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郵便受けの中の昨日

作者: 乱世
掲載日:2026/01/31

僕のアパートの郵便受けには、ときどき「昨日」が届く。


最初に気づいたのは春だった。広告や公共料金の通知に混じって、白い封筒が一通入っていた。差出人は空欄。宛名だけが、僕の字で書かれている。


中身は一枚の紙。


——今日はコンビニで肉まんを買った。少し冷めていた。


それは、まさに昨日の出来事だった。


気味が悪くなって捨てようとしたが、なぜか指が止まった。紙の質感も、インクのにじみ方も、どこか懐かしい。


次の日も、その次の日も、封筒は届いた。


——雨のせいで靴下が濡れた。

——電車で居眠りして、知らない駅まで行った。

——スーパーで半額のりんごを見つけた。


どれも些細な、僕自身しか知らないはずの記録だった。


一週間ほど経った頃、僕は思い切って封筒を開けずに取っておくことにした。


すると、その日は何も起きなかった。


肉まんも買わなかったし、雨にも降られなかった。電車で寝過ごすこともなかった。


まるで、紙に書かれた出来事だけが、現実になる資格を持っているみたいだった。


試しに、翌日届いた封筒を破って捨ててみた。


その日は丸一日、記憶が曖昧だった。気づけば夜になっていて、何をしていたのか思い出せない。ただ、部屋のゴミ箱には破れた紙切れが入っていた。


怖くなって、僕はそれ以降、必ず封筒を開くようにした。


ある日、紙にはこう書かれていた。


——今日は、昔の恋人とすれ違った。


そんな予定はなかった。でも夕方、駅の改札で、本当に彼女を見かけた。声をかける勇気は出ず、背中だけを見送った。


胸が、少し痛んだ。


それからというもの、僕は封筒を待つようになった。

未来を知るわけじゃない。昨日を再確認するだけなのに、それが妙に安心だった。


けれど、ある朝。


封筒は空だった。


白紙のままの紙が、一枚。


不安になって一日を過ごしたが、何も特別なことは起きなかった。平凡で、静かで、誰にも記録されない一日。


夜、鏡の前で歯を磨きながら、ふと気づいた。


今日は「思い出そう」としなければ、何一つ思い出せない。


翌日も、白紙。

その次の日も。


僕の生活から、出来事の輪郭が少しずつ失われていった。味も匂いも、感情も、全部ぼやけていく。


最後に届いた封筒には、短い一文だけがあった。


——もう書けない。


その日から、郵便受けは普通になった。


広告と請求書だけが入っている。


僕は今も生きている。働いて、食べて、眠っている。

でも、自分の昨日を説明できない。


もしかすると、あの手紙は「僕の存在証明」だったのかもしれない。


誰かに記録されなくなった人間は、こんなふうに、薄くなっていくのだろうか。


今日も郵便受けを開ける。


そこには何もない。


それでも僕は、確かにここにいるはずなのに。

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