朝陽を浴びながら
レナートは虚を突かれたように口を噤むと、微かに顔を歪めながら口を開いた。
「嘘が嫌いな君には、正直に言うが。きっと君が記憶を失くす原因になったのだろうと、思い当たることはある。君があの馬車の事故に遭う直前のことだった」
レナートは苦しげに息を吐いてから続けた。
「誓って君を傷付けるつもりはなかったのだが、結果として、俺は君を傷付けてしまった。あの時の君の表情が、今でも目に焼き付いているよ。……俺の存在自体を記憶から消してしまいたくなるほどの傷を、俺は君に与えてしまったのだろう」
レナートに問い掛けるように彼の顔を見上げたセレスティーヌに、彼自身が傷付いたような顔をして口を開いた。
「セレス、俺はどうしても君を失いたくないんだ。今君にその話をして、君を失わずにいられる自信がない。いずれ君に伝えるから、もう少しだけ俺に時間をくれないか」
セレスティーヌは、瞳を揺らすレナートの言葉にこくりと頷いた。セレスティーヌの身体に回されたレナートの腕が、彼女をさらにきつく抱き締める。その腕に込められた力の強さに、彼女を失いたくないと言ったレナートの気持ちが表れているように思いながら、セレスティーヌは無言のままレナートの腕に身を預けていた。
(レナート様がこんな風に仰るなんて。いったい、何があったのかしら)
事故の前後の記憶はまだら模様のように曖昧で、当時のことを思い出そうとしても、セレスティーヌの記憶には所々ぽっかりと抜け落ちているところがあり、それらはまるで思い出すことができなかった。
(あら、レナート様……?)
セレスティーヌは、レナートの身体が僅かに震えていることに気付くと、彼の身体をそっと抱き締め返した。レナートの身体の震えが、驚いたように止まった。
「……セレス?」
セレスティーヌは慈しむようにレナートに向かって微笑んだ。
「そんなお顔をなさらないでください、レナート様。あの事故の前に何があったのか、今の私にはわかりませんけれど。でも、少なくとも今ここにいる私が、レナート様と一緒にいたいと思っていることは確かですから」
「ありがとう。……君は本当に優しいな」
セレスティーヌを見つめたレナートの顔は、いつもの通りそれほど表情は動いてはいなかったけれど、セレスティーヌには、彼が泣きそうな表情をしているように思えた。
窓の外からは、変わらずに強い雨音が響いていた。時折雷鳴も轟く中で、レナートの腕の中にいるセレスティーヌは、甘い感情に胸が疼くのと同時に、ここにいれば大丈夫だと思えるような不思議な安心感もあった。
温かなレナートの体温と、規則正しく聞こえてくる彼の心臓の音に誘われるようにして、いつしかセレスティーヌはうとうとと眠りの中へと落ちていった。
***
(ん……?)
翌朝セレスティーヌが目を覚ますと、深く澄んだ碧眼に優しい色を浮かべたレナートの瞳と目が合った。
(……!!?)
