ガンマニア日本人と頽廃ショットガン少女の逃避旅
乾いた風が、ヘルメットのシールドを叩く。
視界の端まで広がる赤茶けた大地に、道路だけが一本、定規で引いたように真っ直ぐ伸びていた。神崎隼人は大型オフロードバイクのスロットルを軽く握り込み、速度を一定に保つ。
時速80キロ。快適でもなく、無茶でもない、ちょうどいい速度。
射撃場までは、あと四十分。
民間で扱える中では最大クラスのライフルレンジ。弾も、的も、日本では絶対に拝めない種類のものが揃っている。
隼人はいわゆるミリオタ、中でもガンマニアと呼ばれる部類の人間だった。
大学生になり夏休みの自由帰還が長くなったことから、家族水入らずでアメリカ旅行に来た。のはいいのだが、隼人とその両親全員がマイペースすぎて現地で自由行動という家族で来た意味とはと言いたくなるような状態だった。
父親は元の職場の仲間と飲みに行くといってもう三日はホテルに帰っていないし、母親はアメリカ本場のブランドショップに行ってくるとだけ言って車を借りてさっさと行ってしまった。
自由だなとあきれている隼人だが、本人も他人(両親)のことは言えない。なにせ隼人も一人で砂漠の中にある射撃場へ向かっているのだから。
日本からわざわざアメリカまで来て、砂漠を突っ切ってまで行く価値のある射撃場かと聞かれれば、隼人は迷わず頷く。
「『実際にこいつをフルスペックで撃てる場所なんて多くないしなぁ。』」
――と、そこまで考えたところで、前方の路肩に何かが見えた。
最初は、事故か何かだと思った。道の端、灼けたアスファルトの陰に、うずくまるような人影とタイヤの外れて横転した小型バイク。
隼人は反射的に速度を落とす。この道は、あと40分は次の街まで何もない。ここで人が倒れているのは、普通ではない。
バイクを路肩に寄せ、エンジンを止める。ヘルメットを外しながら近づくと、それは女だった。若い。自分と同年代か、少し下か。
銀色の髪。長い。腰まである。埃と乾いた血がこびりついているのに、それでも妙に艶があって、光の加減で虹色に見える。膝を抱えるように座り込み、隼人が近づいても顔を上げない。
その足元に、無造作に転がっているものを見て、隼人は一瞬だけ息を止めた。
軍用ショットガン。民間では絶対に流通していない型だ。
「……おい」
声をかけると、女がゆっくりと顔を上げた。感情の抜けた目。怯えても、泣いてもいない。ただ、こちらを観察するような視線だった。
「何、あんた」
「いや、それはこっちの台詞だ」
隼人は片膝をついて、目線を合わせる。傷はある。だが、致命傷ではなさそうだ。着ているものは、育ちの良さを感じさせるワンピース。それに、動きやすそうなスパッツを合わせている。ちぐはぐだ。まるで、パーティー会場から逃げてきたまま戦場を走り抜けてきたような格好だった。
「歩けるか」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「なら、運んでよ」
ふてぶてしい返事だった。普通なら苛立つところだが、隼人は妙に納得した。困っている人間の態度としては違和感がある。むしろ、こちらの反応を試しているような目だ。
「名前は」
「エヴァ」
「エヴァ、何」
「言う必要ある?」
「ない。けど聞いとく」
そこで、隼人は違う音に気づいた。
遠くから、エンジン音。複数。土煙が地平線に立ち上っている。乗用車のものではない。もっと重い、装甲された車体特有の唸り。
「……マジかよ」
「あー」とエヴァが気だるそうに呟いた。「見つかったか」
「お前を追ってる連中か」
「たぶん」
「たぶんじゃ困るんだよ、それ」
隼人は素早く立ち上がり、エヴァの腕を引いて立たせる。抵抗はなかった。ただ、値踏みするような視線がこちらに向けられているのは分かった。
「乗れ。話は後だ」
バイクに跨り、エヴァを後ろに座らせる。荷台のストラップを軍隊仕込みの手際でエヴァの体に回しながら、隼人は自分の判断の速さに、自分でも少し呆れていた。
見ず知らずの、しかも軍用ショットガンを持った女を、追跡者から逃がす。
正気の沙汰ではない。だが、放っておけない。理由なんてそれだけで十分だった。
エンジンをかけた瞬間、無線代わりのブルートゥースヘッドセットが震える。父、マーカスからの着信だ。
「親父、今忙しい」
『隼人。今すぐ逃げろ』
前置きなしの声だった。冗談を言っているトーンではない。
「……は?」
『今すぐだ。理由は後で話す。今すぐ北に向かえ』
「いや、もう色々あって――」
『何した』
「もう後ろに乗せてる」
数秒の沈黙。
『……あぁ!?』
「詳しくは後で。今からめちゃくちゃ追われそうなんだけど」
『くそが……いいから走れ! 絶対に止まるな!』
通話が切れる。隼人は短く息を吐いて、スロットルを握り直した。
「親父さん、うるさいね」
背中越しに、エヴァの声。緊張感のかけらもない口調だった。
「お前のせいだよ、たぶん」
「たぶんね」
装甲SUVが二台、砂煙を巻き上げながら道路に合流してくる。距離、およそ四百メートル。速度差はほぼない。振り切るのは難しい。
「つかまってろ」
隼人はバイクを発進させた。タイヤが乾いた路面を噛み、加速する。
背後で、金属が擦れる音がした。振り返らなくても分かる。エヴァがショットガンを構えている。
「おい、正気か」
「正気だけど」
「正気なら余計駄目だろ」
「じっとしてたら死ぬだけよ」
反論の余地はなかった。隼人はハンドルを握り直し、道の起伏を読みながら速度を上げる。
追跡車の一台が距離を詰めてきた。窓から、人影が身を乗り出す。拳銃での狙撃の構え。
「伏せろ!」
言われるまでもなく、エヴァはすでに姿勢を低くしていた。動きに無駄がない。素人の反応ではなかった。
着弾音。後方のアスファルトが弾け、破片が飛ぶ。隼人はハンドルを左右に振り、直線的な射線を切る。狙われる側の動きとしては教科書通りだが、実際にこれを頭で考えずに体が動くようになるまで、父にどれだけ叩き込まれたか。
「近づかせすぎ」
エヴァが呟くように言うと同時に、轟音が響いた。
ショットガンの発砲音。少女の細腕の片手なのに、軽々と構えられたオプションパーツマシマシのKSG(大型ショットガン)から散弾が放たれていた。
