レナートの再訪
「……お嬢様。明日レナート様がこちらにお見えになるそうですが、いかがいたしましょうか」
ジゼルがやや躊躇いがちにセレスティーヌに尋ねた。セレスティーヌは、二日後から魔術師団の仕事に復帰する予定になっていた。レナートは、セレスティーヌの休養の最終日、彼女が仕事に復帰する前に彼女を再び見舞いたいと手紙を寄越していたのだった。
「ええ、わかったわ。では明日、レナート様とのお茶の準備をしてもらえるかしら」
ジゼルはほっとした様子でセレスティーヌに向かって微笑んだ。
「よかった、お嬢様。前回レナート様がお越しになった際は、彼を思い出せないせいもあったのでしょうが、どこかレナート様を拒絶なさっているようなご様子だったので……。お嫌ではないかと心配していたのです」
「あの時のことは、私も反省しているわ。せっかく私を見舞ってくださったレナート様に向かって、すぐに婚約解消を切り出してしまって。……ただ、正直なところ、この婚約を続けていくのが双方にとってよいことなのかは、まだわからないの。彼のことは未だに思い出せないし」
セレスティーヌの言葉に、ジゼルは穏やかな表情で頷いた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。しばらくレナート様と過ごしてみてから、やっぱり彼とはどうしても結婚したくないと思えば、その時に改めて婚約を解消なさればよいかと思いますよ。お嬢様なら、レナート様との婚約を解消したところで、引く手あまたなのは間違いありませんしね。……ただ、旦那様と奥様は、レナート様のお蔭でお嬢様のお命が助かったことをとても感謝していらっしゃいましたから、お嬢様たちの婚約には前向きだったのですけれど」
「……レナート様は、私の命の恩人だということ?」
セレスティーヌはその瞳を驚きに丸く見開いていた。
「はい。そのことが、お嬢様がレナート様をお慕いになるきっかけにもなったのですよ」
「全く思い出せないわ……。けれど、私、恩人に対して何ていう失礼な物言いをしてしまったのかしら」
セレスティーヌは青ざめると、ジゼルの手を握った。
「ねえ、お願い。ほかにも、レナート様のことをできるだけ教えてもらえないかしら? まだ彼に関する記憶は戻らないのだけれど、明日彼にお会いする前に、少しでも情報として得ておきたいの。……無理矢理に彼を思い出そうとしている訳ではないし、もうレナート様のことを考えても頭痛もしなくなったから、私の体調面での心配はいらないわ。それに、また失礼なことを彼に言ってしまっても申し訳ないもの」
「そうですねえ……。確かに、お嬢様の言うことも一理あるかもしれませんね」
ジゼルは思案気に視線を宙に彷徨わせると、セレスティーヌに向き直った。セレスティーヌに勧められた椅子に腰掛けながら、ジゼルは口を開いた。
「では、簡単にご説明しますね。レナート様は、水属性の魔術師が所属する、我が国の第二魔術師団の副団長を務められています。前にもお話ししたかと思いますが、彼は水魔法の発展形である、さらに難易度の高い氷魔法も自由に操れるそうで、その魔法の実力はこの国でも五本の指に入ると言われています。以前、魔術師団の拠点を魔物が襲って来た際、お嬢様を危機から救ったのも彼の氷魔法だったそうです」
「そうだったの……」
セレスティーヌは、ジゼルの言葉に静かに耳を傾けていた。ジゼルはセレスティーヌを見つめると続けた。
「それから、これはお耳に入れておいていただいた方がよいかと思いますが、彼は生い立ちが複雑なのです。相当に不遇だったと言ってもよいでしょう」
「レナート様が?」
「はい。名門シドニアス侯爵家の長男としてお生まれになったレナート様ですが、母君が不貞を疑われて離縁され、母君と一緒に実家の伯爵家に戻られたのです。噂では、レナート様の瞳の色が、父君とも母君とも似ても似つかなかったことが原因だとか。母君は、不貞を最後まで否定なさっていたそうで、離縁の原因になったと、息子であるレナート様を憎んで辛く当たっていたようですよ」
