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縮まる距離

 約束通り翌日の昼下がりに、レナートを乗せた馬車がセレスティーヌを迎えに屋敷の前で止まった。

 ジゼルがうきうきとした様子で、今しがた化粧を施したばかりのセレスティーヌの顔を見つめて嬉しそうに笑った。


「とてもお美しくていらっしゃいますよ、お嬢様! レナート様も、きっと喜んでくださるでしょう」

「そうかしら。少し恥ずかしいのだけれど……」


 ジゼルに勧められるがままに、柔らかな銀色の光沢を帯びたシルクの丈の長いワンピースを身に纏い、しっかりと化粧も施されたセレスティーヌはとても美しかった。流れるような蜂蜜色の髪には、前日にレナートから贈られたばかりの星の意匠の髪飾りが輝いている。

 レナートとの外出に向けて気合いの入ったジゼルに、いかにもといった様子でめかしつけられたセレスティーヌは微かに苦笑してから、手の中にある綺麗なラッピングを施した包みを見つめた。


(少しでも、昨日のお返しができたらいいのだけれど)


 その日の午前に、セレスティーヌはレナートのために菓子を焼いていた。甘いものが苦手そうだった彼のために、甘さを抑えたチーズ味のサブレを焼いたのだった。

 玄関先に出て行ったセレスティーヌの前に現れたレナートは、彼女を見てどことなく緊張している様子だった。


「レナート様、迎えに来てくださってありがとうございます」

「ああ、では行こうか」


 レナートに手を取られて、両親とジゼルに見送られながら馬車へと乗り込んだセレスティーヌは、いつも以上にどこか固い顔をしていたレナートに、手にしていた包みを手渡した。


「あの、これは気持ちばかりなのですが。よかったら、召し上がっていただけたら嬉しいです」

「これは?」

「チーズ味のサブレです。レナート様は甘いものがあまりお得意ではなさそうでしたので、甘さは控えめにして作りました。昨日のお礼とまではいきませんが、お口に合うとよいのですが……」

「ありがとう」


 レナートはセレスティーヌから包みを受け取ると、どこかほっとした様子で小さく息を吐いた。


「こんな菓子まで俺に焼いてくれたなんて、嬉しいよ。……君に嫌われたらどうしようかと思っていた」

「私に?」


 瞳を瞬いたセレスティーヌから、レナートはふっと視線を逸らした。


「昨日は帰り際、驚かせてしまってすまなかった」


 レナートから頬にそっとキスを落とされ、初めて愛称のセレスで呼ばれたことを思い出し、セレスティーヌの頬はふわりと染まった。


「いえ、その……大丈夫です」

「これから、君をセレスと呼んでも?」

「はい」


 明るく笑ったセレスティーヌを見つめて、レナートの表情も穏やかに緩んだ。彼は受け取ったばかりの菓子の入った包みを見ながら、ぽつりと呟いた。


「……食べてしまうのが惜しいな」

「えっ?」


 レナートの言葉にきょとんとしたセレスティーヌは、それから小さく吹き出した。


「ふ、ふふ。サブレくらいでそんなことを仰らないでください。またいくらでも焼いて差し上げますから」


 レナートは徐にセレスティーヌを見つめた。


「幼い頃から、俺には菓子を焼いてくれる人なんていなかった。その上に、大切な君が俺にと作ってくれたのだから、俺にとっては特別なんだ」


 はっとして、セレスティーヌはレナートを見つめ返した。レナートは、手の中の菓子の包みに再度視線を落としていた。


「俺にとっては、ないことが昔から当然だった。温かな愛情が込められた料理も、家族の笑顔も。……別に、慣れてしまえばどうということもないんだが、逆にそれに慣れてしまったせいで、それをいざ手にした時に、どうしたらいいかわからなくなることがある」

「……」


 セレスティーヌは、返す言葉が思い浮かばないままに、胸が痛むのを感じていた。幼少期から家族にたっぷりの愛情を注がれて育ってきたセレスティーヌには、覚えたことのない感覚だった。


