話をしようとページを閉じ母に電話を掛けた。
まず母に掛けたのには訳がある。
他の友人にどう話せばいいか分からないのだ。
母にならまず事実を話せるし落ち着けると思った。
母は電話にすぐ出た。
「あら、どうしたの?今晩は遅いんでしょ?」
「いや、もうすぐ帰ると思う。」
何を普通のことを言ってるんだと、少し自分に腹を立てた。
母が俺の声が少しおかしいのに気付き
「どうしたの?」
と、また問いかける。
微妙な声の違いに気付くのはさすが母だな、と思った。
「いや‥さやかが‥‥死んだ。」
「え!?」
死んだという表現はあまりにも不恰好だったが、
その瞬間に自分の中にさやかの死が余計に入ってきた。
そして、また涙が流れた。
「本当に言ってるの?」
卒業の日にいきなり電話を掛けてこんな嘘を付くはずがない。
「うん。」
聞こえるか聞こえないか程の声で呟いた。
「俺、どうしたらいいか分からなくて‥
向こうのお母さんに出来れば共通の友達に伝えて欲しいって言われたんだけど、
なんて言ったらいいのか‥
俺自身もまだ頭が追い付いてないんだよ‥」
こんな風に母にすがりつくように泣いたのは10年以上ぶりだろう。
母はなんとか言ってあげようとしてくれているようだがまだ沈黙のままだ。
おそらく受話器の向こうで涙を溜めているのかもしれない。
「今はどこにいるの?」
「まだ病院。」
「いつまでもそこにいるわけにもいかないから
さやかちゃんのご両親に言って、一旦帰っておいで。」
「わかった。」
「友人にはきちんと伝えますってことは言うのよ。」
「うん。それじゃ。」
母の声は震えていた。
さやかは何度もうちに来たことがあるし
何故か母と仲が良かった。
母も信じられないという感じだろう。
病院の中に戻り、さやかの母がいるであろう方向に向かう。
するとさやかの父だけが病室の前にいた。
肘を膝につき、頭を抱えている。
歩み寄ると足音に気付いたのか父が顔を上げた。
俺に気付くと立ち上がり
「顔はみてくれたかな?」 と、聞いてきた。
「はい。」
「本当に綺麗な顔をしていた。」
「はい。」
父は憚らず泣き始めた。
「今日はこれで失礼します。
俺、こんなときどうしたらいいか本当に分からなくて‥。」
「あぁ。私も混乱している。来てくれてありがとう。」
「はい。では失礼します。」
「そうだ、君は‥えっと、蒼太くんだったかな‥」
「はい。」
「今日はさやかと一緒にいたのかい?」
「いえ、会う約束はしてましたが卒業式だったので終わって友人と一緒でした。」
「そうか。」
「あっ、お母さんに他の友人にはちゃんと連絡しますと伝えてもいらえますか?」
「あぁ、わかった。
そんなことを頼んだのか‥蒼太くんも辛いのに申し訳ない。」
「いえ、こんなことしか出来ないですから。
他にも出来る事があれば連絡してください。すぐ来ますから。」
「ありがとう。気を付けてね。」
「はい、失礼します。」
これだけのやり取りだったが妙に長く感じた。
本当にこんな時どうすればいいのか分からない。
一晩中病院にいてさやかの傍に居てやるものなのだろうか。
とにかく一旦家に帰ることにした。
病院の入口で弟と会った。
彼も電話だろうかと考えた。
「今日はこれで帰るよ。」
「うん、分かった。」
彼の目も腫れていた。
「一応連絡先聞いててもいいかな?」
「うん。」
少し不思議そうな顔をしたが快く了承してくれた。
「お父さんとお母さんにはなんとなく連絡しづらいから‥」
「だろうね、何かあったらこっちからも掛けてもいい?」
「もちろん。いつでも飛んでくるから。」
「うん、それじゃ。」
「あぁ。」
速やかに電話番号を交換し、改めて帰路につく。