第1話 転生前夜〜天界のミス
今回は異世界転生に挑戦です。
改訂:表題つけました。
角田丸男(八十八歳)の意識は、穏やかな春の海のような静寂の中にあった。
鼻孔をくすぐるのは、庭に咲く沈丁花の香りと、誰かが剥いているリンゴの甘い匂い。
(……あぁ、いい匂いじゃ。これがいわゆる『お迎え』というやつかのぅ……)
まだかろうじて「こちら側」に繋がっている耳に、隣の部屋から生々しい声が漏れ聞こえてくる。
「……だから! じいちゃんのあの土地、再開発の対象なんだってば! 早く実印の場所を聞き出さないと、兄さんたちに全部持っていかれるわよ!」
「バカ、声がデカい。まだ息があるんだから……」
(はっはっは。あやつらも元気じゃのぅ。あの世には金も土地も持っていけん。欲しいなら持っていくがいい。……ま、あの土地は地盤が少し厄介でな。基礎を打つ時は、杭の種類を間違えんようにせんといかんぞ。……ま、ワシにはもう関係のない話じゃがな)
歳とともに丸くなった。いや、丸くなりすぎた。
若い頃のワシなら、枕元で実印の話などされたら、点滴の袋を投げつけて怒鳴り散らしておっただろう。だが今は、そんな怒りのエネルギーさえも、どこか遠い国の話のように思える。
その時、小さな温かい手が、じいちゃんのシワシワの手を握った。
「じいじ。……ねえ、じいじ。お外に蝶々さんがいるよ。起きて一緒に見よう?」
五歳の孫娘、ひかりだ。汚れのない瞳。
じいちゃんをただの「大好きなじいじ」として見つめる、純粋な体温。
(おぉ、ひかりか……。お前さんは、ワシの人生の最高のご褒美じゃ。……よしよし、ワシの分まで、しっかり笑って生きるんじゃぞ)
じいちゃんは、心の中で孫娘の頭を撫でた。
その瞬間、丸男じいちゃんの中から、最後の「未練」という名のトゲがポロリと落ちた。
怒りも、悲しみも、執着も、全てが感謝という光の中に溶けて消えていく。
「……ッ、ゴホッ……! ……ゴホッ、ゴホ……ッ」
不意に、枯れ果てた喉が小さく爆ぜた。肺の奥に溜まった澱を吐き出すような、重い咳。一つ、二つと重なるたびに、全身の節々に走る微かな痛みが「生きる労苦」を突きつけてくる。
だが、それも一瞬のこと。
咳き込みが止まると同時に、魂を縛り付けていたすべての重力が消え去った。彼の魂は、天界では稀に観測されるかされないかの、「完全なる真球」へと変貌を遂げた。
「……。…………。」
静かな午後の陽光の中で、角田丸男は眠るように息を引き取った。
***
天界の「魂の精錬工場」は、今日も狂ったような忙しさだった。
「識別番号38271089074番、ゲートイン!」
「はい、浄化槽へ投入します!」
ここでは毎日、さまざまな世界から数千億もの魂がベルトコンベアに乗せられ、巨大な洗浄槽へと放り込まれる。
本来、「転生」とはすべてが「異世界転生」である。
魂は宇宙を循環する資源に過ぎず、地球から地球へ行くこともあれば、剣と魔法の世界へ飛ばされることもある。
行き先は空き枠次第のランダム。ただ、前世の記憶という「不純物」さえ完璧に削ぎ落としてリセットされていれば、どこへ行こうが問題はないはずだった。
だが、その一角で、一人の下級天使が首を傾げた。
「あれ……? 浄化槽の隅に、一つだけプカプカ浮いてる魂があるぞ」
本来、業を抱えた魂は泥のように沈み、洗浄液の中で揉まれて角が取れていくものだ。しかし、丸男じいちゃんの魂は、すでに完璧なまでの「真球」だった。あまりに丸すぎて、最初から加工が終わっているかのように水面にぷかぷかと浮いている。