「まあ……」
セレスティーヌは、レナートの境遇に胸が痛むのを感じて顔を顰めた。
「母君の実家の伯爵家でも、母君には疎まれ、それ以外の家族からも虐げられて、学校に入学する年になると逃げるように家を出て寮に入ったとか。今では、とある方の養子に入られて、母君のご実家とも実質的に縁を切っています」
「では、もしかして、レナート様があまり感情を表に出さないのは……」
「ええ、恐らく、幼い頃の境遇が大きく影を落としているのでしょうね。私も、初めてお会いした時には、彫像のようにお美しい顔立ちだとはいえ、少々怖く感じましたもの。けれど、以前のセレスティーヌ様の言葉を借りれば、見た目とは裏腹に温かな心の持ち主なのだと、そのようなお話でした」
「私、この前は彼を外観の印象も含めて、彼のお気持ちは私にはないのだろうと勝手に判断してしまって。……本当に悪いことをしてしまったわ」
セレスティーヌは、申し訳なさに胸がいっぱいになるのを感じていた。それに、彼が贈ってくれたフリージアの香りを嗅ぐ度に、どこか心が温かくなるのと共に、最後にセレスティーヌを振り返った時の、彼の傷付いたような表情も目に浮かび、いたたまれないような気持ちになっていたのだった。
「母君との関係も背景にあるのか、レナート様はそれまで、女嫌いとして有名でした。彼がお嬢様と婚約なさった時も、それは大きなニュースになったのですよ。余談ですが、レナート様は女嫌いとはいえ、とても女性に人気がありましたから、彼の婚約には多くの女性が嘆いたそうです」
「彼が、ただの子爵家の娘に過ぎない平凡な私と婚約してくださったなんて。それは驚かれたとしても不思議はないわね」
「ただ、レナート様が養子に入られた家は、いわゆる貴族家ではないのですけれど。彼は魔術師団での功績が認められて、もうすぐ新たに貴族位が授けられる予定と伺っています」
「知らないことばかりで、驚いたわ……。ジゼル、教えてくれてありがとう」
セレスティーヌの言葉に、ジゼルは穏やかに微笑んだ。
「いえ。だいたい、レナート様についてはこのようなところでしょうか。これは私の想像ですが、彼に命を助けられたことに加えて、彼の不遇な生い立ちも、何とかして彼を支えたいというお嬢様の気持ちに繋がったのではないでしょうか。お嬢様はお優しくて、そのような方を放っておけないようなところもありますからね。以前のお嬢様は、よく彼のことを心配なさっていました。とても才能に恵まれてはいるけれど、時に戦い方が無謀に、自らを省みないようにも感じられるのだと」
セレスティーヌはジゼルの言葉にはっとした。
(この前、マティアス様が仰っていたけれど。私は、そのようなレナート様のことが心配で、直接戦いの場で彼を支えたいと思っていたのかしら)
口を噤んだセレスティーヌを、ジゼルは椅子から腰を上げながら見つめた。
「まあ、あまり考え過ぎず、まずは明日、レナート様との時間を楽しんでみてはいかがでしょうか。以前のお嬢様は、それは楽しそうに彼とお話しされていましたから」
「そうね、そうすることができるとよいのだけれど」
「ええ、きっと大丈夫ですよ」
ジゼルはセレスティーヌを励ますように、にっこりと温かな笑みを浮かべた。
***
「セレス、レナート様がお見えになったわよ」
母マリアの言葉を受けて、セレスティーヌはレナートを迎えるために椅子から立ち上がった。彼女は、久し振りにシルク地の光沢の美しい薄紫色のワンピースに身を包み、薄化粧をして支度を整えたところだった。
「ええ、今まいります」
屋敷の玄関を潜ったセレスティーヌは、馬車から降りるレナートを見つめた。陽光の元に地面に降り立った、さらさらと滑らかなプラチナブロンドの髪を靡かせ、この上なく整った容貌をしたレナートは、彼に関する記憶の戻らないセレスティーヌの目から見ても、息を呑むほどに美しかった。
「レナート様、ようこそお越しくださいました」
セレスティーヌの優美なカーテシーを前にして、レナートはやや緊張した面持ちで彼女のことを見つめていた。