狙いは正確に、追跡車のフロントガラス付近を捉えている。運転手が怯んだのか、車体がわずかに蛇行する。
「威力すごいな、おい」
「特注だから」
会話をしている場合ではないのに、二人ともどこか他人事のような口調だった。隼人はその違和感に少しだけ引っかかりながらも、今はそれどころではないと思考を戦闘用に切り替える。
道の先に、街の輪郭が見えてきた。建物、信号、人通り。追跡者たちも、さすがに市街地でこれ以上の発砲はためらうはずだ。
「あと少しだ、耐えろ」
「言われなくても」
背後でもう一発、牽制のショットガン音。追跡車との距離がわずかに開いた。
隼人はアクセルを開ける。バイクは唸りを上げ、砂漠と市街地の境界線を一気に駆け抜けていった。
――ネバダの空の下、始まったばかりの逃避行は、まだその全貌を見せていない。
第二章 リノ市
市街地に入ってからしばらく、追跡車の姿は見えなくなっていた。だが、それで安心できるほど隼人は楽観的ではない。装甲SUVを二台も動かせる組織が、ここで追跡を諦めるはずがない。むしろ、体勢を立て直すための一時撤退と見るべきだった。
隼人はバイクを裏通りに停め、コインランドリーの陰でエンジンを切る。
「ここまでか」
「みたいね」
エヴァは特に安堵した様子もなく、ヘルメットを脱いでバイクから降りた。返り血ではないが、砂と乾いた血で汚れた髪を軽く払う仕草が、状況にそぐわないほど優雅だった。
隼人はヘッドセット越しにもう一度マーカスへ連絡を入れる。呼び出し音は一回で繋がった。よほど待ち構えていたのだろう。
「親父、着いた。今どこにいる」
『お前らの位置は把握してる。動くな。三十分でそっちに行く』
「三十分って……」
『文句言うな。今回ばかりは俺の顔も立ててもらう』
通話が切れる。隼人は肩をすくめ、エヴァを見た。
「三十分、ここで待てってさ」
「暇ね」
「暇で済む状況か、これ」
「暇でしょ。狙われてないんだから」
隼人はその返答に、一瞬言葉を失った。命を狙われている状況を「暇」と表現する人間に、これまで出会ったことがなかったからだ。
三十分後。約束通り、黒いレンタルセダンが路地の入り口に停まった。降りてきたのは、日焼けした精悍な顔つきの中年男――親父ことマーカス・カンザキだった。
元デルタフォースという肩書きは伊達ではなく、歩き方だけで只者でないと分かる。
「隼人」
「親父」
「後ろの嬢ちゃんが、今回の元凶か」
「エヴァ」とエヴァが自分で名乗った。「元凶ってのは心外だけど」
マーカスはエヴァを一瞥し、それから深く息を吐いた。何かを察したような、諦めたような表情だった。
「……エヴァ・ヴァレンタインだな」
「知ってるんだ」
「名前くらいはな。厄介事の代名詞として」
隼人は二人のやり取りに割って入る。
「おい、状況を説明してくれ。俺は何も分かってない」
マーカスは周囲を一度確認してから、声を落として話し始めた。
「お前が拾ったのは、HBTP――ヘルスバイオテクノロジーカンパニーの元社長、ヴィットリオ・ヴァレンタインの娘だ。今のHBTPを実質的に動かしている副社長、ゼノ・ウルフラスが、彼女を確保しようと躍起になっている」
「なんでそんな大企業の娘が、砂漠で一人でショットガン持って倒れてるんだよ」
「詳しい経緯までは俺も知らん。だが、目的は調べはついてる。ヴィットリオが遺した莫大な資産だ。それにアクセスするための認証キーはこいつの脳波パターンだ」
「脳波パターン?……?」
「脳波認証だ。自社で作った最新鋭セキュリティーだってよ。」
隼人はエヴァを見た。エヴァは興味なさそうに視線を逸らしている。まるで自分のことではないような態度だった。
「つまり、こいつを生け捕りにすれば、その資産に手が届くってことか」
「そういうことだ。だから連中は殺さず、確保しようとしてる。結構な人員そろえてな。」
沈黙が落ちる。隼人は状況の大きさを、ようやく実感として飲み込み始めていた。旅行のついでに拾った少女が、巨大企業の抗争の中心にいる。冗談のような話だが、目の前の装甲車の弾痕は冗談ではなかった。
「で、これからどうすんだよ」
マーカスはニヤリと笑った。それは、これまでの深刻な表情とは違う、どこか悪戯っぽい笑みだった。
「ここから先は、お前ら二人で動け」
「は?」
「俺たちが囮になる」
隼人は一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
「囮って……」
「俺と、古巣の元デルタフォースの連中でな。レンタカーを何台も使い、目立つホテルに泊まり、あちこちでクレジットカードを使う。HBTPの追跡班に、俺たちがお前らだと誤解させる。時間を稼ぐには十分だ」
「そんな簡単にいくのか」
「向こうも馬鹿じゃないが、こっちはプロ中のプロだぜ?あいつらじゃ到底届かない経験がある。それに、な」
マーカスは少しだけ声のトーンを落とした。
「お前を巻き込んだのは、俺の昔の因縁も関係してる。だから、ここは俺の責任でもある」
その一言に、隼人は何か聞き返そうとしたが、マーカスはそれを遮るように話を進めた。
「装備を補充する。合法・非合法、両方のルートを使う。時間はない、急ぐぞ」
倉庫のような建物に案内され、そこには既に大小様々なケースが並べられていた。デルタフォースのバックアップチームが用意したものだろう。隼人は目の前に広げられた装備を見て、思わず頬を緩めた。
「ライフルスコープ、最新鋭のAR、弾薬、フラッシュバン、グレネードまで……親父、これ全部合法なのか」
「半分はな。国に登録されてるって意味じゃ合法。」
「残りの半分は」
「知らない方がいい」
エヴァの方にも、別のケースが用意されていた。ショットガン用の弾薬、サイドアーム、それに医療キット。彼女はそれらを一つ一つ、手慣れた様子で点検していく。指先の動きに迷いがなかった。
「お前、こういうの扱い慣れてるんだな」
「そうね。こっち(アメリカ)はそっち(日本)と違って銃社会だし。」
「そんなレベルじゃないと思うんだがなぁ」
「知らない方がいいんじゃない? さっきの親父さんの台詞みたいに」
軽口だったが、隼人はその言い方に、彼女が意図的に核心をはぐらかしていることに気づいた。深く追及はしなかった。今はまだ、その必要がないと判断したからだ。