それもそのはず。丸男は定年まで組織の荒波に揉まれる調整役として、また休日は畑で土や木と向き合う職人として、公私ともにその魂を磨き続けてきたのだ。一切の引っ掛かりをなくしたその魂は、あとは浄化槽の中で過ごすだけで、記憶も全て消えるはずだった。
だが、あまりに丸すぎた丸男の魂は、その『洗浄と忘却』の工程をスキップしてしまったのだ。
『なんだ、浄化済みの個体じゃないか。ったく、誰だ? 終わったやつを洗浄槽に逆流させたのは』
本来なら、そのままぷかぷかと浮いて順番を待っていれば、穏やかに過去を忘却できたはずだった。しかし、不運にもそれを見つけた天使は、溜息をつきながらその魂をヒョイと素手で持ち上げると、近くの『カゴ』の中にポイと放り込んだ。
つまり、魂の表面を覆う『記憶の層』が、手付かずのまま保存されてしまったのである。
しばらくして魂の出荷場から、血相を変えた連絡が入る。
『緊急連絡! 異世界・エンドレシア行きの魂が一つ足りない! 転生予約時刻まであと三十分だぞ!』
現場はパニックになった。管理職の天使が怒鳴り込んでくる。
「おい! 見つかったか!? まだ来ないのかとエンドレシアの管理神がブチギレてんだぞ!」
世に言う「不慮の事故で死んだら神に謝罪され、特典付きで転生した」なんて話は、ただの都市伝説だ。管理神たちにとって、記憶を持ったままの転生は「検品ミスによる産業汚染」でしかない。
もしマヨネーズや蒸気機関の知識が中世レベルの世界に持ち込まれれば、生態系は崩壊し、始末書どころの騒動では済まないからだ。
「あ、ありました、今すぐに!」
焦った天使は、カゴから丸男じいちゃんの魂を掴み出した。だが、表面を見ると、一時保管のカゴに入れた際についた微細な曇りがあった。
「あんなカゴに入れとくからだ。いいや、これでサッと拭けば済むだろ」
天使はじいちゃんの魂を掴むと、出荷ライン最終ゲートの手前にある
「仕上げ用ポリッシャー」に強引に押し当てた。
『これで磨けばいいだろ』
シャァァァァァァ!!
それは、魂の表面に刻まれた「角田丸男」という名前、そして愛した家族たちの記憶——いわゆる「個人のラベル」を根こそぎ削り取っていく音だった。
「よし、ピカピカだ! 行けっ!」
シュート!
名前も、家族の顔も、自分がどこに住んでいたかも失い。
けれど、あまりに完璧な真球だったがゆえに、自分はついさっきまで大往生した年寄りだったという自己意識の核だけは無傷のまま、魂は異次元の裂け目へと吸い込まれていった。
これがのちに、エンドレシアの文明バランスを根底から揺るがす大事件へと発展していくのだが、今はまだ、誰もそのことに気づいてはいなかった。
異世界:エンドレシア
「……んぎゃ?」
……とは言わなかった。
丸男じいちゃん——もとい、異世界の赤ん坊は、おぼろげな光の中で目を開けた。
(……なんじゃ? 随分と乱暴な扱いを受けた気がするが……)
視界に飛び込んできたのは、暗い天井。そして、自分を抱きかかえ、涙を流して喜んでいる女性の声。
「○△……○△□○△□○△……!」
(ん? ここはどこだ? …誰か近くでワシの顔を見ているようだが、よく見えん……)
じいちゃんは相手の顔を見つめたが、ぼやけて輪郭すら定まらない。
「○△□……!」
「○△□○△□○△□」
(外人? なんだ、親族に外人でもおったかのう?)
