潮の記憶
出張の合間に、駅から歩いて二十分。潮の匂いは、案内板より正確な道しるべだった。堤防の切れ目から砂がひらけ、波が薄く折り返す。子どものころ、祖母の家から毎日通った入り江だ。立て札は新しくなっているのに、風の手ざわりだけは昔のまま――やわらかくて、塩を含んだ指で頬をなでる。僕は靴を脱ぎ、足を砂に沈めた。波がくるたび、足首がほどけるみたいに軽くなる。
思い出す。あの夏、僕は一度、人間じゃなくなった。しかも恋をしていた。
小三の夏休み、祖母は「干潮の時は向こうの岩場へ行くな」と言った。理由を聞いても、祖母は笑って麦茶を注ぐだけだった。
昼下がり、友だちは帰り、僕はひとりで岩場の陰をのぞいた。潮が引き、底が鏡みたいに光る。そこで見つけた。手のひらよりずっと大きい、深い赤紫のヒトデ。五本の腕は指みたいに太く、吸盤がゆっくり呼吸している。目が合った、としか言えない感覚。吸盤が、こちらへおいでと手招きした。
僕は、考えるより先に手を伸ばしていた。ふれた瞬間、ぬるい布のようなものが手首に巻きつき、耳の奥でささやきが弾けた。
――あったかい。ひとつに。
必死にはがすと、手の甲に梅干し色の斑点が浮かび、皮膚が砂紙みたいにざらついた。
翌朝、斑点は増えていた。祖母が見つけて「どこで何を触った」と低い声で問う。僕が岩場のことを白状すると、祖母は少しだけ目を伏せ、包丁を握るみたいな握り方で僕の手を握った。「海は返してほしがることがあるんよ」それだけ言って、台所の奥へ引っ込んだ。
数日で、指はむくみ、関節が丸くなった。走ると足先が重く、眠ると潮の音が胸の内側で満ち引きした。海の匂いを嗅ぐと、安心する。指先の斑点は、五つの島のように集まって脈を打っていた。
その夜、僕は夢の中で海へ歩いていた。波は腰まできて、冷たさは感じない。足元の砂がざらざらと音を立て、やがて溶けるように崩れていく。次の瞬間、肘も膝も消え、指も骨も失われた。代わりに、体の中心から五本の腕が生え、勝手にうねりだす。吸盤がぷくりと膨らみ、海水を握る。
――あ、ヒトデだ。
心のどこかでそう呟いた。呼吸は胸ではなく、全身の表面から潮を吸い込むように変わった。
この瞬間から、僕は海の底の住人になった。
海は祝福するように全身を撫で回し、僕はゆるやかに沈んでいく。
光は虹色の布になり、サンゴの迷路が足元(もう足はないが)に広がった。枝サンゴはアパートの廊下のように入り組み、ウミウシたちはそこで昼寝している。
ヤドカリは玄関のチャイム代わりに貝殻を叩き、海藻のカーテンを揺らして客の出入りを知らせる。遠くではクマノミたちがイソギンチャクの中に小さな市場を開き、プランクトンを「今日の特売!」と振り分けている。砂地にはエイがじゅうたんのように広がり、通り道をふさいで料金を請求する――支払いは背中をくすぐることだ。
流れてくるクラゲの群れは、巨大な照明器具のように海底を照らし、夜は満月の代わりに光るホタルイカのシャンデリアがゆっくりと移動していく。
食事は光や潮の香りそのものだが、ときどき流れ着く巻き貝の中から、まるで熱々の茶碗蒸しのような柔らかいものが現れる。それを吸い込みながら、僕らは腕をくるくると絡ませ、まるでちゃぶ台を囲む家族のように笑った。
こうして日々は過ぎていく。海底の家具はサンゴや岩でできているのに、不思議と懐かしい人間の部屋の匂いがした。
そんな日々のなかで、彼女を知った。ひときわ鮮やかな橙色。腕の縁が金糸で縫われたみたいに光り、吸盤はいつも少し笑っていた。触れるだけで、潮が甘く震える。振動は名前に似たなにかを運んでくる。陸の言葉では書けない音節。
僕らは「潮レース」に出た。速い潮の流れを見つけ、そこへ五本の腕で飛び込み、流れに乗ってサンゴの迷路を駆け抜ける遊びだ。流れはまるで巨大な滑り台のようで、腕を広げれば広げるほど加速する。途中、他のヒトデや魚たちを抜き去るたび、潮が小さく震えて歓声のような音を立てた。
レースの後は、ゆっくりと海面近くまで上がる。僕らヒトデにとって、それは「夢のぞき」と呼ばれる静かな時間だ。海面は薄い膜のように張り、腕先をそっと触れると、その向こうに人間の夢の断片がちらちらと流れていく──畳の目、黒電話の受話器、かき氷の機械……。
ある晩、彼女は海面の近くで長く留まり、波の皮膚に影を落として、僕にだけわかる微かな震えで言った。
――君は昔、そこにいたんだね。
僕は答えた。
――たぶん。けど、今はここにいる。
彼女は吸盤をやさしく寄せ、僕の腕の縁にそっと重ねた。潮が、ため息みたいにやわらぐ。
嵐の気配は、遠くの太鼓のように最初の一打が来る。海全体の色が濃くなり、潮の毛布は温かさを失い、貝殻の宮殿は壁を折り畳んだ。
彼女と僕は腕を絡め、エレベーターの潮に逆らおうとした。けれど流れは歯車みたいに僕らをほどき、別々の方向へ回しはじめる。最後の一瞬、彼女の吸盤がやわらかく震えた。
――またね。
次の瞬間、世界はまるごと転覆し、暗い水が口の中まで満ちた。
砂の味がした。顔を上げると、空はまぶしく、海は平らに光っていた。僕は人間の形に戻っていて、腕には指が十本戻っていた。肘を曲げるという行為に感動した。骨は心強く、関節は頼もしい。
けれどどこか、きしむような寂しさが混じっていた。手のひらを見ると、小さな橙色の欠片が貼りついていた。爪先ほどの、ヒトデの破片。吸盤が二つ、微かに呼吸している。
祖母の家に戻ると、祖母は何も聞かず、濡れた服をはぎ取り、風呂場で僕の背中についた砂を流した。湯気の向こうで祖母は言った。
「海は、ときどき返してくれる。全部じゃないけどね」
それが、僕に与えられた説明のすべてだった。
それから年月がたち、僕は都会でスケジュールの穴を埋めるように暮らした。たまに夜更け、ベッドの上で手のひらの真ん中が温かくなることがある。橙色の欠片は、いつのまにか見えなくなっていたのに。
いま、僕はあの入り江で波の音を聞いている。潮の匂いは正確で、僕は正確にあの夏へ連れ戻される。耳の奥で、かすかな振動が生まれる。風が変わる。波間、陽の反射の隙間に、橙色がひるがえった。ほんの一瞬、五本の腕が僕の方へ手招きした。
僕は笑って、靴を片方だけ脱いだ。砂に指を差し込むように足を埋める。
――またね。
誰に向けたのか、自分でもはっきりしない。
けれど、潮は合図を理解したみたいに、足首をやさしく撫でていった。
あの嵐の日、僕は人間に戻った。たぶん、偶然だったのだろう。
だけど海の中には、今も僕の恋人がいる。僕の形を覚えている海が、そこにある。そしてときどき、僕の形は少しだけほどけて、波の皮膚に混じる。
靴をもう片方脱ぐかどうか、僕はしばらく迷っていた。