第5話 書斎への潜入ミッション
カイトはようやく、歩くという移動手段を手に入れた。
一歳を過ぎたばかりの足取りはヨチヨチと危なっかしいものだったが、彼にとっては待望の現場視察の解禁である。
(一歩一歩がプロジェクトの進捗じゃ。まずは情報収集の拠点、親父殿の書斎を目指すとしよう)
エレナに抱っこされて自分の部屋に戻ってきた際、カイトは重要な「不具合」……いや、絶好の「機会」を見逃さなかった。
部屋の奥にある、父親の書斎へと続くドアが、閉まりきらずにわずかな隙間を作っていたのだ。
(……しめた。あそこは普段、ワシのような『部外者』は立ち入り禁止の最重要機密エリア。今を逃せば次はないわい)
部屋の中央で抱っこから下ろされた瞬間、カイトは即座に作戦行動に移った。まずは退路の確保……ではなく、エレナに部屋の扉を閉めさせないための「物理的な障害物」に自らなりきることだ。
「……あう、うー」
カイトはわざとらしく自分の部屋のドアの前に陣取り、そこにあった積み木をいじって「夢中で遊んでいる子供」を完璧に演じてみせた。
「あらあら、カイト。そこで遊ぶの? 扉が閉められないわね」
エレナが困ったように笑う。階段の方は、カイトが転げ落ちないように箱が積まれて封鎖されているが、廊下の奥までは制限されていない。
チャンスはすぐに訪れた。
エレナが、階段の方へ行けないように積んであった箱の山を一度崩し、より強固に積み直して下階へ降りて行った。
(……今じゃ!)
カイトは積み木を放り出し、音を立てないよう、だが一歳児なりの全速力で書斎のドアの隙間へと滑り込んだ。
ようやく辿り着いた書斎。カイトは壁一面を埋め尽くす本棚を見上げた。
(ほう、これがこの世界の知の集積か。さて、まずは目次から……と言いたいところじゃが。いきなり専門書は無謀というもの。まずはこれじゃな)
カイトが最下段から必死に引き抜いたのは、分厚い『アルテリウム王国語大辞典』だった。
ドサリという重々しい音が響く。
(言葉の意味が分からねば、設計図は読めん。設計図を読む前に、まずは規格用語の定義を頭に入れにゃならんからな)
カイトは辞書を広げ、絵本で覚えた単語を起点に、今まで父母やリーザから聴いていた語彙を調べ始めた。技術者らしい冷静さで音と意味のネットワークを広げていく。
数日にわたる「極秘調査」を経て、語彙のストックが一定のラインを超えたと判断したカイトは、一つ上の段にあった別の本へと手を伸ばした。
それが、『魔法貧乏にならない魔石の使い方』という一冊だった。
(……ほう、魔石の使い方とな。単なる現象の羅列ではなく、「使い方」と銘打つからには、そこには必ず合理的な法則があるはずじゃ)
さらに上の段にも、仰々しい装丁の魔法書がいくつか並んでいるのが見えたが、一歳児の身長と本棚の棚割りという「物理的な障壁」が立ちはだかっている。
(……チッ。あっちの方がより核心に近い技術書っぽいが、今のワシのスペックでは、背伸びをしたところで棚のヘリに指が掛かるのが関の山か。無理をして本棚の下敷きにでもなったら、それこそプロジェクト強制終了じゃわい。今は、この『届く範囲』にある一冊から情報をぶっこ抜くとしよう)
カイトは、諦めよく目の前の本を床に引きずり出した。
何か魔法の奥義でも書いてあるだろうと期待してページをめくったが、そこに記されていたのは実務的な内容だった。
魔法を使うには、まず「魔石」を用意する。
魔石は天然の結晶で、属性ごとに分けられている。その表面に刻まれた魔法陣が回路となり、人が魔力を流すことで現象が発生する仕組みらしい。
刻印が単純なものは安価だが、複雑な魔法になるほど陣は細密になり、同じ大きさの石でも価格は跳ね上がる。
さらに魔石は消耗品だ。
魔力が通るたびに刻印の溝がわずかに摩耗し、やがて回路が乱れて誤作動を起こす。ひびが入ればそこで終わり。削り直して再刻印することも可能だが、石が小さくなる分、刻印の難度は上がる。
(結局、金か! この世界も金なのか!)
