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第58話 泥水の洗礼、理論の壁とミスリル

「いいか、坊主。まずはその二連魔石のブレスレットで……あそこの泥を狙ってみろ」


アルベルトが後ろで見守る中、バッカスが鼻息荒く、底なし沼のように淀んだ一角を指差す。

その合図を受け、カイトは真新しいブレスレットを嵌めた小さな腕を、自信満々に突き出した。


(……ククク、設計図は完璧。理論も完璧じゃ。さあ、大地の水を吸い上げて圧密を開始するぞ! 見ておれよ、前世の知識と魔法の融合、その記念すべき一歩目じゃ!)


「おみち、かたくなれ……えいっ!」


カイトが短く気合を込めると、二連ブレスレットの魔石が淡く明滅した。

カイトが脳裏に描いたのは、強引な硬化ではない。


(……真空排水と圧密。本来なら、この湿地の重みで数年かけて水が抜け、土が落ち着く工程を、魔法の力で終わらせる……! まあ、真空じゃないがな!!)


ズゥゥゥン……。


地中から、空気が押し出されるような鈍い振動が伝わってきた。


カイトが狙った直径一メルほどの範囲で、泥がわずかに沈み込み、表面に濁った水がじわりと浮き上がってくる。


魔法が切れる刹那、カイトは『余韻』の術式を、細く、長く残すイメージをした。気休めだとは思っているが、気分の問題である。

(……よし、これで十分じゃ。魔法で水を『どかし』、その隙間に土を『落とした』。あとは物理の独壇場じゃな)


「……おい。これで良いのか? 見た目はただ、泥が少し凹んだだけに見えるが……」

アルベルトは心配そうに覗き込んだ。


バッカスは、カイトが職人に作らせた太い検尺棒をひったくり、無造作にその地面へ突き立てた。


まず、魔法の範囲外。


ズブゥッ……!


棒は抵抗もなく、自重だけで泥の奥深くまで飲み込まれた。持ち手の頭が泥に浸かり、完全に見えなくなる。


次に、カイトが魔法をかけた範囲の真ん中に棒を刺した。


ググググ……ッ!!


棒を押し込んだバッカスの腕に、先程とは明らかに違う抵抗がかかった。


「……ぬぅっ!? なんだ、これ……!」


バッカスが両手で体重をかけて押し込むが、棒はゆっくりと音を立てて沈んでいくだけだ。


そして、棒の半分ほどを地上に残したところで、ピタリと動きが止まった。


「……重い! さっきまでただのドロだったはずなのに、粘土みてぇに密度が上がりやがった! 全身で押しても、ここから先は一ミリも入りやがらねぇ!」


「……おじちゃん、おみち、ぎゅっ、てなってる?」


「……『なってる』どころの話じゃねえよ。土の感触が全く違う。半分も棒を残して踏ん張ってやがる。……これを狙ってたんだろ? 坊主!」


「うん、えへへ〜、やったね!」


気をよくしたカイトは、その先の、池のようになっている場所に狙いをつけて魔法を放つ。


「えいっ!」

カイトが魔力を込めた瞬間。


「ボゴォォォッ!!」という爆鳴と共に、湿地の表面が津波のように跳ね上がった。


「うわあああぁぁッ!?」

「ごふぉっ!?」


泥水の壁が直撃し、三人は一瞬で頭からつま先までドロドロの土に染まった。


「……な、なんだってんだ……」


バッカスが、泥まみれの眼鏡を震える指で外した。自分の傑作が、ただの「泥シャワー機」に終わったことに、愕然と立ち尽くしている。


「あうぅ……おみち、固まってないよ……?」

(……おかしい。計算ではもっと静かに沈むはず。なぜあんな爆発が起きたんじゃ?)


