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第7話 「最短ルート」を阻む、南の泥池

バート→ロバート脱字修正

カイトは三歳になった。


魔力の器の拡張は順調だ。最近は無意識でも行えるほど自然になっている。

また、家の中なら自分の足でどこへでも行けるようになった。ただ、行動範囲はまだ自宅の内側だけだ。


階段の上り下りも手すりを使えば一人でこなせるようになったが、一階の重い玄関扉だけは、三歳の筋力ではビクともしない。おまけに、勝手口へ向かおうとすればリーザが背後から音もなく現れて襟首を掴まれる。


今のカイトに許されている「外」は、屋敷の建物がコの字型に囲む、安全の保証された中庭だけだ。生垣を超えて家の外庭に出ようとすれば、即座に抱き上げられて連れ戻されてしまう。


(……チッ。あのメイド、足音がせん。さては現場の抜き打ち検査に慣れとるな)


それでも視界が広がった分、観察できる情報量は格段に増えた。隠密行動の際に「遮蔽物」として使えそうな家具の配置、使用人たちの無駄のない動線、母親がよく滞在する時間帯。カイトは日々、屋敷内のマップを頭の中で更新している。


それと同時に、この家が置かれている「経済状況」もまた、じわじわと見えてきた。


(ふーむ……。男爵家と言えば、前世の感覚なら一企業の社長クラスかと思っとったが。……ここは、よく言えば質素、悪く言えば『カツカツ』じゃな)


カイトは、廊下の角にある飾り棚を眺めて内心で舌を打った。


かつては高価な壺でも置かれていたのか、不自然に広いスペースに、今は道端で摘んできたような花を活けた素焼きの瓶が一つ。


床の絨毯は所々が擦り切れ、丁寧に繕った跡があるが、毛足は完全に死んでいる。


「カイト様、そんなところで止まってどうされたんですか?」


背後からリーザが声をかけてくる。彼女の着ているエプロンも、清潔ではあるが、生地が薄くなりすぎて向こう側が透けそうだ。


(壁の塗装も剥げっぱなし、照明も半分は消したまま。……パパの書斎のドアノブなんて、ガタがきとるのに油を差した形跡すらない。貴族の屋敷というより、やりくりに苦しむ零細企業の事務所に近い空気感じゃ)


この「カツカツ」の状態は、屋敷の備品だけでなく、そこで暮らす人々の余裕も削り取っている。


(このままじゃ、屋敷が朽ちるのが先か、家計が破綻するのが先か……)


そう危機感を募らせていたカイトだったが、この頃、屋敷の閉塞感を打ち破るような、しかし同時に家計への不安を一段と加速させる変化がもう一つあった。


母エレナの腹部が、明らかに丸みを帯びてきているのだ。


(……第二子か)


最初に気づいたのは、抱き上げられたときの位置の違和感だった。以前より少し距離がある。座るときも、立ち上がるときも、動作が慎重になっている。


「カイト、お腹にね、赤ちゃんがいるのよ」

エレナはそう言って、優しく腹部を撫でた。


カイトはじっと見つめる。


(なるほど。家族が増えるわけじゃな)


貧しいけれど、喜ばしい出来事なのだろう。


周囲の空気が、どこか柔らかい。リーザはやや忙しそうにし、エレナは穏やかに腹を撫で、時折ふっと愛おしそうに目を細めていた。


そこに廊下の向こうで、重い扉が開く音がした。


「ただいま」


アルベルトが戻ってきたらしい。

リビングの扉を開けた瞬間、彼は真っ直ぐに妻のもとへ歩み寄り、労るような口調で言った。


「エレナ、今日はどうだった。無理はしていないか」


「大丈夫よ。リーザもいるし、カイトもいい子にしてくれているわ」


「そうか。それならいい」


アルベルトの声は穏やかだが、目の下には薄く疲れが見える。


「元気にしているか、小さなフェルメール」


その言い方に、エレナがくすりと笑う。

「あなた、まだ男の子だと決めつけているの?」


「い、いや、もちろん女の子でも構わん。ただ……」


アルベルトはそこで言いよどみ、わずかに息を吐いた。視線がエレナから外れ、指先が落ち着かない様子でこめかみをかく。


「……布の値がまた上がったんだ」


「また?」


「ああ、赤ん坊用のおしめに使うものも、子供服の生地も、カイトの時より二割は高い」


エレナの表情が曇る。


「そんなに……」

エレナが、絶句したように声を漏らした。


「ああ。ボルドー子爵領の関所、あそこの通行料がまた引き上げられたらしい」

アルベルトは苦々しく吐き捨てた。


「……南から来る綿花の馬車は、あそこの街道を通るしかない。そこを狙い撃ちにされた格好だ。ボルドー子爵に何度も再考を求めているのだが、まともに取り合ってもらえなくてな……。あちらにすれば、嫌なら通るなという話なのだろう」


「そんな……」


(……ボルドー子爵、か。物流の要所を押さえて中抜きとは、あくどい商売をしおるわい)


カイトは、前世で無理なコストカットを要求してきた元請けを思い出し、不快そうに顔をしかめた。だが、今の自分は「可愛い盛り」の三歳児だ。この情報を深掘りするため、拙い舌を必死に動かす。


「ぱぱ、ぼるどー…って…わるい、ひと?」

「……! カイト、今、ボルドーって言ったのか?」


アルベルトは驚いて目を見開いたが、すぐに自嘲気味な笑みを浮かべて、カイトの頭を大きな手で撫でた。


「悪い人……か。そうだな。王都の屋敷を預けているロバートも、手紙で同じような愚痴をこぼしていたよ。あいつも物価が上がって、やりくりに苦労しているようだ」


(ロバート……。父様の元従者で、今は王都の留守居役か。まだ一度も会ったことはないな)