装備を整え終えた頃、マーカスが変装用の服を二人に投げ渡した。
「これに着替えろ。顔はヘルメットで隠す。それでも念のためだ」
渡されたのは、隼人には少し着崩したライダースジャケットと、あえて崩したブーツ。エヴァには、露出は控えめだが、明らかに遊び人風の派手なデザインの服だった。二人の関係が「不健全な恋人同士」に見えるよう、意図的に演出されている。
「……なんつー趣味だよ、親父」
「一番怪しまれない組み合わせだ。文句言うな。ちゃんと町出たら着替えていいぞ。」
日が暮れる頃、二人は用意されたバイクに乗り換え、マーカスたちとは別方向へ走り出した。マーカスたちは反対に、あえて目立つ車列を組んで街の中心部へ向かっていく。
「うまくいくといいけど」とエヴァが呟く。
「親父のことだ、心配ない」
その夜、二人は郊外の小さなモーテルに部屋を取った。二人部屋しか空いていなかったのは、偶然か、それともマーカスの手配のせいか、隼人には判断がつかなかった。
シャワーを浴びたエヴァが、髪をタオルで拭きながらベッドに腰掛ける。隼人は壁際の椅子に座り、装備の点検を続けていた。
「なあ」
隼人が沈黙を破る。
「お前、いくつだ」
エヴァは少し間を置いてから答えた。
「十八」
「嘘だろ」
「本当」
「絶対碌でもない人生だな」
「うん」
その短い肯定に、隼人は何とも言えない気持ちになった。冗談めかして聞いたつもりだったが、返ってきたのは重みのある「うん」だった。それ以上、何を聞けばいいのか分からず、隼人は口をつぐんだ。
エヴァはしばらく黙って隼人を見つめていたが、やがてタオルを放り出し、ベッドの上でこちらに向き直った。その仕草には、これまでの気だるさとは違う、どこか女の艶があるように感じてしまった。
「ねぇ、隼人」
「なんだよ」
「私、あなたに払えるものなんて、これくらいしかないと思うんだけど」
言いながら、エヴァはゆっくりと服のボタンに手をかけた。隼人は一瞬、その意味を理解しかねて固まった。
「お、おい」
「好きにしていいわよ」
「いや、待て、何言って」
「ほだしておけば、いざという時に裏切らないかなって」
その言葉で、隼人はようやく彼女の意図を正確に理解した。これは誘惑でも好意でもない。純粋な打算だ。自分の体を、生き延びるための道具として差し出そうとしている。
ーーー何の躊躇もなく
その事実に、隼人は強い苛立ちを覚えた。
「やめろ」
「ふーん、興味ない?」
「服、直せ」
エヴァは動きを止め、初めて意外そうな表情を見せた。予想していた反応と違ったのだろう。
「なんで。悪い取引じゃないと思うけど」
「悪いに決まってるだろ。お前、自分が何言ってるか分かってんのか」
「分かってるけど」
「分かってて言うな。女の子がそういうことを、そんな簡単な理由で口にするもんじゃない」
隼人は立ち上がり、エヴァの前に立って、まっすぐに彼女を見た。説教くさいと自分でも思ったが、止まらなかった。
「俺はお前を裏切らない。取引だからじゃない。困ってる奴を見捨てられないだけだ。それに信頼が欲しいなら、そんな方法使うな。安売りするもんじゃない」
エヴァは何も言わず、隼人をじっと見つめていた。その表情から、何を考えているのかは読み取れなかった。
やがて、彼女はふいと視線を逸らし、ボタンを直すと、そのままベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
「……ケチ」
不満そうな声だったが、それ以上何かを言うことはなかった。そのままベッドの上でゴロゴロとふてくされたように転がっていたが、気が付けば小さく寝息が聞こえていた。
エヴァが寝たのを確認して隼人はため息をつき、再び椅子に腰を下ろす。
沈黙の中、隼人はふと思った。今の反応――エヴァが素直に引き下がったこと自体が、彼女にとっては珍しいことなのではないか、と。
窓の外では、リノの街の明かりが、遠く小さく瞬いていた。明日には、この街を発つ。まだ見ぬ道のりの長さを思いながら、隼人は装備の点検を再開した。
第三章 ユタ州
リノを出て、国道を東へ。景色は徐々に砂漠から、白く乾いた大地へと変わっていった。
ユタ州のソルトフラット。見渡す限り、塩の結晶で覆われた平原が地平線まで続いている。太陽の光を反射して、まるで巨大な鏡の上を走っているような錯覚に陥る場所だった。
「うわ、なにこれ」
エヴァが後ろから身を乗り出し、素直に声を上げた。ヘルメットのシールド越しでも、その声には隠しきれない興奮が滲んでいた。
「塩の湖の跡だ。乾いて、こうなった」
「知ってる。でも実際見ると違う」
隼人は速度を落とし、道の端にバイクを寄せる。少し休憩を挟むつもりだった。マーカスたちの囮作戦が機能している間は、多少の余裕がある。エンジンを止めると、辺りは驚くほど静かだった。風の音すら、ここでは希薄に感じる。
エヴァはヘルメットを脱ぎ捨てるようにして、塩の大地に駆け出していった。子供のような足取りだった。数メートル先でくるりと振り返り、こちらに向かって手を振る。
「隼人、早く来なよ」
「おい、あんまり離れるな」
「敵、いないでしょ、今」
「いないけど……」
隼人はため息をつきながらも、彼女の後を追った。塩の地面を踏むと、乾いた音が響く。足跡がくっきりと残った。
「見て、これ」
エヴァは屈み込み、地面に指で何か描いていた。覗き込むと、下手くそな似顔絵らしきものが二つ。
「これ誰だよ」
「隼人と私」
「俺、こんな顔してない」
「してるよ」
言い合いになったが、隼人はどこか楽しんでいる自分に気づいて、少し戸惑った。命を狙われている最中だというのに、この時間だけは妙に穏やかだった。
昼過ぎ、二人は小さな街道沿いのダイナーに立ち寄った。マーカスから現金と偽名入りのカードを渡されていたため、支払いに困ることはない。
「何食う」
「んー、パンケーキ」
「朝ごはんみたいなの、昼に食うのか」
「食べたい時に食べたいもの食べるのが一番でしょ」
メニューを開いたエヴァは、真剣な表情で選び始めた。パンケーキ、それに追加でハッシュブラウンとフレンチトーストまで頼もうとするので、隼人は思わず口を挟んだ。
「頼みすぎだろ。残すなよ」
「残さないもん」
