ジゼルの溜息
レナートがセレスティーヌの部屋を辞した後、ゆっくり休むようにと言い残して部屋を出る両親を見送りながら、セレスティーヌは、二人を追って部屋を出ようとしていた侍女のジゼルを呼び止めた。
「ねえ、ジゼル。少し、あなたに教えて欲しいことがあるの」
「はい、お嬢様」
扉に向かいかけていたジゼルは、すぐに踵を返すとセレスティーヌのベッドの側に戻って来た。
「もちろん私でよければ何でもお答えしますが、お嬢様は大丈夫ですか? ご無理はなさらない方が……」
ジゼルの薄茶の瞳には、セレスティーヌの身体を労り、気遣う心からの色が浮かんでいた。見慣れた彼女の優しい瞳に安堵を覚えながら、セレスティーヌは微笑んだ。
「ええ、私は大丈夫。あのレナート様という方、なのだけれど」
「はい」
「彼は本当に私の婚約者だったのかしら……? どうしても思い出せないの」
ジゼルは、なぜか泣きそうな顔をしてセレスティーヌを見つめた。
「はい。間違いなく、レナート様はお嬢様の婚約者でいらっしゃいます。今まで、お嬢様がレナート様のお話をなさる時は、いつも本当に幸せそうにしていらしたのですが……。なぜお嬢様がレナート様のことを思い出せないのか、私も不思議でなりません。お嬢様が目を覚まされてから、旦那様や奥様、それに私のことは、すぐにおわかりになりましたか?」
「ええ、もちろんよ」
「それに、お嬢様の上官のマティアス様のことも、覚えていらっしゃるのですよね」
「マティアス様には魔術師団でもよく助けていただいているもの、忘れるはずがないわ」
「なら、どうしてレナート様のことだけ思い出せないのでしょう……」
ジゼルは俯くと深い溜息を吐いたけれど、気を取り直したようにセレスティーヌに視線を戻した。
「でも、レナート様は素敵な方でしたでしょう? 美形の上に、最上位の魔術師でいらっしゃいますし」
「確かに、お美しい方だとは思うけれど。私に笑い掛けてもくださらないし、表情もあまり動かなくて、何だか少し怖かったわ」
「まあっ……!」
ジゼルは小さな悲鳴を上げた。
「あの表情に乏しいレナート様の、わかりにく……失礼しました、いえ、非常に微妙で繊細な表情の変化でも、いつも敏感に汲み取っていらしたお嬢様が、そんなことを仰るなんて」
「あら、レナート様は、普段からあんなに無表情なの?」
驚きに目を瞬いたセレスティーヌに、ジゼルは頷いた。
「はい。いつも、特に女性に対してはそのようですよ。笑顔も滅多に見られないそうで、強い魔力も相まって『氷の闘神』の二つ名があるくらいですからね。実際にレナート様は氷魔法も使われると、以前お嬢様に伺いましたけれど。ですが、先程はレナート様があれほど顔色を変えて焦っていらっしゃるお姿を初めて見て、私もびっくりいたしましたよ」
「そうだったの。……私、レナート様に、悪いことをしてしまったかしら」
セレスティーヌは少し眉を下げた。
「てっきり、彼のよそよそしい態度を見て、私を好ましく感じてはいらっしゃらないのだろうと思ったのだけれど」
「いえ、あれでも好意的なのだろうと思いますよ。近付きづらい、なんていう声も、私ですら幾度も耳にしていますしね。ただ、今のお話で、少なくともお嬢様が本当にレナート様のことを覚えていらっしゃらないのだということは、よくわかりました。あら……」
ジゼルは、窓の外から聞こえて来た、去って行くレナートの馬車と入れ違いに屋敷に入って来た馬車を見つめた。
「あれはビクトル先生の馬車ですね。今日の往診にいらしたのだわ」
「ビクトル先生?」
「ああ、ビクトル先生については知らなくても当然ですよ、お嬢様。ビクトル先生は、お嬢様が事故に遭われてから旦那様が呼んでくださった、お嬢様を診てくださっているお医者様です」
「あら、そうなの」
程なくして、セレスティーヌの部屋の扉がノックされ、先程セレスティーヌの部屋を出て行ったばかりの彼女の両親と一緒に、白い髭をたくわえた壮年の男性が入って来た。