39.霧隠れ
文字通りの肉弾戦。互いに握る得物はなく、堅く握り締めた拳と拳のぶつかり合い。
人外の膂力は、ただそれだけで衝撃の余波を生み出し、轟音と旋風を撒き散らす。
それでも、亡霊の霧が晴れることはない。辺りは濃く白い霧に覆われている。
いつの間にか、霧の女主人は霧で象った椅子に座して宙に留まっている。その視線は激闘を愉しげに見つめており、スターが結界にて護る家屋と姉弟、そして、秘宝への興味はない。
道楽に付き合うかぎり、シェーラが強行に及ぶことはないだろう。しかし、長引くほどに他の勢力が活発に動き始める。
そもそも、シェーラは解放する条件を提示していない。
スターの脳裏には、霧の異界を解呪するための術式が高速で模索されていた。
ただ、それは容易なことではない。シェーラの正体は長らく不明とされ、彼女の扱う魔術もまた未知の代物。激闘の旋風が霧を払うことのないように、火炎魔術によって蒸発させるという単純明快な対処法では失敗する。
霧は喩えに過ぎず、その本質を捉えないかぎり、解呪式を構築することは不可能だった。
家屋を取り込んだことからして、異界はシェーラを基点とした相対空間に構築されている。怪物を内に飼っていたことからして、空間は常に維持されている。
【蜃気牢】によって侵入を阻めている霧は、副産物ではなく異界を機能させる本体。
この結界は、陽炎のイメージによる『歪曲』や『屈折』で空間を閉じている。条件指定型の結界であり、その条件はなにも物理的である必要はない。『意思あるモノを拒む』という使い方もできる。これによって酸欠などの閉鎖系結界の初歩的な欠陥を回避している。
すなわち、この結界に拒まれた霧には意思がある、あるいは、宿っている。
意思があるのならば、それはこの異界が自動的に機能していることを推測させる。
「微細な虫の群れ?……いいえ、それならば実体がある。風に揺らがないということはないでしょう」
右手を顎に添えて左手は右肘を掴むように組んだスターは思考を呟き、整理を試みる。
「騒霊鳴動……あれはとてもおかしなことでした。条件は全く整っていなかったはず。そもそも家屋が家主に反して、返答することは原則としてあり得ない。家屋の本分は住人の安息地であること、勝手に招くなどあってはならない」
思考は時系列を振り返り、シェーラの最初の接触に跳ぶ。
もう一歩。思考の渦を抜けるのに足りない。
「飽きた」
スターの耳がディアブロのそんな言葉を拾った。
「【威虎】」
怪物の頭部に叩き込まられるディアブロの拳。上から下に、大地に叩きつける。
蜘蛛の巣状に地割れを起こし、小規模な地震となったその衝撃は完膚なきまでに怪物の頭部を圧壊している。
再生はしない。【虚像の確証】がどれほど強力な術式であろうとも、蠅王の権能に及ぶものではない。
ディアブロにとっても、これは単なる遊びにすぎなかった。
「あら、もう終わりかしら?」
シェーラが言葉を発する。そこに含まれるのが、落胆か、満足か。スターは注意深く耳を傾ける。
「つまらないわ。つまらない。とってもとってもつまらない」
亡霊の意思はどちらを向くのか?
つまらないからこそ続行か、つまらないゆえの諦観か。
「シェーラ、何をしている?」
しかし、亡霊の決定的な言葉が紡がれる前に、闖入者が現れた。
嗄れた声を発したのは、全身を黒いローブで覆い隠した不詳の人物。顔貌もフードと犬の頭蓋骨で隠されている。唯一、窺い知れるのは、青白い炎を灯したカンテラを吊るす骨と皮ばかりの痩けた左手だけだ。
「あら、グリム?何をしようと私の勝手でしょう?」
シェーラがグリムと呼ぶそれは、十二死徒の一角。
『墓守』チャーチグリム。
十二死徒の発足者である、魔道屍だ。
「困る。困るぞ、シェーラ。おぬしが何をしようと勝手だが、魔道士を招くな。解き明かされては面倒だ。新しく組み直さねばならなくなる」
「大袈裟ねぇ。別に構わないじゃない。偶には、危機感を持った方が健全よ?」
「儂らはそれを嫌って成り果てたのだぞ、シェーラ。無駄な時間を使わせるな」
帝国側そっちのけで言い争う二人に、スターが口を挟む。
「腐るほどあるでしょうに、チャーチグリム。先達らしく、講義でもしていかれてはいかがです?」
「ふん、魔術の研鑽は競争ではないことなど分かっていよう。我儘娘を引き取ってやろうというのだ。下手な勘繰りはやめることだ。その琥珀、儂は若い頃に散々に研究した。今さら欲する由はない」
「……ならば、疾く去ることです。あなたの身柄は、特級秘宝に次ぐ優先目標であることは自覚しているのでしょう?」
「言われずとも。行くぞ、シェーラ」
「はぁ、しょうがないわね。また、機会があったら遊びましょうね、帝国のわんちゃん?」
佇むチャーチグリムと手を振るシェーラの姿が霧に巻かれて消え去った。いつの間にか、異界の霧は晴れて、元の小村の風景に戻っている。怪物の骸も、地割れもない。
空は赤らみ、夕暮れを感じさせた。
「去りましたか。さて、あの登場はブラフかどうか。こちらの戦力を把握しにきたとも取れますし」
スターが不死者たちの意図に思考を向ける傍らで、アイフェがふらつく。
「お姉ちゃん!?」
「ん、大丈夫よ。ちょっと腰が抜けただけだから」
「……と、一先ずお二人の安全確保が先ですね。では、移動しましょう」
その様子に、スターは思考を切り替える。
そのまま外にいるディアブロの元には、ジェットが降りてきていた。
ジェットを通したスカサハの言葉
『ちゃんと側に置いとかんか。亡霊の霧なんぞに取り込まれおって、見逃してしまったではないか』