「ならいいけど」
料理が運ばれてくると、エヴァは本当に残さず、しかし驚くほど行儀よく食べ進めた。育ちの良さが、こういう場面でふと顔を出す。隼人はそれを黙って観察していた。
食後、支払いを済ませて店を出ようとしたところで、エヴァが急に立ち止まった。
「ねえ、あのデザート、写真だけ豪華に見えて実際はしょぼいやつだった」
「知らねえよ、そんなの」
「返品したい」
「食い終わってるだろうが」
「気持ちの問題」
むくれた顔で、エヴァは腕を組んで店の看板を睨みつけている。年齢を聞いても、こういう仕草を見ていると、どうしても幼く見えてしまう。隼人はその横顔をちらりと見て、小さく笑った。
「行くぞ。日が暮れる前に距離稼ぎたい」
「はーい」
不満げな声のまま、それでもエヴァは素直にバイクへ向かった。この切り替えの早さも、彼女の特徴の一つだと隼人は思い始めていた。
再び国道を走り出してから、一時間ほど経った頃だった。
「……隼人」
エヴァの声のトーンが変わった。さっきまでの気だるい調子や、明るい調子ではない。低く、鋭い声だった。
「どうした」
「後ろ、二時の方向。バイク一台、ずっと同じ距離保ってる」
隼人はミラーを確認する。確かに、一定の距離を保ったまま追走してくるバイクがあった。偶然にしては不自然な追尾の仕方だった。
「見つかったか」
「たぶん、偵察。本隊じゃない。あとまだ疑ってるだけだと思う。」
「どうする」
エヴァの声に、わずかな笑みが混じった気がした。
「潰そう」
「おい」
「情報持ち帰られる方が面倒でしょ」
理屈は通っている。だが、その声の弾み方に、隼人はさっきまでの子供っぽさとは全く違う何かを感じていた。
隼人は速度を保ちながら、次の交差点で意図的に脇道へ逸れた。人通りのない、廃工場が並ぶエリア。エヴァの提案通りなら、ここで仕掛けるつもりなのだろう。
追走のバイクも、間を置かずに脇道へ入ってきた。
「来た」
エヴァの声には、明らかな高揚があった。隼人はバイクを急停止させ、身を低くする。エヴァはすでに車体から飛び降り、廃材の陰に身を潜めていた。動きに一切の迷いがない。
追跡者のバイクが速度を落とし、辺りを警戒しながら進んでくる。乗っていたのは、黒いタクティカルギアに身を包んだ男だった。ライフルを肩掛けにしている。
その男が、隼人のバイクを見つけて足を止めた瞬間。
「見つけた」
エヴァの声が、すぐ背後から響いた。
男が振り返る前に、エヴァはすでに距離を詰めていた。ショットガンの銃床で、男の腕を強かに打ち据える。ライフルが地面に落ちる音。男が呻き、体勢を崩したところへ、エヴァは容赦なく銃口を突きつけた。
「動いたら、頭吹き飛ぶけど」
淡々とした声だった。だが、隼人には分かった。ヘルメットで隠れているその口元に浮かんでいるのは、間違いなく笑みだった。恐怖ではなく、愉しんでいる笑み。
「エヴァ、殺すなよ」
隼人が慌てて駆け寄ると、エヴァは少しだけ残念そうな顔をした。ほんの一瞬、本気で不満そうな表情を見せたことに、隼人は内心でぞっとした。
「分かってるってば。情報聞き出す方が先でしょ」
「その言い方、殺したかったみたいに聞こえるんだが」
「気のせいじゃない?」
そのまま男を締め上げ、いくつかの情報を聞き出した。追跡部隊の一部が、既にこのルートを予測していること。本隊が半日ほど遅れて後方にいること。そして、ゼノ・ウルフラスが「確保優先、だが手荒な真似も辞さず」という指示を出していること。
男を拘束して廃工場の中に残し、隼人とエヴァは再びバイクに乗り込んだ。運が良ければ後続の本体か偶然通りかかった警官に救助されるだろう。
「思ったより早く見つかったな」
「そうね」
「大丈夫か、お前」
「何が」
「いや……」
エヴァは一瞬黙り、それから小さく笑った。さっきの戦闘中の笑みとは違う、少しだけ困ったような笑い方だった。
「楽しいよ。だって、勝てるって分かってる勝負だから」
その言葉の裏に何があるのか、隼人にはまだ分からなかった。ただ、パンケーキに不満を漏らしてふてくされていた彼女と、今しがた敵を無傷で制圧して笑っていた彼女が、同一人物であることに、隼人は奇妙な感覚を覚えていた。
「変な奴だな、お前」
「よく言われる」
バイクは再び走り出す。塩の大地はいつの間にか後方に消え、赤茶けた岩肌の続く道へと変わっていた。
コロラドまでは、まだ距離がある。
第四章 コロラド州
赤茶けた岩肌の道は、コロラドに近づくにつれて緑を取り戻していった。乾いた大地から一転、針葉樹の森と切り立った山肌が視界を占めるようになる。標高が上がるにつれ、空気も冷たくなっていた。
「寒くなってきたな」
「うん。さっきの服、脱いでよかった」
リノで着せられた「不健全な恋人風」の服は、街を出てすぐに脱ぎ捨てていた。今のエヴァは、動きやすい実用重視の服装に戻っている。それでも、腰と肩のベルトにショットガンと大型ポーチという組み合わせは変わらない。
昼過ぎ、隼人のヘッドセットにマーカスから連絡が入った。
「親父、そっちの状況は」
『順調……と言いたいところだが、少し雲行きが怪しい』
「怪しいって」
『向こうも馬鹿じゃなかったってことだ。俺たちが囮だと、半分くらい気づき始めてる』
隼人は思わず舌打ちした。
「半分ってどういうことだよ」
『本隊が二手に分かれた。半分は俺たちを引き続き追ってる。もう半分は――お前らの方に向かってる可能性が高い。しかも所属不明のヘリが確認された。たぶん兵員輸送のためだろう。』
「……最悪じゃねえか」
『悪い。俺の見立てが甘かった』
マーカスの声には、珍しく苦さが滲んでいた。隼人はそれ以上責める気になれず、短く息を吐いた。
「分かった。こっちも気をつける」
『できれば、山を避けて幹線道路を使え。追手が来るにしても、視界が開けてる方がまだいい』
「了解」
通話が切れる。隼人はエヴァに状況を説明した。エヴァは腕を組み、しばらく黙って聞いていたが、やがて小さく頷いた。
「あの時の斥候との定期連絡が途切れたからかな。本隊が来るなら、さっきみたいな一対一じゃ済まないね」
「だろうな」
「面倒だけど、仕方ない」
その声には、恐れよりも面倒くささの方が強く滲んでいた。隼人はその態度に、いつも通りの奇妙な安心感を覚えつつも、油断はしなかった。
