第4話 物理屋(エンジニア)の魂、再燃
一歳の誕生日を迎え、周囲が「ようやく言葉を理解し始めた」と喜ぶ中、カイトは内心で着々とこの世界の『言語体系』を攻略していた。
(……ほう、なるほど。この世界の文字は、完全に音を組み合わせて作るんじゃな)
母親のエレナが読み聞かせてくれる色彩豊かな絵本を覗き込み、カイトはその法則性を見抜く。それは、かつての人生で見てきたローマ字やハングルの仕組みに似ていた。
母音となる「基礎」の形があり、そこに子音という「柱」を乗せて音を変化させていく。建築の図面を読み解くようなものだ。
(五十音順のようにマトリクス表にして整理して並べてみれば、なんのことはない。理屈さえ分かれば、覚えるのは造作もないわい。会社勤めの頃、毎朝唱和させられた『無駄に長い経営理念』や、誰も読まんぶ厚い『コンプライアンス遵守規定』を丸暗記したワシを舐めてもらっちゃ困る)
しかし、文字の形と音を覚えただけでは不十分だ。その文字が何を指すのか、「単語の定義」が分からなければ現場の指示書は読めない。
(焦るな。文字の形を覚えただけで専門書が読めるなら、誰も苦労はせん。まずは『単語の意味』じゃ。設計図を読む前に、JIS規格の用語の定義を頭に入れにゃならんのと同じことよ。狙うは辞書じゃが……今はまだ手が届かん。話はそれからじゃな)
カイトは、逸る気持ちを技術者らしい冷静さで抑えつけた。「音」と「形」が一致した次は、その言葉が持つ「意味」という厚い壁が立ちはだかる。
カイトは、ぷにぷにとした短い指で絵本の文字をなぞりながら、頭の中の翻訳データベース構築を急いだ。
「あー、うー。……かーよ……」
「あら、カイト! 『母さま』って言おうとしているの? うふふ、いい子ね」
エレナは頬を染めて喜んでいるが、カイトの思考は極めて実務的だ。
(……今のは『母さま』じゃなくて、あっちの暖炉を見て『火力』って言いたかったんじゃが……。まあ、スポンサー(母ちゃん)の機嫌がいいならそれでいいか)
カイトがここまで言語習得を急いだのには、単なる知的好奇心とは別の、明確な理由があった。
メイドや母親が日常的に使う『魔法』だ。彼女たちは「クリーン」や「ウォーター」と特定の単語を口にするだけで、物理法則を無視した現象を起こしている。
(あの言葉がスイッチ……つまり『起動コマンド』なのは間違いない。だが、言葉を発すると同時に、体の中で魔力という『動力』をどう回しとるのかが分からん。ためしにワシも……)
カイトは、先ほどメイドが床の汚れを消し去ったのと同じ発音を意識して、口を大きく開けた。
「……うーたー! 」
「……くいーん!」
頭の中では完璧に「ウォーター」「クリーン」とネイティブな発音をしたつもりだったが、実際に響いたのは愛嬌のある「うーたー」「くいーん」という気の抜けた幼児音だけだった。当然、水も出なければゴミも消えない。
(……。…………)
カイトは、思わず自分の小さな手を見つめたまま目が点になった。
(……はぁ。ダメだこりゃ。音声認識エラーじゃな。一歳児の短い舌という『不良マイク』じゃ、コマンドが正しく通らんらしい。理屈をこね回して発音を良くしようとしても、この舌が急に伸びるわけじゃなし。修行僧みたいな顔で発音練習に没頭しても、効率が悪すぎるわい)
ならば、アプローチを変えるまでだ。
技術者たるもの、現場の空気を読み、今ある手札で最適解を出すのが仕事である。魔法の詠唱という高い目標は一旦後回しにし、目の前の家族を満足させ、家庭内の『根回し』をする方が優先順位は高い。
(まずはこの場を丸く収めるか)
カイトがそう切り替えていると、エレナが期待に満ちた目で顔を覗き込んできた。
「いい、カイト? あなたの名前はカイト・フェルメールよ。言えるかしら? カ・イ・ト」
(……ほう、苗字はフェルメールか。よし、ここはサービスしておこう)
「……か、い……とー!」