「いつかまた、何もない状態に戻るような気がして、手にしたものを失うことが不安になるんだ。幸せを感じれば感じるほど、それがいつか手の指の間から零れ落ちてしまう日が来るのが怖くなる。だからせめて、今ここで形のあるものだけでも、このまま取っておきたいような気持ちになってしまってね」


(レナート様は一見、こんなに完璧で、全てを兼ね備えているように見えるのに)


 セレスティーヌは、誰もが羨むような容姿と、ずば抜けた魔法の腕前を持つレナートの胸にぽっかりと空いた穴を見たような気がしていた。レナートの姿に、所在なさげに小さく蹲る幼い日の彼が重なって見えたような気がして、セレスティーヌは幼かった頃の彼をぎゅっと抱き締めたいような切ない気持ちに駆られていた。


「すまない、つまらない話をしたね」


 レナートに向かって、セレスティーヌは首を横に振った。


「いえ、そんなことはありません。……以前にも、レナート様は私にそのようなお話をしてくださっていたのでしょうか?」

「いや、これが初めてだ。きっと、弱い部分を君に見せたくなかったのだろうな。今はつい、思うままに話してしまったが」

「そうでしたか。私は、レナート様が考えていることを教えていただける方が嬉しいです」


 セレスティーヌはふと気になって彼に尋ねた。


「気持ちばかりのお菓子でも、そのように喜んでいただけるなんて。以前の私は、レナート様に何かを贈ることは少なかったのでしょうか」

「いや。例えば……」


 レナートは、服のポケットから一枚の白いハンカチを取り出した。そこには、青と銀の糸で、氷魔法を司ると言われている女神の翼が美しく縫い取られていた。

 真っ白のまま使われた形跡がないそのハンカチを、レナートは大切そうに眺めた。


「君が刺繍してくれたハンカチだ。汚してしまいたくはなくて、お守り代わりに持ち歩いていた」

「そう、だったのですね」


(レナート様がそのように思ってくださっていたことを、過去の私が知らなかったなら。すれ違っていたことも、何となく想像がつくわ……)


 ハンカチ一枚にしても、彼の気持ちを知らなかった過去の自分からすれば、贈ったハンカチを使ってもらえない寂しさをどことなく感じていたのではないかと、セレスティーヌはそんな気がした。

 レナートは、微かに口元を歪めた。


「……それでも結局、俺は君を失いそうになって、慌てて君に縋ったのだから。君がくれたものはどれも宝物だが、やはり君が側にいてくれないと俺は駄目みたいだ」

「レナート様……」


 セレスティーヌは、美しい碧眼に、まるで捨てられた子犬のような色を浮かべているレナートの肩に、そっと自分の身体を凭せかけた。レナートの身体が驚いたようにぴくりと動く。


「そんなことをレナート様が考えてくださっていたなんて、思いもよりませんでした。きっと、過去の私も知らなかったのでしょう。これからも、レナート様が思っていることを私に教えてくださいね? 口に出さないと、わからないこともありますから」

「ああ、わかった」


 セレスティーヌに間近から見上げられて、レナートの頬にはほんのりと血が上っていた。レナートがセレスティーヌの髪を彩る髪飾りに気付いた様子で口を開いた。


「それは、昨日の……」

「はい。美しい髪飾りを、ありがとうございます」

「よく似合っているよ。そうして使ってもらえると、嬉しいものだな」


 少し目を細めたレナートに、セレスティーヌは微笑んだ。


「私も、レナート様に、私が刺繍をしたというそのハンカチも使っていただけたら嬉しいのですが。もし汚れたら、また作るとお約束しますので」

「わかったよ。優しいな、君は」


(少し不器用なところがあるのかもしれないけれど、レナート様こそ、優しくて繊細な方なのね)


 彼に手を重ねられて、その掌の温かさを感じながら、彼の胸の内の思いを知って、セレスティーヌの胸もほんのりと温まっていた。

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