幹線道路に合流してから、一時間ほど走った頃。前方に検問のようなものが見えた。
「……あれ、本物の警察じゃないな」
隼人は速度を落としながら呟いた。制服こそ似せているが、装備が明らかに過剰だ。アサルトライフルを堂々と携行している警察官など、まずいない。
「止まらないで」
エヴァの声が鋭くなる。
「だよな」
隼人はハンドルを切り、検問の脇の未舗装路へと逸れた。背後で怒声が響き、複数のエンジン音が一斉に唸りを上げる。
「本隊、来た」
エヴァの声に、緊張と、わずかな高揚が混じっていた。隼人はミラーを確認する。追跡車両、四台。バイクも二台。数の上では、明らかにこちらが不利だった。
「多いな、おい」
「多いね」
「他人事かよ」
「他人事じゃないけど、数が多い方が退屈しないし」
軽口の裏で、エヴァはすでにショットガンの弾を確認していた。隼人はアクセルを開け、未舗装路を駆け抜ける。土埃が舞い上がり、視界が悪くなる。だが、それはこちらにとっても、向こうにとっても同じ条件だった。
「隼人、左に曲がって。二百メートル先、崖沿いの細道がある」
「なんでそんなの知ってる」
「さっき地図で見た」
「そんな一瞬で覚えたのか」
「必要な情報だから」
隼人は疑問を飲み込み、指示通りにハンドルを切った。細道に入ると、追跡車両の大型SUVは速度を落とさざるを得なくなる。道幅が、明らかに車両向けではなかった。
「これは……」
「バイクなら通れる。向こうの車はきつい」
エヴァの読みは正しかった。SUVは一台、道の狭さに対応できず、車体を岩肌に擦らせて速度を落とした。だが、バイク二台は問題なく追走を続けてくる。
それどころかこのままでは振り切られると思ったのか、スロットを上げてきた。
「バイク組が来る」
「分かってる」
細道を抜けた先、開けた渓谷沿いの道に出た瞬間、追走のバイク二台が左右から挟み込むように距離を詰めてきた。
「エヴァ、右!」
「見えてる」
エヴァは体を捻り、右側のバイクに向けてショットガンを構える。だが、その瞬間、左側のバイクからも発砲があった。銃弾が隼人のバイクのミラーを掠める。
「くっ……」
「隼人、右に切って!」
言われるがまま、隼人はハンドルを右に切った。同時に、エヴァが左側へショットガンを撃ち放つ。狙いは正確に、左のバイクの前輪付近を捉えた。バランスを崩したバイクが、そのまま道路脇の斜面へと転がり落ちていく。
「一台」
エヴァの声は、感情の起伏がほとんどなかった。淡々と戦果を数えるような口調。だが、隼人にはその奥に、確かな昂揚の色が見えた気がした。
残る一台のバイクが、なおも距離を詰めてくる。乗り手は、これまでの追手とは明らかに動きが違った。無駄がなく、冷静だ。
「隼人、こいつ本隊の中でも上位だと思う」
「なんで分かる」
「動きが読めない。今までのやつらと違う」
その言葉通り、追手のバイクは隼人たちの動きを先読みするように、次の一手を潰しにかかってきた。並走しながら、こちらのタイヤを狙って発砲してくる。
隼人もハンドルを右に左に動かして狙いを付けさせないようにしてはいるが、何度か銃弾が車体をかすめた。
「エヴァ、当てられそうか」
「揺れすぎて無理。もう少し安定させて」
「無茶言うな……!というかそれ散弾だろ、狙って当てるもんじゃねぇ!!」
それでも隼人は、道の凹凸を読みながら、可能な限り直線に近い軌道を保とうと努力した。エヴァはその一瞬の安定を逃さず、銃口を追手に向ける。
「――――」
引き金を引く直前、追手のバイクが急に進路を変えた。エヴァの狙いを外すための、計算された回避だった。
「っ、避けられた」
「言ったでしょ、上位だって」
追手は反撃とばかりに、再び発砲してくる。隼人は咄嗟にバイクを傾け、弾道を逸らした。金属音。タンクの端を弾がかすめる。
「エヴァ、これ長引くとまずい」
「分かってる。……ねえ、隼人」
「なんだ」
「私が撃つタイミング、合わせて。三、二、一で急ブレーキかけて」
「はぁ!?」
「いいから!」
有無を言わさぬ声だった。隼人はハンドルを握り直し、覚悟を決める。
「三、二、一――」
隼人が急ブレーキをかけると同時に、後方のバイクが勢い余って一気に距離を詰めてきた。エヴァはその瞬間を待っていたように、体を反転させ、至近距離から銃口を突きつける。
「これで、終わり」
発砲音。追手のバイクが大きく揺れ、道路脇に停止した。乗り手は落馬こそしなかったが、明らかに戦意を失っていた。
「……派手にやったな」
「殺してない。ただ、動けなくしただけ」
隼人は短く息を吐き、速度を落とした。追跡車両との距離は、だいぶ開いていた。少なくとも、この場はしのげたようだった。
夕暮れ、二人は山あいの小さな休憩所にバイクを停めた。周囲に人影はない。しばらく無言のまま、隼人は銃弾傷を補修し、エヴァは岩に腰掛けて空を見上げていた。
「なあ」
隼人が口を開く。
「お前、さっきの動き、素人じゃないだろ」
エヴァは答えなかった。
「聞かれたくないなら、いい。ただ、一つだけ」
「……なに」
「楽しい、って言ってたよな。あれ、本心か」
エヴァは少し黙り込んだあと、ぽつりと呟いた。
「本心。でも、それだけじゃない」
「どういう意味だ」
「戦ってる時だけ、頭の中がうるさくないの」
その言葉に、隼人は何も返せなかった。エヴァはそれ以上語らず、ただ膝を抱えて空を見上げていた。夕焼けが、彼女の銀髪を淡く赤く染めていた。
「……行くか」
「うん」
エヴァは立ち上がり、いつもの気だるげな態度に戻ってバイクへ向かった。だが、隼人の中には、さっきの一言だけが、妙な重さで残り続けていた。
コロラドの山を抜ければ、次はニューメキシコ。旅の終わりは、まだ見えない。
第五章 ニューメキシコ州
コロラドの山を抜け、乾いた台地が再び広がり始めた頃、マーカスから合流の連絡が入った。
指定されたのは、ニューメキシコ州の外れにある、廃業したモーテル兼ガソリンスタンド。錆びついた看板が、かろうじて元の文字を残していた。
到着すると、マーカスたちのチームがすでに待機していた。囮に使っていたレンタカーは乗り捨てられ、代わりに無骨な四駆が二台停まっている。
「よう、生きてたか」
「そっちこそ」