苗代を買うにも、農機具を揃えるにも、まずは金がいる。
会社員時代、予算が通らんで開発が止まったあの日々と同じじゃないか。
(今のワシにゃ、一銭もない。道具が買えんでは仕事にならん)
だが、カイトはじっと次のページを睨んだ。農家というものは、金がなければないなりに土作りから始めるものだ。
(ほう。道具がなくても、唯一、子供のうちにしかできんことがあるぞ)
そこには、体内に溜められる魔力の量は、五〜十二歳の成長期にどれだけ魔力を練り歩かせたかで決まると書いてあった。複数の魔法陣を同時に動かすには、それ相応の魔力量が要る。魔石を手に入れても、流し込む魔力が足りなければ発動すらしない。
大人になってから器を広げるのは難しく、始めるなら成長期が最も効率的である、と。
(成長期、か。……職人の修行にしては、ちと遅いくらいじゃな)
理屈は分かった。要は、腹の中に「巨大なタンク」を作ればいい。だが、肝心の魔力とやらをどうやって捕まえればいいのか。
本には「体内のマナの奔流を感じ、それを意識の糸で手繰り寄せよ」なんて、詩人みたいなことばかり書いてある。
(……これだから専門家ってやつは困る。もっと現場人間に分かるように説明せんか。奔流だの糸だの、そんな曖昧な指示で動けるほど、世の中甘くないわい)
カイトは目を閉じ、自分の体の中に意識を向けた。
最初は何も感じない。ただの赤ん坊の、柔らかくて頼りない肉体の感覚があるだけだ。
(……待てよ。魔力がエネルギー源だというなら、必ず『熱』か『振動』があるはずじゃ。機械だって動けば熱を持つし、水が流れれば振動が起きる。それを探せばええんじゃな)
カイトは、会社員時代に機械の故障箇所を突き止める時のような、鋭い集中力を発揮した。
指先に意識を集中する。
すると、かすかに、本当に微かだが、指先の奥で「ドクン、ドクン」という心臓の鼓動とは別の、細かく震えるような何かが流れている違和感を感じた。以前の身体では感じることが出来なかった体験だ。
(……お、これか? 指先の先端……。まるで古いポンプ車がアイドリングしとるような、小さな震えがあるぞ)
それは、普段は意識の雑音に紛れて消えてしまうほど、弱々しいものだった。だが、一度見つけてしまえばこっちのものだ。カイトは、その震えを指先から手首、肘、そして肩へと、慎重に遡っていった。
(……ほう。なるほど。この震えは、体の中を複雑な配管のように巡っておるのか。そしてその中心は……ここか)
最後に意識を辿り着かせたのは、へその下だった。
そこには、小さな小さな、それこそお猪口一杯分くらいの魔力の澱があった。
(……なんと。ワシの今の貯水池は、これっぽっちか。これじゃあタバコの火を消すのが関の山じゃな)
じいちゃんは、その小さな震えの塊を、意識の力で無理やり揺さぶってみた。
(よし。まずは、この淀んだ水を動かす。農繁期の用水路の掃除と同じじゃ。詰まった泥を押し流して、水の通り道を広げてやらんとな)
カイトは、腹の底にある魔力の塊を、蕎麦打ちの要領で「器」の壁に向かって、内側から力強くこね上げた。
ぐるりと円を描くように、外側へ、外側へと圧をかけながら魔力を回していく。
すると、体内を熱い何かが駆け巡った。それはまるで、こね鉢の縁を指でなぞり、限界まで粘土を押し広げて一回り大きな器に仕立て直していくような、じりじりと熱を帯びた感覚だった。
「……ッ!!」
赤ん坊の体には、その刺激は強すぎた。
全身の産毛が逆立ち、肌がうっすらと発光したかと思うと、次の瞬間、凄まじい「熱」が体内を一周した。
(あ、熱い! 想像以上の弾力じゃ! 迂闊に力を入れれば、器の方が割れちまうぞ!)
カイトは必死に歯を食いしばり、その熱を無理やり制御した。
暴れる魔力を、ゆっくりと、丁寧に、こね鉢……いや、自分の体という器の隅々まで馴染ませていく。
冷や汗を流しながら、一時間ほど格闘しただろうか。
ようやく熱が引き、魔力が再びへその下に落ち着いた時、カイトは確かな手応えを感じた。
(……ふぅ。一時はどうなることかと思ったが、一度こねて伸ばせば、二度目からは素直に言うことを聞くわい。しかも……ほう。ほんの少しだが、器の底が深くなった気がするな)
カイトは、赤ん坊の小さな拳をぎゅっと握りしめた。
(……これなら、やれる。毎日、一ミリずつでも鉢を広げていけば、いつかは大鉢になれるはずじゃ)
それからというもの、カイトは暇さえあれば自分の体をいじり倒した。
寝ている間も、乳を飲んでいる間も、裏では常に魔力をこね回し、体内の器を広げていった。
練って、広げて、なすりつける。くっ、この年齢の体には堪えるが、将来のインフラ整備のためじゃ。
「あらあら、カイト。なんだか顔を真っ赤にして、一生懸命いきんでいるわね。……あ、リーザ! おむつを替えてあげて!」
(違う! リーザ、違うんじゃ! ワシは今、将来のために鉢を大きくしてる最中……あ、ちょ、待て。脱がすな。集中が切れるーー!)
効率化への第一歩。それは、来るべき魔法を使うその日に備えた、地味で過酷な器の基礎工事だった。
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