「そうよ! 上手ねぇ! じゃあ、私は? 私はエレナ・フェルメール。お・か・あ・さ・ま、よ?」
(……エレナか。覚えたぞ。だが『お母様』は今の滑舌では噛む確率が高い。せめてママで勘弁してくれんか)
「……ま、ま……え、れ、な!」
「えっ! 今、私の名前を呼んだの? まあ、なんて賢い子かしら……!」
エレナが顔を輝かせる。その横で、お盆を持って控えていた若い女中も、目を丸くして楽しそうに笑った。
「奥様、カイト坊ちゃまは本当に物覚えがよろしいですね。私の名前も呼んでいただけるかしら?」
「そうね。カイト、この人はリーザ。いつもお世話をしてくれる優しいリーザ・マイヤーよ」
(……リーザか。おむつ替えの手際がやたらといい、あの有能な外注の姉ちゃんじゃな)
カイトは期待に満ちたリーザをじっと見つめる。そしてわざと舌をもつれさせるように、一歳児なりの精一杯のあざとさを演出した。
「……り、りーさ……!」
「まあ! 今、リーザっておっしゃいましたわ! 奥様、お聞きになりました!?」
リーザは感激して、持っていたお盆をぎゅっと胸に抱きしめた。
「ふふふ、上手よカイト。じゃあ次はお父様ね。お父様の名前はアルベルト・フェルメール。ア・ル・ベ・ル・トよ。さあ、言ってみて?」
(……アルベルト。いつもデレデレしながらワシを振り回す、この現場の最高責任者(親父殿)か。よし)
「……あ、あ、ぶー! ……あーぶーと!」
「おぉおおおおおおおおっ!? 今、私の名前を呼んだか!?」
カイトが言い終わるか終わらないかのタイミングで、突然、部屋の扉がバンッと勢いよく開いた。
そこには、執務室から飛んできたのか、少し息を切らしたアルベルトが立っていた。どうやら廊下で聞き耳を立てていたらしい。
「あなた、お仕事はどうしたの?」
「仕事などしている場合か! 廊下までカイトの天才的な声が聞こえてきたぞ! おいカイト、もう一度! もう一度パパの名前を呼んでおくれ!」
アルベルトはズカズカと部屋に入り込むと、エレナの腕からひょいっとカイトを抱き上げた。その顔は、領主としての威厳など微塵もなく、ただの親バカのそれだった。
(……おいおい、タイミング良すぎじゃろ。出待ちしてなかったか? まあいい)
「……あーぶーと! ぱ、ぱ!」
「うおおおおおっ! エレナ、聞いたか! カイトが私を呼んだぞ! 天才だ、我が息子は歴史に名を残す大賢者になるに違いない!」
「ふふふ、『あーぶーと』って。アルベルトだから『あーぶーと』なのね。お父様、泣いて喜んでるわよ」
アルベルトは本当に感極まったようにポロポロと涙を流し、カイトの小さな頬に自分の頬をすりすりと押し付けてくる。少しジョリジョリする無精髭に、カイトは内心でため息をついた。
(エレナ、リーザ、アルベルト。よし、これで重要人物の顔と名前、そして性格のID登録は完了じゃ。身近な音から固めるのが結局は一番の近道じゃ)
カイトはわざとよだれを垂らしながら「あぶあぶ」と笑い、父親の髭を小さな手でペチペチと叩きながら、無邪気な赤ん坊を演じ続ける。
(……こうして名前を呼んで完全に懐いておけば、リーザが掃除のときに使う『クリーン』の魔法も、アルベルトが仕事で使う書類も、より近くで特等席から観察できるはずじゃ。すべてはワシの計画通りよ)
親バカ全開で狂喜乱舞する父親の腕の中で、カイトは次の『現場検証』に思いを巡らせ、ニヤリと黒い笑みを浮かべていたのだった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
まだまだ物理で殴れませんが、今殴っても猫パンチですね。
ブックマークや評価をいただけることが本当に励みになっています。
⭐︎でも⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎でも、率直な評価をして頂けると嬉しいです。