マーカスは軽口を叩きながらも、その目には疲労の色が濃く出ていた。囮役として動き続けた数日間は、決して楽なものではなかったのだろう。
しかもこちらに合流するため、昨日は徹夜の強行軍だったそうなので、余計に疲労が重なっているのだろう。
「本隊の動きは?」
「散々引っ掻き回してやったが、そろそろ限界だ。連中もお前らの本当の居場所を絞り込み始めてる」
マーカスはテーブルに地図を広げた。ニューメキシコ州の南寄り、空港機能を持つ軍基地の位置に、赤い印がついている。
「ゴールはここだ。カークランドの系列にある、州兵と正規軍の混成基地。滑走路もある」
「基地……」
「エヴァを正式に保護下に置ける、唯一の場所だ。国としても、お前を確保すること自体が目的なんだよ」
隼人は首をかしげた。
「確保って、どういう意味だ。エヴァの何がそんなに重要なんだ」
マーカスは短く息を吐いた。
「エヴァ自身の話は、後で本人から聞け。俺が言えるのは、国側の狙いの方だ」
「国側の?」
「ゼノ・ウルフラスの目的は、エヴァを確保して、ヴィットリオの遺産にアクセスすること。あの金は、ただの遺産額じゃない。海外の武装組織や、複数の国の非合法勢力とのパイプに使われる予定だった資金だ」
「……つまり」
「ゼノがエヴァを手に入れれば、その金を使って国外に高飛びする。捕まえる術はほぼなくなる。だが、先にこっちがエヴァを基地に入れちまえば、ゼノは資金にアクセスできない。手ぶらで逃げるしかなくなる」
隼人はようやく、状況の輪郭を理解した。エヴァを守ること自体が、そのままゼノの計画を頓挫させる一手になる。逆に言えば、エヴァが基地の門をくぐった瞬間が、この長い逃避行の「勝利条件」だった。
「基地までの距離は?」
「直線なら半日もかからん。だが、問題は間にある」
マーカスは地図の一点を指で叩いた。基地までのルート上に、大きく丸で囲まれた市街地がある。
「ここだ。ここ数年で治安が急速に悪化した町でな。地元のギャングと、麻薬絡みの武装勢力が縄張り争いをしてる。警察もまともに機能してない。というか普通にシャブ吸ってやがる。」
「HBTPとは関係ないのか」
「今のところはな。だが、金さえ積めば誰でも情報屋になる土地だ。ゼノ側が先回りして、町の連中に見張りを頼んでる可能性は十分ある」
「厄介だな……」
「だから、慎重に抜けろ。無駄な戦闘は避けろよ。ここを抜けたら、基地まではほぼ一本道だ」
隼人は頷き、地図を頭に叩き込んだ。
その夜、モーテルの一室で、隼人とエヴァは二人きりになった。マーカスたちは、隣の部屋で最終確認をしている。
エヴァはベッドに腰掛け、渡されたタブレットの画面を眺めていた。町の地図、過去の事件の報告、SNSに上がっている現地の様子。複数のウィンドウを、目まぐるしく切り替えている。
「そんなに一気に見て、頭に入るのか」
「入る。でも、疲れる」
「疲れる?」
エヴァはタブレットを置き、こめかみを軽く押さえた。
「私、昔からそうなの。目に入る情報、耳に入る音、全部同時に処理しちゃう。一つのことだけ考えるのが、逆に苦手」
「便利そうだけどな」
「便利だけど、しんどい。だって、休みたい時も休めないから」
その言葉に、隼人はふと、これまでのエヴァの態度を思い出した。気だるげな仕草、興味なさそうな視線。あれは怠惰なのではなく、常に頭の中が処理しきれない情報で埋まっていることへの、無意識の防御反応だったのかもしれない。
「じゃあ、あの時言ってた『頭の中がうるさくない』ってのは」
「そう。戦ってる時だけ、違う」
エヴァは少し身を乗り出し、珍しく熱を帯びた声で続けた。
「銃を構えて、相手の動きだけ見てる時。あの一瞬だけ、他のことが全部消える。音も、情報も、雑念も。的の動きしか、考えられなくなる」
「それが、楽しいって言った理由か」
「うん。生きるか死ぬかの状況だと、脳が勝手に一つに絞ってくれる。普段はできないこと」
隼人は少し黙り込んだ。
「お前、改造されてるとか、そういうんじゃないんだよな」
「違うよ。生まれつき」
「天才ってやつか」
「ギフテッドって言われる。でも、得したことより疲れたことの方が多い」
その言い方は、投げやりというより、ただの実感のこもった呟きだった。隼人は、目の前の少女が特別な兵器でも実験体でもなく、ただ生まれつき頭の回転が異常に速いだけの、普通の人間なのだと改めて理解した。だからこそ、余計に危うく思えた。
「それ、褒められたことじゃないと思うぞ。戦闘でしか休めないって」
「分かってる。褒めてほしいわけじゃない」
「明日、その町を抜けたら、もう基地は目と鼻の先だ。そこまで行けば、少なくとも、お前が休める場所ができる」
エヴァは詰まらなさそうな表情を浮かべた。
「楽しかったのになぁ、旅」
「…」
エヴァはしばらく黙って隼人を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「まぁ、気にしなくていいよ。資金なら使いきれないぐらいあるんだし」
「そうか」
小さな笑いのあと、部屋には静けさが戻った。だが、さっきまでの張り詰めた空気は、いくらか和らいでいた。
翌朝、マーカスが最終確認のために二人を呼んだ。
「町に入ったら、目立つな。バイクも裏道用の目立たない型に替える。武器は隠せ。できる限り、誰とも関わらずに突っ切るぞ」
「基地への到着予定は?」
「町さえ無事に抜ければ、日没前には着ける。あと、ほれ」
そう言ってマーカスは二人に手のひらサイズの拳銃…2発装填式のデリンジャーを渡した。
「これを使えば、まぁ怯ませることぐらいはできるだろ」
隼人はエヴァを見た。エヴァは頷き、いつもの気だるげな表情の中に、わずかな緊張を滲ませていた。
「行くか」
「うん」
窓の外、ニューメキシコの乾いた大地に、朝日が昇り始めていた。あと一つの町を越えれば、この長い旅にも、ひとまずの終わりが見えてくる。
第六章 突破
レオン・クローは、車内で苛立ちを噛み殺していた。
ここまで、何もかもがうまくいっていない。
ネバダでは撒かれ、リノでは足取りを見失い、コロラドでは部下が――他ならぬ自分の右腕格だった男が、あの銀髪の女にあっさりと無力化された。屈辱だった。ゼノからの信頼も、確実に目減りしている。
