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花畑の中で

 馬車が山道を下り始め、窓から見える光景が、立ち並ぶ樹々からなだらかな丘陵へと開けてきた。そのまましばらく進んだ馬車は、ごとごとと音を立てて止まった。


「着いたようだな」


 レナートに差し出された手を借りて馬車を降りたセレスティーヌは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。


「うわあっ……!」


 セレスティーヌの目の前には、淡い色合いで埋め尽くされた一面の美しい花畑が広がっていた。爽やかに吹き抜けていく風が、花々の香りを運んでくる。胸いっぱいに息を吸い込んだセレスティーヌは、瞳を輝かせてレナートを見上げた。


「凄く綺麗ですね。こんな場所があったなんて、知りませんでした」


 この世のものではないような、見渡す限りに広がる可憐な花々に、セレスティーヌはうっとりと目を細めた。


「気に入ってもらえて、よかったよ」


 頬を上気させているセレスティーヌの姿に、レナートの口角が微かに上がる。セレスティーヌは、温かな黄色の花を見付けてその側に近付くと、そっと顔を寄せた。


「いい香り。レナート様が先日、私の見舞いにと贈ってくださった花も、フリージアでしたね」

「初めて君とこの場所に来た時、君はフリージアの香りが好きだと、そう言っていたから」


 レナートもフリージアを見つめるセレスティーヌの隣に並ぶと、彼女の手を優しく取った。レナートの滑らかな大きな手に引かれて、セレスティーヌは花の中を分け入るように進みながら、ほうっと感嘆の溜息を吐いた。


「こんなに美しい場所があるなんて……何だか夢を見ているみたいです」


 咲き乱れる花々に見惚れていたセレスティーヌに、レナートが口を開いた。


「俺にとっては、君の方がずっと美しいよ。今日の君も、とても綺麗だ」


 レナートに真っ直ぐに見つめられて、セレスティーヌの頬はかあっと染まった。


「レナート様の方が、私などよりも余程お美しいと思いますが……」


 レナートは微かに顔を顰めた。


「俺は自分の顔が嫌いだ。特にこの目が。俺が、両親のどちらにも似ないこんな瞳の色に生まれていなかったなら、両親の仲を裂くこともなかったのかもしれない」


 セレスティーヌは、ジゼルに聞いた話を思い返しながらレナートを見上げると、じっとその深い青色の瞳を覗き込んだ。


「私は好きです、レナート様の瞳。吸い込まれそうな美しい青色で、いつまで見ていても飽きませんから」


 そう言ってしまってから、セレスティーヌはさらにその頬を赤らめたけれど、レナートは少し目を瞠ると、彼女と繋いだ手に力を込めた。


「セレスにそう言ってもらえたら、俺も少しはこの目を好きになれるかもしれないな」


 二人はしばらくそのまま花畑の先へと進んで行った。手を繋いだ二人は、思いのままに美しい花々を楽しみながらゆっくりと散策を楽しんだ。レナートと何も話さなくても、セレスティーヌはその沈黙も含めて心地良かった。


 花畑の奥まで二人が分け入った時、虹色に輝く珍しい蝶が群れている様子に気付いたセレスティーヌが興奮気味に声を上げた。


「レナート様、あれを見てください」


 レナートの手を離して、軽い足取りで蝶を追って行ったセレスティーヌの後ろ姿に向かって、上空から差した影に気付いたレナートは慌てて叫んだ。


「待て、セレス!」


 振り返ったセレスティーヌの視界に、小型のワイバーンの姿が映った。


「あっ……」


 思いがけず目にした魔物の姿に、みるみるうちにセレスティーヌの顔が青ざめた。蝙蝠状の翼を羽ばたき、ドラゴンの頭に獰猛な瞳を光らせたワイバーンが、口からちらちらと炎を吹きながら自分を目掛けて急降下して来る様子に、セレスティーヌは恐怖に足を竦めて立ち止まった。

