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第8話 現場視察と「泥中」のリアル

カイトが四歳になった頃、屋敷に新しい産声が響いた。


予定より少し早かったが、産まれてきたのは元気な女の子だった。


(……ほう、妹か。前世では男ばかりだった気がする。あいつらは少し大きくなれば暴れ馬のようじゃったが……。女の子というのは、どう扱ったものか加減が分からんな)


名前は「ミレーヌ」と名付けられた。


カイトは、今や踏み台さえあればドアノブに手が届く。彼はさっそく、母エレナの寝室へと訪れた。


(……小さいのう。まるで壊れ物のようじゃ)


「あらカイト、ミレーヌにご挨拶しに来てくれたの? ほら、あなたの妹よ」


エレナが優しく微笑み、赤ん坊の顔を見せる。カイトはおそるおそる、その小さな手を指先でつついた。

すると、小さな手が、カイトの指をきゅっと握りしめた。


(……っ)


ただそれだけのことなのに、カイトの胸の奥が、何とも言えない熱を帯びた。


(……いや。可愛いもんじゃな。よしよし、良い子じゃ)


カイトの頬が、自然と緩んだ。理屈を超えた愛おしさがこみ上げてくる。


(いいかミレーヌ。お前が大きくなるまでに、兄ちゃんがこの家の問題を全部片付けてやる。……不自由はさせんからな)


カイトは、自分の指を握る小さな手に、もう片方の手をそっと重ねて呟いた。


「……ミレーヌ。いいこ。……にいちゃんが、まもってやるからな」


「まあ! カイト、お兄ちゃんとしての自覚が芽生えたのね。頼もしいわ!」


エレナの感激した声を聞きながら、頭をワシャワシャと撫でられたカイトは、なんとも居心地が悪くなって首をすくめた。


(……よ、よしなさい。いい歳をした……いや、今は四歳じゃが。とにかく、こういうのは落ち着かん)


エレナの手を逃れるように後ずさりしながらも、カイトは不思議な感覚に包まれていた。


かつて人生を全うし、ようやく重い荷を下ろして目を閉じたあの日。この世界に産み落とされた時は、ただただ「また最初から登り直しとは、どんな罰ゲームじゃ」と天を呪った。


だが、今。

頭に残る母の温もりと、指先を握る妹の小さな体温。

前世ではとっくの昔に忘れてしまった「誰かに慈しまれ、誰かを無条件に慈しむ」という、重荷ではない心地よい責任が、カイトの乾いた心にじわりと染み込んでいく。


(……ふん。やり直しは御免だと思ったが……。守るべきものがおる人生というのも、まあ、それほど悪いもんじゃないな)


それは、隠居した老人が孫に絆されて、ついもう一度だけ立ち上がってしまうような、そんな穏やかな再起の瞬間だった。


「ママ、……おそと、いってくる!」


「あら、もう遊びに行くの? でも一人じゃダメよ。パパかリーザと一緒に行くんですよ」


(……ちっ。単独行動は認められんか。安全管理にうるさい上司を持った気分じゃわい)


内心で毒づきつつも、ここで反抗して自由を制限されては元も子もない。

カイトは、撫でられた頭のむず痒さを振り払うようにわざとらしく首を振ると、四歳児の仮面を被って最高に無害な笑みを浮かべてみせた。


「……はーい」


結局、仕事の合間に付き添ってくれることになったのは、メイドのリーザだった。


「カイト坊ちゃま、今日はどちらへ? いつもの外庭ですか?」

「ううん。……あっち。おっきな、池があるほう」


「えっ、あんな泥だらけの場所へ? 何もありませんよ?」

「むらがあるんだよね」


「ええ。でも、あそこは足場が悪くて汚れちゃいますよ?」

リーザは困ったように眉を下げたが、カイトの真っ直ぐな視線に根負けしたのか、泥汚れを覚悟したように「ゆっくりですよ」と手を引いてくれた。


屋敷の門を抜け、緩やかな坂を下っていく。

窓から俯瞰していた時は箱庭のように見えていた村が、一歩ごとに生々しい輪郭を持って迫ってくる。


(……ふむ。村の立地そのものは、それほど馬鹿ではないな。周囲よりは幾分か土の密度が高い、粘り強い地盤を選んで家を建てておる。だが……)


リーザに手を引かれ、ついに村の入り口へと足を踏み入れる。

そこには、窓から見ていた静止画のような光景ではなく、泥と汗の匂い、そして剥き出しの生活があった。


(……やはり、近くで見ると一層ひどいな。泥の海に奇跡的に残った『硬い芯』の上に、家々が固まっておるだけか。排水計画もへったくれもない、陸の孤島じゃな)