偶然でトップになった男とは言え、クライアントからの評価が下がるのは気分が良くない。
「今度こそ、だ」
助手席の部下に向けて、レオンは低く呟いた。
「町の連中には金を払ってある。情報屋も、見張りも、全部揃ってる。今度は絶対に逃がさない」
無線から、監視班の報告が入る。標的の二人が、町の中心部に差し掛かったという知らせだった。レオンは口の端を歪めて笑った。
「捕まえろ。多少手荒でも構わん。エヴァ・ヴァレンタインさえ生きていれば、後は何でもいい」
――――――――――
「視線、多いな」
隼人は小声で呟いた。路地の陰、店の窓、屋上。あちこちから、こちらを窺う気配がある。今までの町よりも、明らかに密度が違った。
「監視されてる。たぶん、最初から」
エヴァの声にも、緊張が滲んでいた。
「突っ切るぞ」
隼人はスロットルを開こうとした。その瞬間だった。
横道から、猛然とした勢いで一台の車が飛び出してきた。
「っ!」
とっさにハンドルを切り、衝突を避ける。だが、車はそのまま並走するように追ってきて、蛇行しながらこちらの進路を塞ごうとしてくる。
「妨害か!」
「追い立てられてる、たぶん」
エヴァの言葉通りだった。車は執拗に進路を制限し、隼人たちを特定の方向へと誘導しようとしていた。
「あっちに行かせたいのか、こいつら」
「分かってて逆走するのも危ない。今、バイクから降りるのも自殺行為」
「なら、突っ切るしかない」
隼人は歯を食いしばり、誘導される流れに乗るふりをしながら、可能な限り速度を上げた。逃げ場のない一本道。分かっていても、止まれない。加速するしかなかった。
「隼人、前!」
叫び声とほぼ同時に、乾いた連続音が響いた。
アサルトライフルの掃射。建物の陰から、複数の銃口がこちらに向けられていた。
「くそっ!」
弾丸が路面を跳ね、火花が散る。その一発が、後輪を捉えた。
タイヤが弾け、バイクが大きく制御を失う。
「飛べ!」
隼人の声とエヴァの反応が、ほぼ同時だった。二人は左右に体を投げ出すようにしてバイクから飛び降りる。地面に転がりながら、隼人は衝撃を殺しきれず肩を強く打った。
主を失ったバイクは、そのまま勢いよく滑走し、近くのビルの外壁に激突した。
轟音とともに、炎が上がる。
「……間一髪、だったな」
「うん」
息を整える間もなく、周囲から足音が響き始めた。ゆっくりと、しかし確実に、包囲網が狭まってくる。
十を超える人数。全員が、アサルトライフルかサブマシンガンを構えていた。
その中央を割るようにして、顔に傷のある黒人の男、レオンが姿を現した。
「随分と、手間取らせてくれたな」
レオンの声には、隠しきれない苛立ちと、それを上回る余裕があった。数の差は、圧倒的だった。
「大人しくついてこい。そうすれば、痛い目は見せずに済む」
隼人はデリンジャーを構えたが、この人数を相手にできる火力ではないことは、自分でも分かっていた。エヴァもまた、ショットガンを構えながら、じりじりと下がる。
だが。
「――ふふっ」
エヴァの口から、小さな笑い声が漏れた。
「エヴァ?」
隼人が驚いて振り返るのと、エヴァが動き出すのは同時だった。
「あはっ」
甲高い笑い声とともに、エヴァは最も近い男へ向けて一直線に駆け出した。
「なっ――」
包囲していた男たちが、その予想外の突撃に一瞬怯む。エヴァはその隙を逃さず、至近距離からショットガンを叩き込んだ。
「一人!」
言い終わるより早く、エヴァの体はすでに反転していた。呆気に取られていた別の男へ、間髪入れず二発目を撃ち込む。
「この状況で突撃だと?化け物か……!」
レオンの部下たちが、明らかな動揺を見せ始めた。統率の取れた包囲網が、エヴァの一人一人を潰していく動きに、次第に崩れていく。
三人目、四人目、五人目――。あっという間に人数が削られていく。
エヴァの動きに、迷いはなかった。むしろ、その口元には、隼人がこれまで見た中でも一番深い笑みが浮かんでいた。
六人目が、左腕を吹き飛ばされて力なく崩れ落ちた、その瞬間だった。
「危ない!」
隼人が叫び、エヴァの体を強引に押し倒した。直後、彼女がいた場所を、複数の銃弾が通り抜けていく。
「隼人!?」
「っ、あ……」
隼人の左足から、大量の血が噴き出していた。銃弾が、貫通していた。ちぎれてはいない、それだけが、せめてもの救いだった。
「隼人! 隼人!!」
エヴァの声が、初めて明確な動揺を帯びた。これまで、どんな状況でも崩れなかった彼女の表情が、大きく歪んでいた。
「大丈夫、だ……まだ、」
「大丈夫じゃない! こんなに血が……!」
エヴァは倒れた隼人を庇うように立ち上がり、残った男たちに向けてショットガンを構えた。その目には、これまでの高揚とは違う、獣じみた怒りが宿っていた。
「これ以上、近寄るな」
低く、地を這うような声だった。だが――エヴァの頭の中では、冷静な部分が別の警告を発していた。
弾が、もうほとんど残っていない。
このまま構え続けても、次の一撃で終わる。分かっていても、後ろに下がることはできなかった。隼人を守る以外の選択肢が、今のエヴァにはなかった。
数秒の、静止したような沈黙。
緊張感が一気に高まる。1対6、人数差では圧倒的優位に立っているレオンたちが眉目秀麗な少女の放つプレッシャーに圧倒されていた。
そして、次の瞬間…
男たちが、次の一手を決めかねているその隙間を突き破るように。
ーーー黒い軍用車両が路地の奥から猛然と突っ込んできた。
「なっ――」
先頭にいた男が、避ける間もなく跳ね飛ばされる。車両が急停止すると同時に、扉が弾け開き、三人の男たちが飛び出してきた。完全装備、無駄のない身のこなし。
そして、胸につけられたナイフと矢じり、そして逆三角のマーク…Δマーク。
現役のデルタフォース隊員だった。
「制圧! 抵抗する者は排除しろ!」
短い号令とともに、瞬く間に銃撃戦が展開される。エヴァによって仲間が撃たれ、気勢をそがれ、統制を失っていたレオンの部下たちは、なすすべもなく次々と制圧されていった。
「くそ、くそったれが……!」
デルタフォースの隊員が出てきた時点で、形勢が完全に覆ったことを悟り、レオンは舌打ちして踵を返した。逃走以外に、選択肢はなかった。