カイトは慌てて、首をかしげて見せた。

「おしめが、たかいと、ママが、かなしくなる……よ?」


「……ああ、そうだな。カイトの言う通りだ。ボルドー子爵は、ちょっと困った人なんだよ」


アルベルトは力なく笑い、カイトを抱き上げた。


(よし、誘導成功じゃ。おむつが高い=母ちゃんが悲しむ=ボルドーは敵、という構図を植え付けておけば、今後の情報収集もスムーズにいくはず)


「カイト、ごめんね。お兄ちゃんになるのに、お父様が難しい話をしちゃって」


エレナが申し訳なさそうにカイトの頬をなでる。


「ママ、だいじょーぶ。……あかちゃんのおしめは…カイトが、あらう!」


「まあ! カイト、お洗濯をしてくれるの? ふふふ、なんて頼もしいお兄ちゃんなのかしら!」


エレナは感激してカイトを抱きしめる。


(……いや、そういう精神論ではない。リーザの『クリーン』は汚れだけでなく繊維まで削っておる。リーザのエプロンを見れば明らかじゃ。あれでは寿命が縮む。結果、買い替えが早まり、無駄な出費が増えるだけじゃ)


母親の胸に埋もれながら、カイトは心の中で溜息をついた。


三歳児の語彙力では、まだ「コストダウン」といった概念を正確に相手に伝えるには、スペックが足りなすぎる。


アルベルトが独り言のように、あるいはエレナに同意を求めるように続けた。


「南へ、王都へ直接続く街道があれば、あんな法外な通行料を払わずに済むものを。この領地の泥池さえなければ、最短で品物が届くのに……」


(……泥?)

カイトの思考が、その一語に鋭く反応した。


(今、パパは『南が最短』と言ったな。でも、そこは泥池があって通れない。なるほどな、物流の急所を物理的に塞がれているのか)


(……まずは、現状把握をせねばならんの)


カイトは、名残惜しそうにエレナの胸から顔を離すと、隣に立つアルベルトの方へ短い手をいっぱいに伸ばした。


「ぱ…ぱ……だっこ!」


「おや、カイト。パパがいいのかい?」


アルベルトは嬉しそうに目を細め、エレナからカイトを受け取った。

カイトはそのままパパの首にしがみつくふりをして、ぐいっと窓の方へ身を乗り出す。


「おんも、みたい! おんものドロ!」


カイトが必死に窓を指さすと、アルベルトは少し驚いたように眉を上げた。


「ははは、好奇心旺盛だな。よし、それならもっとよく見える場所へ行こうか」


アルベルトはカイトを脇からひょいと抱え直すと、そのまま二階へと階段を上がっていく。

向かったのは、廊下の突き当たりにある、大きくせり出した出窓だ。

そこは丘の斜面に面しており、領地の全景を遮るものなく見渡すことができる特等席だった。


「ほら、カイト。ここからなら、パパの領地がよく見えるだろう?」


グイッと高い位置まで持ち上げられ、カイトは窓枠にしがみついた。


丘の下には、水をたっぷり含んだ黒い土地が広がっている。

踏み固められていない地面はぬかるみ、ところどころに水が溜まり、家々はその中に無理やり建てられているように見えた。

三方を泥に囲まれ、外へ出られる道は東へ伸びる細い一本道だけだ。


(何だこの村?……なぜ、わざわざあんな場所に村を作った)


普通なら、もう少し乾いた土地を選ぶ。畑も作りやすく、家も長持ちするはずだ。だが村人たちは泥の中で腰をかがめ、何かを拾い集めている。


「パパ、あそこ。……みんな、どろどろ、なにしてるの?」


「ああ、あれかい。泥の中から鉄のつぶを拾っているんだよ。この土地の泥には鉄が混ざっていてな。それを集めて売っているんだ。 あ、鉄って分かるかな?」


(……鉄が採れるのか)


それなら話はつながる。畑が満足に作れなくても、地面から売れるものが出るのなら、人はそこに住む。つまりこの領地の収入源は、あの湿地に埋まっている鉄なのだ。


だが同時に、別の問題も見えてくる。


先ほど父は、南へ続く街道が使えればとこぼしていた。南の街道まで出られれば良いが、泥のせいで通れない。だから北から回り込む道に頼るしかなく、そこを通るたびに通行料を取られる。


さらに、湿地では広い農地を確保しにくい。食料や布の多くを外から買うことになる。買う量は多く、売れるものは鉄だけ。その鉄も自由に運べないのだから、暮らしが楽になるはずがない。


カイトは、もう一度村を見下ろした。泥に足を取られながら働く人々の姿が、小さく見える。


(……南が最短。だが、泥で通れん。だから回り道するしかない。今はそれしか分からんが、この『通れない』という物理的な欠陥が、すべての諸悪の根源である可能性は高いな。ならなぜ今まで手をつけなかったのか?)


鉄という資源はある。だが、それを活かす土台が弱い。構造そのものが不利にできている。


カイトは父の服をぎゅっと握った。


今の自分に何かできるわけではない。それでも、どこが詰まっているのかは分かった。


この土地を縛っているのは、あの泥だ。


そこを崩さない限り、値上がりの愚痴も、貧しさも、ずっと続く。

カイトは幼い顔のまま、静かにそう思った。


いつもお読みいただき、ありがとうございます。

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