第38話 労働の後はこれ!異世界一番風呂
泥まみれの重労働を終えた男たちは、カイトの案内の下、泥靴村の中心にある広場へとぞろぞろと集まってきた。
広場では、エレナがミレーヌを抱きかかえながら微笑んでおり、その横でリーザが村のおばちゃんたちを指揮して、大規模な炊き出しの準備を整えていた。
火にかけられた大鍋からは肉と野菜の煮込まれる匂いが漂い、その傍らには、アルベルトがハルバード領で買い付けてきた貴重なエールの木樽が置かれていた。
「みんな、今日は本当にご苦労だった! 腹いっぱい食べて、飲んでくれ!」
アルベルトの労いの声と共に、ロラン領から来た人足たちは歓声を上げた。自分たちの領主が五歳児にパシリにされるという恐怖の現場だったが、この厚遇を見れば文句はない。
彼らは我先にと鍋に群がり、エールの入った木のジョッキを受け取って豪快に喉を鳴らした。
だが、奇妙なことが一つあった。
「……ん? なんだお前ら、飲まねぇのか?」
エールを片手にしたロラン領の男が不思議そうに首を傾げた。
地元の泥靴村から駆り出された人足たちが、炊き出しの列には並ばず、広場の端にある大きな囲いのある建物の前で、そわそわと何かを「待って」いたのだ。
その時、その建物の扉がガラリと開き、中から数人の男たちが出てきた。
先頭を歩いていたのは、カイトと共に水道工事や粗朶道を作った村の青年、ガンタだ。
「ふぅ、やっぱ最高効だぜ! 今日の泥が全部落ちた!」
日中の暑さを忘れさせる心地よい夏の夜風が吹き抜ける中、湯上がりであるガンタたちの体からは、ぽっぽと湯気が上っている。泥は綺麗に洗い流され、さっぱりとした顔つきで広場へ歩み寄ってきた。
それを見た順番待ちの村人たちが、「おう、次だ次!」「待ってました!」と、エールには目もくれずに、その建物の中へとなだれ込んでいく。
広場に戻ってきたガンタは、ジョッキでエールを飲んでいる人足たちを見て、カイトを見つけると、ニカッと笑って片手を上げた。
「お疲れ様です、監督! 俺たちにはエール、無いんすか?」
カイトは無言で、隣に立つ父・アルベルトを見上げた。
アルベルトは(また金が飛んでいく……)と言わんばかりの悲哀に満ちた顔で一瞬天を仰いだが、すぐに諦めたように力なく頷き、OKのサインを出した。
「やったぜ! いただきやす!」
ガンタはリーザからなみなみと注がれたエールを受け取ると、一気に喉の奥へ流し込んだ。
「ぷはぁーっ!! いやぁ、やっぱり風呂上がりのエールは最高っすね!」
その言葉に、エールを飲んでいたロラン領の人足たちがピタリと動きを止めた。
「……は? ふろ?」
彼らは信じられないものを見る目で、ガンタの泥一つない綺麗な顔と、ぽかぽかと赤くなった首筋を見つめた。
「おい、風呂って言ったか? この貧乏……いや、こんな辺境の村に風呂があるのか!?」
詰め寄るロラン領の男に対し、別の男がポンと手を打った。
「あ、そういえば聞いたことがあるぞ。この村は昔から、湿地の中で鉄や泥炭を採って生活してたから、体を温めるための『泥炭サウナ』みたいな小屋があるって……」
「なるほど、蒸気で汗を流してきたのか。どおりで小綺麗になってるわけだ」
勝手に納得し始める他領の男たちを見て、ガンタは優越感たっぷりに鼻で笑った。
「へっ、それは古いっすね。もちろん泥炭サウナも残ってるけど、今の泥靴村の風呂はそんなもんじゃないっすよ」
「……なんだと?」
ガンタは親指で背後の囲いがある建物を指差した。
「カイト監督が作った、最新式の風呂っすよ。あっついお湯を釜で沸かして、デッカい木の浴槽にお湯がなみなみと張ってあるんす。そこに首までどっぷり浸かって、今日の泥を全部洗い流してきたところっす!」
その瞬間、夏の夜の広場の空気が凍りついた。
ロラン領の人足たちは、自分たちの全身にこびりついた冷たくて痒い泥の塊と、ガンタのさっぱりとした姿を交互に見比べた。
「お、お湯に……浸かれる、だと……?」
「俺も入りたい! 頼む、俺たちにもその風呂を使わせてくれ!!」
「ずるいぞ泥靴村! 俺たちだって今日一日、死ぬ気で丸太を打ったんだぞ!」
ロラン領の人足たちがエールのジョッキを放り出し、暴動さながらの勢いでガンタやアルベルトに詰め寄り始めた。広場が一気に大騒ぎになる。
(……ククク、見ろ親父殿。他所の領地の連中が、ウチの福利厚生の虜になっとるわい。これで明日からの労働意欲も爆上がりじゃ!)