だが、走り出そうとしたその視界の端に、レオンは信じがたいものを見た。
ーーー隼人が、片膝立ちの姿勢で、見たこともないカスタムライフルを構えていた。
それは隼人が日本で改造し、試し打ちのために持ってきていたRemington 700(ボルトアクションライフル)をフルカスタムしたものだった。
――馬鹿な。
レオンの中で、隼人はあくまで「運び屋」に過ぎなかった。銃器の扱いなど、まともにできるはずがない。そう決めつけていた。
その油断が、命取りだった。
「……ジャックポット」
隼人の呟きとともに、乾いた発砲音が一発だけ響いた。
弾丸は正確に、レオンの右肩を貫いた。
「ガアアアアアッ!」
衝撃で体勢を崩し、レオンはその場に倒れ込む。首魁が撃たれたことで、なおも抵抗を続けようとしていた残党たちの戦意が、完全に折れた。武器を捨てる音が、あちこちから響き始める。
「……終わった、のか」
隼人は力尽きたようにライフルを下ろし、地面に座り込んだ。血を流し続ける足が、今更のように激痛を訴えてくる。
「隼人……! 隼人!」
エヴァが縋りつくように隼人の傍に駆け寄ってきた。その顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「馬鹿、馬鹿、なんであんな無茶……!」
「悪い、心配、かけたな」
「うるさい、黙ってて」
嗚咽混じりの声で、エヴァは隼人にしがみついた。隼人は驚きながらも、血で汚れた手で、ぎこちなくエヴァの頭を撫でた。
「もう、大丈夫だ」
「……うん」
デルタフォースの隊員に担架で運ばれ、二人は軍用車両に乗せられた。エヴァは車内でも隼人の腕を離そうとせず、ずっと小さく震えていた。隼人はそれに応えるように、何度もぎこちなく彼女の頭を撫で続けた。
車両が走り出す。乾いた大地を抜け、フェンスの向こうに、滑走路のシルエットが見え始めた。
やがて、車は軍事基地のゲートをくぐり、ゆっくりと速度を落としていった。
長い逃避行は、ここに、その終わりを迎えた。
エピローグ
ゼノ・ウルフラスは、豪奢なペントハウスの寝室で、苛立たしげにトランクへ荷物を詰め込んでいた。
「くそが……くそが!」
最低限の現金、パスポート、いくつかの権利書。これだけあれば、どこの国でも当面は生きていける。そのはずだった。
「あの役立たずどもめ……! たかが子供一人、連れてくるだけの仕事もできんのか!」
レオンからの連絡は、もう半日途絶えている。悪い予感しかなかった。こうなっては、悠長に結果を待っている余裕はない。国外へ逃げる以外に、道は残されていなかった。
トランクの蓋を、力任せに閉じる。
「……ジェイク」
部屋の外に立たせている見張りの部下に、声をかけた。
「準備ができた。車を回せ」
返事がない。
「……ジェイク?」
もう一度、少し苛立ちを込めて呼ぶ。それでも、応答はなかった。
苛立ちが、次第に別の感情に変わっていく。焦燥。廊下の向こうから聞こえるはずの足音も、無線の音も、何もない。あまりにも静かすぎた。
冷や汗が、背筋を伝う。
ゼノは震える手でドアノブを掴み、意を決して部屋の外に飛び出した。
その瞬間、恐怖が確信に変わった。
「――お前は」
扉の脇に立っていた男が、静かにこちらを見据えていた。日に焼けた、精悍な顔つき。
「息子の顔に、泥を塗ってくれたそうだな」
「なっ――」
言葉を発する間もなく、マーカスの手が伸び、ゼノの口元に湿った布を押し当てた。甘く、刺激臭のある匂いが鼻を突く。
抵抗しようとした体は、数秒と経たずに力を失った。
「イエス、ボス」
暗がりの奥から、数名の男たちの声が短く響く。
「息子が世話になったな。しっかり落とし前は、つけさせてもらうぞ」
マーカスは崩れ落ちたゼノを一瞥すると、部下たちに向けて短く顎をしゃくった。
「行くぞ」
「イエス、ボス」
影のような男たちは、崩れ落ちたゼノの身柄を回収すると、そのまま音もなく夜の闇へと消えていった。
――――――――――
数週間後。
隼人は、日本行きのフライトを待ちながら、空港のラウンジでニュース映像を眺めていた。
『HBTP、副社長ゼノ・ウルフラス容疑者、複数の国際指名手配容疑で正式起訴』
『同社、資産凍結および事業解体へ。関連する武装ブローカーとの取引ルートも壊滅』
『故ヴィットリオ・ヴァレンタイン氏の遺産、正式な相続人であるエヴァ・ヴァレンタイン氏への継承が完了』
ニュースキャスターの声が、淡々と事件の後日談を読み上げていく。レオンをはじめとした実行部隊のほとんどは、すでに身柄を拘束され、司法手続きが進められているという。
隼人は画面を眺めながら、この数週間の騒がしさを思い返し、小さく息を吐いた。あれだけの騒動が、こうしてニュースの数分間に収まってしまうことに、奇妙な感覚を覚える。
「隼人、搭乗ゲート、こっちでいいんだよね」
隣から、エヴァが当然のようにキャリーケースを引きながら声をかけてきた。
「……いや、待て。なんでお前がついてきてる前提なんだよ」
「え、一緒に日本行くんでしょ」
「聞いてないんだが!?」
隼人が声を上げたところで、後ろから聞き慣れた声がかかった。
「悪い、隼人」
マーカスだった。その隣には、両手に大量の紙袋を抱え、ほくほくとした笑顔を浮かべる母の姿もある。ここ数週間の騒動などまるで知らなかったかのような、いつも通りの上機嫌ぶりだった。
「エヴァだが……当分、うちで預かることになった」
「ええええええええっ!?」
隼人の絶叫が、ラウンジに響き渡った。周囲の視線が一斉に集まるが、それを気にする余裕は今の彼にはなかった。
「な、なんでそうなるんだよ! 話が全然見えないんだが!」
「色々あってな。詳しくは機内で話す」
「色々って何だよ! ちゃんと説明――」
隼人の抗議を涼しい顔で受け流し、マーカスは母と共に一足先に搭乗口へと向かっていく。残された隼人の前で、エヴァはくすりと笑い、わずかに身を屈めて華麗にお辞儀をしてみせた。
「これからよろしく、隼人」
その笑みは、いつもの気だるげなものではなく、どこか小悪魔めいた、企むような色を帯びていた。
「……マジかよ」
乾いた呟きが、搭乗案内のアナウンスにかき消されていく。
長い逃避行の果てに待っていたのは、平穏な日常――とは、まだ言い切れないらしい。