自分のいる場所が一瞬思い出せずに、驚きと戸惑いと羞恥に頬を染めて目を見開いたセレスティーヌに向かって、レナートが穏やかに話し掛けた。
「おはよう、セレス。よく眠れたかい?」
「……はい、レナート様」
寝起きでぼんやりとしていた頭が次第にはっきりとしてくると、セレスティーヌは、間近から彼女を覗き込むレナートの美しい顔に、さらに頬を赤らめた。
(そう言えば、昨日はあのままレナート様の腕の中で眠ってしまったのね……)
窓の外には雲一つなく晴れた空が広がり、明るい朝陽が部屋の中に差し込んでいた。
ずっとセレスティーヌに腕を回していた様子だったレナートは、眩しそうにセレスティーヌを見つめた。
「そうか、それならよかったよ」
「あの、レナート様はちゃんと眠れましたか?」
「ああ、問題はない。それに、君の可愛い寝顔を見ることができたのだから、それだけでも十分だ」
「……! 私、お見苦しいところをお見せしてしまって……」
耳まで真っ赤に染まったセレスティーヌがレナートの顔を見上げると、彼はその言葉の通り、微かに口角を上げていた。
「俺の腕の中ですやすやと安らかに眠る君を見て、俺がどれだけ幸せだったか。……愛しているよ、セレス」
セレスティーヌの頬に、レナートは優しく唇を落とした。息が止まりそうなほど、セレスティーヌの胸は大きく跳ねた。
(レナート様、初めて、私のことを愛していると言ってくださったわ)
レナートは、軽く彼女を抱き締めてから立ち上がると、目を細めて窓の外を見つめた。
「すっかり快晴になったな」
「ええ。昨日の大雨が嘘のようですね」
「これで問題なく帰れそうだな。……俺が誘ったせいで、君を色々と巻き込んでしまってすまなかったが、君と一緒に過ごせて嬉しかった。ありがとう、セレス」
「こちらこそ、ありがとうございました。レナート様」
朝陽に照らされた神々しいほど美麗なレナートの姿に、改めてほうっと感嘆の息を吐きながら、セレスティーヌはレナートににっこりと笑った。
帰りの馬車の中で、レナートはセレスティーヌに向かって徐に口を開いた。
「明日からは、第二魔術師団で魔物討伐の遠征に出掛けることになっている。しばらくは、仕事帰りに君を迎えに行けなくなるが……」
セレスティーヌは、寂しげに少し眉を下げた。
「そうなのですね。……どうか、ご無事で戻っていらしてください」
「ああ、ありがとう」
レナートの手が伸び、セレスティーヌの手に重なると、その指が柔らかく絡められた。セレスティーヌはまたも鼓動が高鳴るのを感じながら、そっと彼の肩に身体を預けた。
セレスティーヌの家の前まで着くと、レナートは馬車から降りる前に彼女の顔をじっと見つめ、再びその頬に優しく口付けた。
「また、遠征から帰ったら君を誘うよ」
「ありがとうございます。レナート様とまたご一緒させていただけるのを、楽しみにしています」
彼の指が解かれるのをどこか寂しく感じながら、セレスティーヌはレナートに微笑み掛けた。レナートは、セレスティーヌの帰りが日をまたいだことを彼女の両親に詫びて深々と頭を下げてから、彼女の家を後にした。
***
(もう私、すっかりレナート様に心惹かれているみたいね……)
自室に戻ったセレスティーヌは、レナートと過ごした時間を思い返しながら、甘く高鳴る胸を抑えて小さく息を吐いた。レナートの言葉や、彼の僅かな表情の動き、そして彼の唇の感触を思い出す度に跳ねる胸に、セレスティーヌはレナートへの想いを自覚していた。
(でも、明日から遠征だったなんて。昨夜も、レナート様はあまり眠ってはいらっしゃらないようだったし、回復魔法を掛けて差し上げた方がよかったかしら? そうだ、回復薬を作って差し上げたらいいかもしれないわ……)
ふと思い立ったセレスティーヌは、部屋の中に回復薬の材料を探した。幸運にも、回復薬の原料になる聖水と、回復薬を入れるのに都合のよい小型の瓶が幾つか、彼女の部屋の戸棚の中にちょうど見付かった。
回復薬を作るには、人に対して通常の回復魔法を掛けるよりも、聖水に魔法を込める分だけ余分に魔力を消耗する。回復職の魔術師は少ない上に、回復薬の作成には多くの魔力を要することから、回復薬は貴重で、市場では高値で取引されているほどだ。けれど、レナートの姿を頭に思い浮かべたセレスティーヌには、回復薬を作ることに躊躇いはなかった。
「少しでもいいから、レナート様のお役に立ちたいわ」
セレスティーヌは聖水を小瓶に移すと、意識を瓶の中に集中させて、聖水に対して回復魔法を唱えた。瓶の中の聖水が、次第に仄かな虹色を帯びて輝き始める。
(前よりも強くなった魔力を、上手く込めることができていたらよいのだけれど)
安定して強い魔力を込めた回復魔法を聖水に込められないと、虹の七色のどれかに寄った回復薬が出来上がる。それでも効力はあるものの、光の加減で初めて虹色の輝きを帯びる無色透明の回復薬が、最も回復力が高いのだ。
セレスティーヌは肩で息を吐きながらも、小瓶の中で完成した、時折虹色に輝く無色透明の回復薬を見つめて、嬉しそうに微笑んだ。