カイトは内心でゲスい笑いを浮かべつつ、パタパタと広場の中央に進み出た。
「はい、おじちゃんたち! ケンカしないの!」
小さな現場監督の声に、屈強な男たちがビクッと動きを止める。
「おふろは五人ずつしか入れないから、順番こ! 泥靴村のおじちゃんたちが終わったら、ロランおじちゃんのところの人たちも入っていいよ!」
「うおおおおお!! カイト監——」
歓喜の雄叫びを上げようとした男たちを、カイトはスッと目を細めて制した。
「た・だ・し・お湯に入るまえに、ドロは落とすこと。それをしなかったら……」
言うが早いか、カイトは親指を立てると、自分の喉の前でスッと指を横に引いた。
首斬りのジェスチャー。目の前にある湿地より冷ややかな五歳児の脅迫に、荒くれ者の男たちの顔から一瞬にして血の気が引く。
「……わ、わっかりましたぁ!」
「ぜ、絶対に泥を落としてから入ります!! 洗うまでエールも飲みません!」
「よろしい!」
カイトがニッコリと無邪気な笑顔に戻ると、男たちは直立不動の姿勢から、我先にと大人しい順番待ちの列を作り始めた。
もはや彼らの頭の中から、自分たちの真の雇い主であるロランの存在は完全に消え去っている。
「……カイト。お前は本当に、人の心を掴むのが上手いな……色々な意味で」
「えへへー、みんなおふろ大好きだもんね!」
首斬りのジェスチャーを見たはずのアルベルトが、引きつった笑顔で呟く。
カイトはあくまで無邪気な五歳児の顔のまま、父を見上げて笑うのだった。
***
泥靴村の北側で、大掛かりな塀の工事が始まったその夜。
フェルメール領から離れた某所の、薄暗い部屋でのこと。
豪奢な椅子に深く腰掛ける人影が、手にしたグラスを揺らしながら低く通る声を発した。
「で、裏付けは取れたのか?」
部屋の隅、暗がりに溶け込むように片膝をついていた密偵が、感情のない声で即答する。
「はっ。あの男が持ち込んだ情報の通り、村から湿地へ向けて、人が歩いて渡れるほどの『道』が確かに出来上がっておりました」
「……馬鹿な。あの底なしの泥沼に道だと? では、あの男の戯言は真実だったと言うのか」
「はい。いかなる魔法、あるいはからくりを用いたかは不明ですが、現実に泥は沈められ、土台が築かれています。……しかし、状況は芳しくありません」
密偵は少しだけ顔を上げ、言葉を続けた。
「現在、村の北側では急ピッチで防壁(塀)の建設が始まっております。加えて、寄親である伯爵家から派遣されたと思しき手練れの騎士たちが数名、村に入り込み警備を固めている模様」
「チッ……。忌々しい泥靴どもめ。伯爵の庇護下に入り、これ以上調子に乗る前に、なんとしてでもそのフザケた道作りの計画を頓挫させねばならんな」
主の苛立ちを含んだ声に対し、密偵は淡々と返す。
「御意。妨害工作を実行に移すのであれば、今が好機かと存じます」
「ほう? 忌々しい塀で、完全に村を囲われてしまう前だからか?」
「それもございます。しかし何より、現在あの村には塀の工事や道作りのために、他領から多数の人足が流れ込んでおります。素性の知れない外の者が入り乱れている今ならば、我々の手者を紛れ込ませるのも容易いかと」
その言葉に、グラスを揺らす手がピタリと止まった。
暗闇の中で、主の口角が邪悪に釣り上がる。
「ふむ……なるほど。ならばやれ」
主はグラスの酒を飲み干し、氷のように冷たい声で命じた。
「湿地の泥がどれほど恐ろしいか、あの身の程知らずの男爵どもにもう一度、泥の怖さを思い知らせてやれ」




