医師の言葉
「セレス、ビクトル先生がいらしたわ。マティアス様にご紹介いただいた先生で、あの事故の後からあなたを診ていただいているのよ」
マリアがセレスティーヌに向かって微笑んだ。白髭の医師は、ベッドで上半身を起こしているセレスティーヌの姿を見て、嬉しそうににっこりと笑った。
「セレスティーヌ様、お目覚めになって何よりです。マティアス様が回復魔法を使われて、お身体には深刻な傷などは残っていらっしゃいませんでしたが、なかなか意識が戻られずに心配しておりましたから」
フレッドはセレスティーヌを見つめると、不安げにビクトルに尋ねた。
「ただ、まだセレスの記憶が混濁している部分があるようで、記憶の一部が戻らないようなのです。……ビクトル先生、セレスは無事に元の通りの記憶を取り戻せるのでしょうか?」
ビクトルは、顎の白髭を軽く撫でながら思案気に口を開いた。
「左様でしたか。その状況だけでは、何とも言えませんが……セレスティーヌ様が思い出せずにいることとは、何なのでしょうか? 例えば、事故の前後の記憶だったり、日常生活全般に関する知識が抜け落ちていたり、あるいは固有名詞がなかなか出て来ないなど、症状は色々と考えられるかとは思いますが」
セレスティーヌはベッドからビクトルを見上げた。
「目覚めたばかりの時は、どうして自分がここにいるのかもわからず、事故に遭った記憶自体も曖昧だったのですが、お父様たちに事故の状況を聞いて、大抵のことは思い出しました。恐らく日常生活には何も支障はないと思います。ただ……」
セレスティーヌは一度言葉を切ってから続けた。
「私には婚約者がいたようなのですが、彼のことは、本人に会っても思い出せなかったのです。お父様やお母様、ここにいる侍女のジゼルやマティアス様のことは、すぐに思い出せたというのに」
「では、今のところ、思い出せずにいるのは、その婚約者の方だけなのですか?」
「ええ、その通りです」
「ふむ……」
ビクトルは、優しい琥珀色の瞳で労わるようにセレスティーヌを見つめた。
「記憶を失うといっても色々なケースがありますから、一概には言えませんが、無理に思い出そうとはしないことですね。……その方だけを思い出せずにいるということは、今は脳が思い出すことを拒否しているという可能性もありますから」
マリアが怪訝な顔で首を傾げた。
「それは、どういうことなのでしょうか?」
「脳の防衛本能のようなものとでもお考えいただければと思います。平たく言えば、思い出したくないから思い出せない、とでも申しましょうか。……悪い記憶に限らない可能性もありますが、その婚約者の方にまつわる記憶や感情についての情報処理をしている余裕が、事故の後で目覚めたばかりのセレスティーヌ様にはないのかもしれません。焦りは禁物ですよ、まずはゆっくり身体と心を休めることが肝心です」
レナートのことを無理に思い出す必要はないとわかって、セレスティーヌは安堵に胸を撫で下ろしていた。自分の婚約者を思い出せないこと自体に、胸の中が多少もやもやとはするものの、セレスティーヌ自身、彼に関する記憶を引き出そうとすると、まるで頭が抵抗するかのような鈍い痛みを感じたからだった。
ビクトルは一通りの診察を終えると、穏やかな笑みをセレスティーヌに向けた。
「さっき仰っていた記憶に関すること以外は、どこも問題ありませんね。……あまり考え過ぎずに、気長に時の流れに任せることをお勧めします。その記憶がセレスティーヌ様にとって必要なことなら、きっといつか自然と思い出すことでしょう。どうぞお大事になさってください」
「ありがとうございます、ビクトル先生」
セレスティーヌがビクトルに頭を下げると、両親は彼を見送るために彼と連れ立って部屋を出て行った。両親と一緒に部屋の扉に向かおうとしていたジゼルに向かって、セレスティーヌは声を掛けた。
「ジゼル、もう少し教えて欲しいのだけれど……」
けれど、ジゼルは心配そうに眉を下げると、セレスティーヌを見つめた。
「お嬢様が聞きたいことというのは、レナート様の話の続きですよね?」
「ええ、その通りよ」
「今、ビクトル先生も仰っていましたでしょう? 無理にレナート様のことを思い出そうとはしない方がよいと。……まずは、お嬢様がしっかりと休息を取られて、十分に回復なさってからにいたしましょう」
セレスティーヌを温かな瞳で見つめてから、ジゼルは一礼をして部屋を出て行った。
(まだ、レナート様のことはわからないことだらけだわ。私、なぜそれほど彼のことをお慕いしていたのかしら? レナート様だけ顔も名前も思い出せないなんて、本当に彼のことが好きだったのかしら……)
セレスティーヌは、頭に浮かんで来た思考を振り払うように小さく首を横に振ると、再び身体をベッドに横たえてから、その瞳をゆっくりと閉じた。
***
帰りの馬車で揺られるレナートに、隣に座る彼の部下のクリフォードが笑い掛けた。
「セレスティーヌ様をすぐに見舞えてよかったですね、レナート様。魔物討伐の遠征も、もう一、二週間はかかるかと思っていましたが、レナート様のご活躍のお蔭であっさり片付きましたね。さすがは、我が第二魔術師団の誇る若き副団長です」
レナートは、その優れた水魔法の腕から、水魔法を操る魔術師で構成される第二魔術師団の副団長を務めていた。水魔法の発展形とも言える氷魔法を使える者が多くはない中で、彼は自在に氷魔法を操ることでも知られている。無言のまま俯いているレナートに、クリフォードは続けた。
「レナート様が、あんなに鬼気迫る様子で魔物をなぎ倒す姿は初めて見ましたよ。さすが闘神といった迫力でしたが、セレスティーヌ様が事故に遭ったと聞いて、余程心配だったのでしょう? さっさと魔物たちを片付けて駆けつけたいと、そんな気持ちが恐ろしいほど滲み出ていましたよ」
「……そうだな」
ようやく顔を上げたレナートが幽霊のように真っ青であることに気付いて、クリフォードはぎょっと目を丸くした。
「ど、どうしたんです、その顔!? 愛しのセレスティーヌ様に、ようやく会えたのではなかったのですか?」
「会えたことは会えたのだが。セレスティーヌは、俺の記憶を失くしていた」
「ええっ……!?」
仰天したクリフォードは言葉を失くすと、目の前の生気のない顔をしたレナートのことを、ただ呆然として見つめていた。