婚約解消をお願いしましたが
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ジゼルは信じられないと言った様子で、青い顔でセレスティーヌの側に駆け寄った。
「お気を確かにしてください、お嬢様。お嬢様は、あれほどレナート様を一途に想っていらしたではありませんか」
フレッドも、焦った様子でジゼルの言葉に頷いた。
「ジゼルの言う通りだよ、セレス。君は家でも、いつも嬉しそうにレナート様の話をしていたじゃないか。君のたっての願いで、レナート様に婚約していただいたことまで忘れてしまったのかい?」
セレスティーヌのことを、マリアも涙目で心配そうに見つめていた。
「レナート様のことを長い間慕い続けて、ようやく婚約の承諾をもらったことまで思い出せないなんて。余程打ちどころが悪かったのかしら……」
(ああ、やっぱりそうだったのね)
婚約者であるはずのレナートとの間に感じた温度差から、セレスティーヌは薄々そんな気がしていた。その感覚が当たっていた恥ずかしさに頬に血を上らせながら、彼女は再びレナートを見つめた。
「その濃紺の魔術師団のローブ……レナート様は、非常に優れた魔術師様でいらっしゃるのですね。私など、とてもレナート様には釣り合いませんわ。それに、レナート様のことが思い出せずにいる私に、貴方様の婚約者でいる資格はありません。……貴方様のことも、今まで私が一方的にお慕いしていたのですよね?」
セレスティーヌ自身、過去の自分がいかにレナートを想っていたとしても、釣り合わない相手に縋るような形での、愛のない結婚などしたくはなかった。自分が彼のことを思い出せずにいる今が、婚約解消を願い出るちょうどよい機会のようにも思えていた。
「……」
少し俯いたレナートの沈黙を肯定と受け取ったセレスティーヌは、そのまま続けた。
「失礼かもしれませんが、私たちが心を通い合わせている婚約者同士だったようには思えないのです」
セレスティーヌの目の前で、レナートは無言でただ彼女の言葉に耳を傾けていた。セレスティーヌには、俯いたままの彼の表情を読むことはできなかった。
「……きっと、レナート様は以前の私の気持ちを慮ってくださったのでしょう。レナート様にご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ございませんでした」
セレスティーヌは深々とレナートに頭を下げてから、今度は自然な笑みを浮かべた。
「私の想いを汲んで婚約までしてくださったこと、心から感謝いたします。けれど、今日を限りに、私のことは忘れてくださって構いません」
まるで用意をしていたかのようにすらすらと言葉が溢れ出してくることに、セレスティーヌは自分でも驚いていた。もう一言、何かをレナートに伝えたいような気がしてセレスティーヌは口を開きかけたけれど、そんな彼女をレナートが遮った。
「待ってくれ、セレスティーヌ」
この婚約解消の申し出を、きっと彼はすぐに受けてくれるのだろうとセレスティーヌは想像していた。しかし、その予想を裏切って、意外にも、レナートは呻くように苦しげに呟いた。レナートがようやく上げた、これまではほとんど能面のようだった美しい顔には、今は明らかな動揺が走っていた。
「君のことを迷惑だなんて感じたことは、今までにただの一度もない。……もう君には、俺に対する気持ちは少しも残っていないのか?」
「残っていない、というよりは、思い出せないという方が正確ですけれど。……でも、貴方様のことはこのまま思い出さずにいる方が、お互いにとってよいような気がするのです」
彼を前にしているうちに、なぜか正体のわからない不安がセレスティーヌの胸の中で首をもたげ始めていた。セレスティーヌには、それが何かを知りたいとは思えなかった。
顔色を失ったレナートの喉仏がごくりと動き、その顔が痛みを帯びて歪められた。
「セレスティーヌ……」
セレスティーヌは、明らかにレナートに対して知らない誰かを見るような瞳を向けていた。フレッドは、困ったように目の前の二人を順番に見つめた。
「申し訳ありません、レナート様。せっかくここまでご足労いただいたのに恐縮ですが、また日を改めさせていただいても? ……セレス、まだ君には事故の影響も残っているのだろう。それに、これほどに君の人生を左右する重要な決断を、こんな時に焦ってすべきではないよ。まずは落ち着いた方がいい」
「お父様、私は十分に落ち着いておりますわ」
父に言葉を返したセレスティーヌに向かって、レナートは失望の色を浮かべながらも、はっきりとした口調で言い切った。
「俺は、君との婚約を解消する気はない」
「どうして、ですか?」
「俺には、君が必要なんだ。どうしても、君の心を取り戻したい」
(……この方、なぜこのようなことを仰るのかしら? 私に想いを寄せてくださっていたようにはとても見えなかったのに、私が婚約解消を打診した途端、こんなに必死に婚約解消を否定なさるなんて)
レナートの言動が矛盾に満ちているように思えて、セレスティーヌは思わず眉を寄せた。もうこれきりで、という言葉が喉元まで出掛かっていたけれど、彼女を見舞いに来てくれた彼に対してさすがに失礼が過ぎるように思えて、セレスティーヌはその言葉を飲み込んだ。見兼ねたように、フレッドが二人の間に割って入った。
「レナート様、娘にもったいないようなお言葉をありがとうございます。娘の記憶が戻りましたら、すぐにご連絡します。……セレス、君には十分な休息が必要だ。目覚めたばかりの時に、すまなかったね」
最後にセレスティーヌを振り返ったレナートが、傷付いたような表情をしていたことに多少胸は痛んだものの、彼女は彼に軽い会釈をしただけで、そっと彼から目を逸らした。