祈るように
本日3話目の更新です。次話で完結となります。
セレスティーヌを彼女の実家まで連れ帰ったレナートは、部屋のベッドに横たわる、意識を失ったままのセレスティーヌの側の椅子に腰掛けていた。セレスティーヌの顔色はもう大分良くなり、医者からも特に心配ないとは言われていたけれど、彼女の側を離れたくはなかったのだ。
セレスティーヌの両親は、二度も娘の命が彼に助けられたことに心からの感謝をしており、すっかりレナートに全幅の信頼を置いていた。レナートは、セレスティーヌの美しい寝顔を見つめながら、その蜂蜜色の髪を柔らかく撫でた。
恐らく、セレスティーヌは失っていた記憶を取り戻しているのだろうと、レナートには確信に近い感覚があった。レナートは、その左腕に嵌めている、セレスティーヌと揃いの魔石の付いた腕輪を見つめて小さく息を吐いた。
「君が目を開けた時、まだ俺のことを想っていてくれるのだろうか……」
レナートは消え入りそうな声でそう呟くと、そっと彼女の白い手を握った。
***
セレスティーヌが初めて回復薬を俺に差し出してくれたのは、俺が彼女と一緒に過ごすようになって初めての魔物討伐の遠征の時だった。気を付けてくださいという言葉と共に渡された小瓶には、ほんのりと淡い紫色を帯びた、光の加減で虹色に輝く回復薬が揺れていた。
俺が魔術師団の入団試験を受ける時、彼女の回復魔法で助けられた時に感じた、あの温かな力が込められた回復薬に、俺は嬉しさのあまり感動すら覚えていた。回復薬を作るのにどれほどの魔力が必要かというのは有名な話で、彼女が貴重な魔力をそれほどに使って、俺のために回復薬を作ってくれたというその気持ち自体も、本当に嬉しかったのだ。
俺の手の中で見る回復薬は、光の当たる角度によって虹色に煌めいていて美しかった。その輝きを見るだけでも、心が温まり癒されるのを感じた。彼女に贈られたものは、どれもが俺にとっての宝物だったけれど、彼女がくれた回復薬は、その中でも特別大切な宝物になった。
セレスティーヌは、遠征の度に俺に回復薬を作ってくれるようになった。少しずつ、彼女が作ってくれる回復薬の色は異なっていた。ほんのり赤味がかっていたり、薄らと緑を帯びていたり。回復薬は、無色透明のものが最上級とされているけれど、セレスティーヌが作ってくれる回復薬のどれもに、彼女のその時々の体調や気持ちまでもが現れているような気がして、それすら俺は愛おしく感じていた。
使ってしまうのが惜しくて、俺はそっとそれらの回復薬を大切にしまい込んでいた。いずれ、本当に必要になった時には使うつもりだ、というのが彼女と自分への言い訳でもあった。とはいっても、結局セレスティーヌには言い出せないままになってしまったが。
俺の無事を願って、貴重な魔力を使って彼女が作ってくれた回復薬だ。彼女も、俺がそれを使用することを望んでいると、さすがに俺も理解はしていた。だから、使わずに大切に保管していたことに、後ろめたさも感じていた。彼女がそれを知れば、呆れられるのではないか、悲しませてしまうのではないかということが、常に心の片隅にはあった。けれど結局、俺は何もしないままにただ時間をやり過ごしていた。
セレスティーヌが俺のいる第二魔術師団の役に立ちたいと言い始めた時、俺は背筋が冷えた。大切な彼女を、俺の存在をきっかけに傷付けることにでもなってしまったら元も子もない。彼女が、そのために魔法の訓練にも必死に取り組んでいることは知っていたけれど、彼女がそれを口に出す都度、俺はそれを断った。その度に、彼女は悲しそうな顔をしていた。
第二魔術師団によく同行していた回復魔法の使い手が、ジリアンという第五魔術師団の先輩だったことも、セレスティーヌには何か思うところがあったようだ。俺にとっては、特に必要でもないのにやたらと近寄り、回復魔法を掛けてくる彼女は煩わしい存在でしかなかったから、眼中にもなく気付かなかった。だが、今から思い返せば、セレスティーヌの気持ちをもっと慮るべきだったのだろう。