カイトが四歳児の歩幅でぬかるみを避けていると、前から泥だらけの籠を担いだ男たちがやってきた。腰まで泥に浸かっていたのだろう、下半身は黒く染まり、肌は冷え切って赤紫に変色している。


「おや、リーザさん。……そちらは、カイト坊ちゃまかい?」


一人の男が立ち止まり、ひどく掠れた声で言った。

泥のついた手で顔の汗を拭ったため、その顔は黒い筋だらけだ。


「ええ。今日はお散歩に。ほら、カイト坊ちゃま。ご挨拶しましょうね」


リーザに促され、カイトは男を見上げた。

近くで見れば、男の指先はふやけ、爪の間には泥が深く入り込んでいる。冬でもないのに、その体は小刻みに震えていた。


(……この寒さの中、一日中あの泥の中にいたのか。鉄を拾うために)


「……こんにちは」


カイトが絞り出すように挨拶を返すと、男は相好を崩した。その笑顔から覗く歯は、栄養が足りていないのか、ところどころ欠けている。


「はは、元気な挨拶だ。坊ちゃま、この村は何もありやせんが、この泥から採れる鉄が、いつか坊ちゃまの立派な剣や鎧になるんですぜ。……さあ、俺たちはまた一稼ぎしてくるかな」


男たちは、重い足取りで再び泥沼の方へと向かっていった。


(……。あの男、あんな状態で笑いおった。鉄がワシの剣になると言ってな)


カイトは、繋がれたリーザの手を無意識にぎゅっと握りしめた。

窓から見ていた時は、ただの構造的な欠陥に見えていた。


だが今、目の前にいたのは、その欠陥のせいで命を削り、それでも自分たちの主君の息子に期待を寄せる、生身の領民だ。


(輸送を楽にする? ……そんなのは後回しじゃ。まずは、あの男たちの足を泥から引き抜いてやらんといかん。せめて陸の上で、泥に浸からずに鉄が拾えるようにしてやるのが先決じゃな)


「……リーザ。もっと、ちかくまでいきたい」

「坊ちゃま? 汚れてしまいますよ?」


「いい。……みたいんだ」


カイトは、決意を込めてぬかるみの縁へと歩み寄った。

これからは、妹ミレーヌの幸せのためだけでなく、あの凍えた指先で笑った領民たちのためにも。


カイトは泥沼の淵で、うずくまったまま動かなくなった。


その脳内では、前世で叩き込まれた土木工学の知識と、現場の経験則が火花を散らして衝突している。


「……しじそー」

「……むり」


(杭を打つか……? いや、パイルドライバーもねえのに支持層まで届くか。摩擦杭……この粘土質じゃ無理じゃな。上部構造を支えきれん)


ポツリと、カイトの口から可愛らしい声で、可愛くない単語が漏れる。


「……坊ちゃま? 今、何とおっしゃいました?」


リーザが不安げに顔を寄せるが、カイトはそれどころではない。思考の海はさらに深く、沼の底へと潜っていく。


「……かんじき…ぬけない」

「そり、すべらせ」

「……はんどう」


(ならば、浮かせるか? 雪国のカンジキ……。いや、泥の粘性が高い。引き抜く時の抵抗を考えろ。一度踏み込めば、足が抜けんくなる『地獄の罠』になるだけじゃ。……ソリ? 滑らせるか? ……いや、反動が殺せん。ジョレンで泥を掬う時のモーメントでひっくり返るぞ)


「反動……? 坊ちゃま、本当にお加減が悪いのでは……!」


カイトの独り言は、もはやリーザには呪文にしか聞こえない。だが、カイトの脳内では、ついに一つの答えが形を結びつつあった。


(そうか、沈むのを防げんのなら、最初から沈まないだけの『投影面積』を確保すればいいんじゃ。編んだ枝を敷き詰め、その上に板を乗せる。いわば泥の上の『フローティング・デッキ』……浮き桟橋じゃな。沈み込みはするじゃろうが、腰まで浸かって這いずり回るよりは、数倍マシな現場になる)


「……めんせき。……ひろげる。……えだ。……うきさんばし」

カイトの目が、カッと見開かれた。


立ち上がり、近くに落ちていた枯れ枝と、しぶとい野生の蔓をひっ掴む。

(物理と知恵でねじ伏せる。これが現場のやり方だわい)


「……りーざ! これ、おふね! どろどろの、おふね!」

「あ……はい! お船、ですか! よかった、いつもの坊ちゃまに戻って……」


安堵するリーザを余所に、カイトは手際よく蔓を枝に巻き付け始めた。

その手つきは、およそ四歳児の「遊び」とはかけ離れた、熟練の職人が結束を行う際のそれだった。


いつもお読みいただき、ありがとうございます。

やっとここまで来れました。看板に嘘あるだろって言われないように頑張ります。

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