 セレスティーヌが、彼女に向かって鋭い牙のある口を開いたワイバーンを凍り付いたように見上げた時、空中でワイバーンの身体を氷の刃が鋭く貫いた。


「……!」


 牙のある口を開いたままで、ワイバーンは花畑の中にどさりと落ちて絶命していた。小さく震えるセレスティーヌの身体を、駆けて来たレナートが抱き締めた。


「大丈夫か、セレス? 怪我はないか?」

「……はい。大丈夫です」

「こんな場所にまで、魔物が出るようになっていたとはな」


 レナートは顔を顰めて絶命したワイバーンを見つめると、まだ震えの止まらないセレスティーヌの身体に回した腕にぎゅっと力を込めた。


「怖かっただろう、すまなかったな」


 セレスティーヌも、恐怖から覚めやらぬまま、思わずレナートの身体に抱き着き返していた。

 レナートは、まだ顔色の優れないセレスティーヌの身体を、そっと横抱きに抱き上げた。


「……あの、レナート様?」


 驚いてレナートを見上げ、震える声で囁くように言ったセレスティーヌに向かって、レナートが労わるように口を開いた。


「まだ震えているだろう。俺が馬車まで君を運ぶよ」


 レナートの腕の中にふわりと抱き上げられて、セレスティーヌは彼の美麗な顔を至近距離からぼんやりと見つめていた。鼓動が信じられないほどに高鳴るのを覚えながら、セレスティーヌは胸がじわりと熱を持つのを感じていた。


 レナートが僅かに眉を寄せた。


「ここに君を誘ったせいで、かえってこんな思いをさせてしまって悪かった」

「いえ、そんなことは」


 セレスティーヌは首を横に振った。


「助けてくださって、ありがとうございました。……レナート様、とても格好良かったです」


 レナートは驚いたようにセレスティーヌを見つめると、その頬を薄らと染めた。


(彼の氷魔法の一撃で、あのワイバーンですらほんの一瞬だったわ)


 小型だったとはいえ、強力な魔物に分類されるワイバーンを瞬く間に討ち取ったレナートの氷魔法は、とても鮮やかだった。尊敬を込めた眼差しでレナートを見つめたセレスティーヌは、恥ずかしげに口を開いた。


「あの、でも、もう歩けますから、下ろしてくださって大丈夫です」

「……いや、俺がまだこうしていたいんだ」


 はにかむように、セレスティーヌからふいっと視線を逸らしたレナートは、彼女を抱き上げたまま馬車に向かって歩いていた。一見細身であるように見えて、レナートの腕は力強く、そして温かかった。セレスティーヌは、まるで過去の自分がレナートのことを好きになった過程を追体験しているような気がしていた。


(私、記憶がない間も、この方のこと、きっと凄く好きだったのでしょうね)


 目を瞠るような氷魔法で窮地を救ってくれたことも、懸命に彼女を喜ばせようとしてくれるところも、辛い過去を抱えて少し不器用であることでさえ、セレスティーヌにはレナートのどこもが愛おしく感じられ始めていた。


 その時、次第に落ち始めていた陽が橙色に照らしていた空が急激に翳り始めた。黒々とした雲に突如として覆われた空を見上げて、レナートとセレスティーヌは目を見合わせた。


「これは、一雨来るかもしれないな」


 程なくして、ぽつり、ぽつりと大粒の雨が降り始め、レナートは駆け足で、腕の中のセレスティーヌを雨から身体で庇うようにしながら、馬車へと急いだ。

 結局、レナートの腕に抱き上げられたまま馬車まで戻り、彼と一緒に馬車に乗り込んだセレスティーヌは、申し訳なさそうに彼を見上げた。


「すっかりレナート様に甘えてしまって、すみませんでした」

「俺こそ、君に怖い思いをさせてしまって」

「いえ。レナート様と美しい景色を一緒に見ることができて、とても楽しかったです」


 しっとりと髪が雨に濡れたレナートの姿にはそこはかとない色気が漂っていて、セレスティーヌは戸惑ったように頬を染めていた。

 セレスティーヌをじっと見つめてから、レナートは微かにその口角を上げた。


「俺も、君と過ごせて楽しかったよ。だが、今度は酷い雨に当たってしまったな……」


 馬車の外では、激しい雨が地面を叩き付けるように降っていた。強い雨音に耳を澄ませながら、レナートは少し眉を寄せた。


「街に戻るには馬車で山道を通らなければならないが、この雨だと危険だろうな。雨の勢いが弱まるまで、しばらくやり過ごした方がよさそうだ。この近くに山小屋があるから、いったんそこに向かおう」

「はい」


 レナートは御者に指示を出すと、ポケットからセレスティーヌに贈られたハンカチを取り出し、彼女の濡れた髪や肩を拭った。


「濡れてしまったが、寒くはないか?」

「ええ、私は大丈夫です。でも、レナート様こそ私を庇ってくださったせいで、すっかり濡れてしまいましたね……」


(初めてこのハンカチを使ってくださったのが、私のためだなんて。何だか、レナート様らしいわ)


 セレスティーヌも手持ちのハンカチでレナートの髪や服をそっと拭いながら、ふわりと穏やかな笑みを浮かべていた。

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