ある遠征の日、いつもなら必ず見送りに来てくれるセレスティーヌの姿がなかったことに胸騒ぎを覚えて、出発直前ではあったけれど、急ぎ魔術師団の拠点に戻って彼女を探していた。その時俺の耳に、ガラスの割れる高い音が響いた。
――パリン、パリン
俺は慌てて音の出所に向かった。何だか嫌な予感を覚えつつ第二魔術師団の部屋の扉を開けると、そこには、床に砕け散った回復薬の瓶と、真っ青な顔をして涙を流すセレスティーヌの姿があった。
彼女の酷く傷付いた表情を見て初めて、俺は取り返しのつかないことをしてしまったことを悟った。彼女は回復職の仕事に誇りを持って、いつも真摯に、懸命に仕事に励んでいた。俺は、回復薬を俺のために作ってくれた彼女の温かな気持ちだけでなく、彼女の魔術師としてのプライドまでも踏みにじってしまったようだということに、その時になってようやく気付いたのだった。
以前から、セレスティーヌは俺の前で寂しそうな表情を時折見せていたし、何かを言いたげに口を開いてから、それを飲み込むような様子もあった。それに気付いた時点で、俺は彼女に近付いて、もっとわかり合えるように努力すべきだったのだと、胸の痛みと共に後悔が押し寄せて来た。
君を傷付けるつもりはなかったのだと、そう言いたかったけれど、その言葉はもう彼女に届かないこともわかっていた。
彼女は涙を流したまま俺を見つめ、また幾つかの言葉を言い掛けて飲み込んだようだった。彼女の瞳には、失望どころか絶望の色が浮かんでいた。
彼女はそれから、掠れた声で呟くように、俺に向かって一言だけ言った。
「……大好き、でした」
そして、そのまま俺に背を向けて走り去って行ってしまった。
それが、彼女が俺に告げた別れの言葉だと気付くまでに、しばらく時間がかかった。ショックのあまり呆然としていた俺は、彼女を追い掛けることすらできなかった。
それから、セレスティーヌを乗せた馬車の事故が起きたのだ。
事故後に彼女を見舞いに訪れた時、俺は彼女に会いたくて堪らなかったけれど、同時に怖くて仕方なかった。既に、彼女からは別れを告げられているのだ。彼女を見舞うことは許されたものの、もう、これが彼女と話せる最後の機会になるのかもしれないと思うと、緊張と不安で身体が震えた。
セレスティーヌの部屋に足を踏み入れた時の俺は、相当にぎこちなかったことだろう。青い顔で、彼女の表情を探るようにして近付いた俺に向かって彼女から放たれたのは、予想外の言葉だった。
見知らぬ他人を見るような目で俺を見るセレスティーヌに、俺は何と言ってよいのかわからなかったが、彼女が俺に別れを告げた記憶も失くしていたことに、首の皮一枚だけ繋がったような気がしていた。けれど、彼女から婚約解消を提案されて、すぐに俺の背筋は凍り付いた。
その時に彼女に紡がれた言葉は、まるで事故の前に彼女が飲み込んだ言葉のようで。俺は答えることもできずに、ただ彼女の言葉に耳を傾けることしかできなかった。
その後、またセレスティーヌが俺に笑顔を見せてくれるようになり、婚約指輪まで受け取ってくれたことが、俺には奇跡のように思えていた。ただ、俺があれほど傷付けてしまった彼女が、抜け落ちていた記憶を取り戻したその時に、俺といることを選んでくれるのかはわからなかった。
彼女が記憶を取り戻す前に、話しておくべきだったのかもしれない。けれど、遠からず話そうと思いながらも、あの時の彼女の表情がつい思い浮かんでしまい、その勇気が出ないままになってしまった。
意識を失って身体をベッドに横たえているセレスティーヌを、俺は祈るような気持ちで見つめていた。