しばらく沈黙し、泥まみれの湿地を凝視していたバッカスが、不意に自分の膝を拳で叩いた。


「……そうか。ちくしょう、見落としてた! 坊主、こいつは俺のミスだ。魔法ってのは、術者の手元から一番近い『対象』に真っ先に食いつこうとしやがるんだ。最初は土が多いところを狙って成功したが、二回目の魔力の波は、その手前にある『表面の水』に全部吸い取られちまったんだよ!」

バッカスは、泥を拭うのも忘れて、カイトの腕のブレスレットを食い入るように見つめた。


「水を上に飛ばす魔法の波じゃ、水面に当たった瞬間に拡散して水を跳ね上げちまう。これじゃあ、いくら坊主の魔力が無尽蔵でも、泥の底まで届く前にエネルギーが散らされて終わりだ。……確実に泥沼の底へ届くよう、道を通さなきゃいけねぇ」


バッカスは泥だらけの指を二本立てた。


「いいか、今の失敗で分かった。この『泥の中』まで魔力を届けるには、方法は二つに一つだ。一つ目は、『刻印の超高度化』」


バッカスは一本目の指を揺らした。


「魔石に『遅延発動』と『距離指定』の術式を幾層にも重ねて彫り込む。水の中を素通りして、指定した深さの泥に到達した瞬間に術を発動させるんだな」


「……だが、これには致命的なデメリットがある。距離指定、遅延発動、二連属性の干渉相殺……。そんなもんを一つの術式にまとめ上げるには、針の先を突くような精密な計算と、半年から一年はかかるチマチマした彫り込み作業が必要になる。坊主の魔力に耐える大型魔石ともなれば失敗も許されねぇし、深さが狂えばまたさっきの二の舞だ。年単位の時間が、刻印ひとつに消えちまうんだ」


アルベルトが眉をひそめる。


「……現実的ではないな。二つ目は?」


「二つ目は、『物理的なバイパス』だ。魔法の波を飛ばすのをやめて、泥の層まで魔力を直接導く『芯』を突き刺す。……具体的には、魔法伝導率が極めて高い『ミスリル』の長い杭を打ち込み、その先端で魔法を解放する。終わったら引き抜いて、また次に刺す。これなら、水に魔力を食われる心配はねぇし、刻印は今のシンプルなままでいい。ミスリルの削り出しなら、俺が寝なけりゃ数日で終わる!」


「……そのデメリットは、聞くのが怖いな…」


バッカスが泥だらけの顔を歪め、吐き捨てるように言った。


「莫大な初期投資イニシャルコストがかかる。泥の底まで届く『大槍』のような巨大な杭を作るんだぜ? ただでさえ指輪や短剣にするような希少なミスリルを、そんな質量で用意するとなれば、フェルメール家の予算なんざ一瞬で消し飛ぶ」


アルベルトの顔が険しくなる。


湿地の街道建設は、領民の生活がかかった火急の課題だ。刻印が終わるのを一年も待っていれば、その間にどれだけの馬車が泥に沈むか分かったもんじゃない。


「……一年の工期を、金で買えるか?」


「ああ。ミスリルの大槍ハードさえ用意できれば、刻印ソフトは解決する。物理的に泥の中に魔法の出口を突っ込むんだからな」


「……バッカス。材料の件は、私に任せろ。これはもう、私一人の判断で済む話ではない。伯爵と相談する」


「なっ……伯爵様を動かすってのか!?」


「ああ。五歳の子供が、泥沼を街道に変える術を見つけ出したんだ。それを一年の工期遅延で埋もれさせるなど、このフェルメール家最大の失態になる。伯爵閣下に書状を書く。……いや、私が直接、出向いて説得する」


(……ククク! 良いぞパパ! 自ら馬を飛ばして直談判に行く気じゃな! 伯爵の蔵にあるミスリルを、パパの気迫で全部ぶち撒けさせてこい! まあ、道が完成すればそのミスリルの大槍は伯爵に返してやればいい。安い初期投資じゃろうて!)


アルベルトの瞳に、単なる代官ではない、一人の騎士としての、そして父としての強烈な覚悟が宿っていた。


「『一年の工期を、ミスリルで買う許可を乞う』……。伯爵閣下なら、この価値を必ず理解してくださるはずだ。バッカス、お前は鍛治工房で待機しろ。私が説得を終え次第、騎士団の倉庫からミスリルを直送させる!」


「……へっ! 領主様がそこまで腹を括るなら、俺も職人の意地を見せてやるよ」


バッカスが、泥だらけの拳をカイトに突き出した。


「おい坊主、聞いたか? お前のわがままに、ついに伯爵様まで巻き込まれることになったぞ」


「だいじょうぶ、もう、いっぱい、まきこまれてるから!」

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