ぼんやりとした光の中で、そう結論づけた。視界はすりガラス越しのように白く濁り、何もかもが輪郭を失っている。
(……うーん。何も見えん。さては死に際に白内障がえらい勢いで進んだかのぅ……)
じいちゃんは確認しようと、自分の前に手をかざしてみた。そこで、異変に気づく。
(……なんじゃ、この丸っこい手は。ワシの指は、もっとこう、節くれだって、タコがあって、シワの多い指だったはずじゃが……。水膨れかのう?)
じいちゃんは不安になった。長年、畑仕事や木工で鍛え上げた「働く男の手」の面影がどこにもない。目の前にあるのは、滑らかで、柔らかな桃色の「何か」だ。
(……よもや、死ぬ間際にえらい病で腫れ上がったか? それとも、これが世に聞く『死後のむくみ』か。これはいかん、見苦しいところを……)
その「水膨れ」を引っ込めようと力を込めると、塊が「ぷるん」と震え、小さな突起が頼りなく動いた。
(……ん? 動く。なら『死後のむくみ』じゃなさそうじゃ。……しかし、心許ない手じゃのぅ。これでは茶碗も持てんし、孫の頭も撫でられんではないか)
「○△□! ○△□! ○△□○△! ○△□○△□」
弾んだ声が頭上から降り注ぐ。顔を向けたが、見えるのは光を背負った大きな「白い影」だけだった。
(……しかし、なんじゃ。これだけ騒がしいのに、知った声が全く聞こえてこない。息子も、嫁も、孫の声もせん。 いや、おかしい。誰の顔も思い出せん。急激にボケてしまったのか? もしかしてそれが原因でワシ一人だけ別の病院へ移されたんか?)
じいちゃんは、現状を報告しようと口を開いた。
「誰かおるか? 体が動かんのじゃが、これはどういう……」と言おうとした、その時。
「あ……。あぅ……っ。……んぎゃあ!」
(……!?)
じいちゃんは驚愕した。口から出たのは枯れた老人の声ではなく、天まで突き抜ける「絶叫」だった。
(なんじゃ!? 今のはワシの声か!? 声まで出んようになっとるのか! ワシの喉仏はどこへ行った!?)
「○△□○△□! ○△□○△○△□○△□」
混乱をよそに、女性は慈しむように彼を抱き上げた。腕の温かさと、柔らかな布の感触。そして、何もかもを誰かに委ねるしかない状況。じいちゃんは「水膨れ」の手を空に向かってフリフリと動かした。
「○△□○△□、○△□!」
(そんなに嬉しそうに笑って、ワシみたいな年寄りを歓迎してくれるのか。って……待てよ。お嬢さん、さっきからワシを『横抱き』にしとらんか?)
じいちゃんは、ハッとした。
(これが世に聞く「介護ロボット」というやつか。技術の進歩は恐ろしいのぅ)
白い布を纏ったロボットは、尚もじいちゃんを揺らしている。
(そろそろ降ろして欲しいんじゃが、看護師ロボットさん。……いや、自己紹介が先じゃな。ロボットさんや、ワシの名前は……名前は……)
思い出せない。一文字も出てこない。
(……参ったな。ワシは一体、いくつまで生きたんじゃったか。……だめじゃ、何もわからん)
真っ白な頭の中で懸命に足掻いてみたが、返ってくるのは長いこと生きてきたという確信だけだった。
(……はぁ。やっぱりダメじゃ。これが一気にボケが回るというやつか。 あんなにしっかりしとるつもりじゃったのに、自分の名前も歳も分からんようになるとは……情けないのぅ)
だが、じいちゃんは数秒でその運命を受け入れた。
(ま、ええわ。名前も分からんボケ老人を、こんなに笑顔で抱っこしてくれる施設なら、ここで骨を埋めるとしよう。お嬢さん、よろしく頼むぞ……むにゃ)
鼻をくすぐる甘い匂いに包まれ、じいちゃんは赤ん坊特有の睡魔に抗えず、そのまま深い眠りに落ちていったのだった。
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