仕事帰りの寄り道
「お疲れー、セレス。……今日も、レナート様が迎えに来てるみたいね?」
一日の仕事を終えて、セレスティーヌと合流して魔術師団の拠点を一緒に出ようとしていたエマは、出入口を潜ったところにレナートの姿があるのを目敏く見付けると、その瞳を輝かせた。セレスティーヌはエマの言葉に頷いた。
「ええ、わざわざ来てくださったみたいね」
「……あなたが婚約者であるレナート様の記憶を失くしているという噂が漂って、にわかに活気付いていた人たちもいたんだけど。――レナート様のあれは、明らかに牽制よね。セレスにおかしな虫が付かないようにって」
セレスティーヌは、小さく首を傾げた。
「そうなのかしら? 私には、よくわからないわ」
「私は間違いなくそうだと思うけど。でもよかったじゃない、セレス。最近大切にされているみたいで、ほっとしたわ。……今夜は星祭りの日だけれど、セレスはレナート様と一緒に行くの?」
「ううん、特に予定はしていないわ。明日は彼と一緒に出掛ける予定があるのだけれど、今、エマに言われて初めて、今日が星祭りの日だって気が付いたもの」
星祭りとは、年に一度、春先の新月の晩にこの国で行われる祭りだ。夜空に輝く星々が人々に祝福を降らせたという、古い伝説に基づくものだった。街灯の並ぶ町から少し離れた、夜空のよく見える湖畔には様々な露店が立ち並び、星空を見上げながら多くの人々が祭りの賑わいを楽しむのだ。
「そうなの、明日が楽しみね! ……星祭りもカップルで行く人が多いから、お勧めではあるんだけどね」
エマはにっこりと笑ってセレスティーヌに手を振った。
「じゃ、また来週ね、セレス! 明日はレナート様との時間を楽しんで来てね」
「ありがとう。エマも、よい週末を」
エマに手を振り返したセレスティーヌは、レナートに近付いて行った。セレスティーヌの姿を認めたレナートは、自然な仕草で彼女の腕を取った。
「行こうか、セレスティーヌ」
「はい、レナート様。今日も、お待たせしてしまってすみません」
まだ完全に慣れたとはいかないまでも、セレスティーヌにとって、レナートと一緒に帰ることは少しずつ習慣として定着してきていた。二人で馬車に乗り込むと、セレスティーヌがレナートに向かって微笑んだ。
「明日は、お誘いくださってありがとうございます」
「ああ。明日は昼過ぎに君の家に迎えに行くよ。……ところで、」
馬車の窓から見える夜空をちらりと見上げてから、レナートがセレスティーヌに尋ねた。
「明日も君の時間をもらってしまうし、もし君がよければだが。今日は年に一度の星祭りの日だ。帰りがけに少し、一緒に祭りに寄って行かないか?」
セレスティーヌはレナートの言葉に頷いた。
「ええ、レナート様のお時間が許すなら」
レナートはセレスティーヌをじっと見つめた。
「君とまた、こうして一緒に思い出を作っていけたらと思っているんだ」
「はい。……ありがとうございます」
馬車に一緒に乗っている今も、レナートの手はセレスティーヌの手にそっと重ねられていた。セレスティーヌは、どことなく寂しげに見えるレナートの横顔を見つめた。
(彼には過去の私の記憶があるのに、私にはそれがない。……彼から見たら、私はどう見えているのかしら)
セレスティーヌは、人から話を聞く限り、過去の自分はレナートのことを相当に慕っていたようだと理解していた。別人のように彼の記憶を失くした自分とまた一から思い出を重ねようと言ってくれるレナートは、きっと優しい人なのだろうと素直に感じられた。
馬車はいつもの帰路から脇道へと入り、しばらくごとごとと揺れてから止まった。セレスティーヌはレナートの手を借りて馬車から降りると、星空を見上げて思わず目を細めた。
「綺麗……」
街灯のないその場所では、夜空に瞬く星々が一際輝いて見えた。夜空を埋め尽くすように、今にも地上にこぼれ落ちて来そうなほどに明るく瞬いている星々に、セレスティーヌは感嘆の息を吐いていた。
「美しい星空ですね、レナート様」
セレスティーヌが星空からレナートに視線を移すと、レナートが彼女を見つめる瞳と目が合った。
「ああ、そうだな。では、行こうか」
(レナート様、星空ではなく私のことを見ていたような。気のせいかしら……?)
頬をほんのりと染めたセレスティーヌは、レナートと並んで歩き出した。露店が並ぶ広場に辿り着くと、人混みでごった返す中、レナートがセレスティーヌを振り返るとその手をぎゅっと握った。
「混み合っているが、平気かい?」
「はい、大丈夫です」
レナートは、セレスティーヌと過ごす時には手袋を外すようになっていた。彼の滑らかな掌の感触に次第に慣れて来たことに、セレスティーヌは自分でも驚いていた。
多くの人々で賑わう露店からは、食欲をくすぐるようなよい匂いが漂っている。
「せっかくだから、何か一緒に食べて行こうか。……何か、食べたいものはあるかい?」
「いえ、特には。レナート様は、召し上がりたいものはありますか?」
「そうだな……。では、適当に見繕うよ」
レナートは、幾つかの露店に立ち寄ってから、手にいくつかの袋と飲み物を持ってセレスティーヌに話し掛けた。
「手が埋まっているから、はぐれないように俺の腕に掴まっていてくれ」
「でも……」
レナートが買ったものを運ぶのを手伝おうとしたセレスティーヌだったけれど、彼は首を横に振った。
「いや、女性である君に荷物を持たせたくはない。……少し、場所を移動しようか。あの湖のほとりの方が、人も少ないし落ち着いて星空が見られるはずだ」
レナートの腕にそっと掴まるようにしてセレスティーヌが歩いていると、すれ違う人々がちらちらとレナートを振り返る視線に気付いた。今もいつも通りの無表情だったレナートだったけれど、露店から漏れる明かりの中で見るだけでも、まるで彫刻のように整った彼の美しさは際立っていた。
(やっぱり、レナート様は目立つのね……)
美麗な彼の姿に目を瞠り、思わず見惚れて息を吐く人々の中を通り過ぎながら、セレスティーヌは、自分が彼の隣にいることが不思議に思えた。
露店の灯りが仄かに届く程度の薄暗い湖のほとりで、二人は草むらの上に直接腰を下ろした。満天の星空の下で、セレスティーヌはレナートを見つめてにっこりと笑った。
「星祭りに誘ってくださって、ありがとうございました。こんなに綺麗な星空が見られるなんて」
頭上を見上げてうっとりと目を細めるセレスティーヌに、レナートはほんの僅かに口角を上げた。
「そうか。……一年ぶりにまた君とここに来られて、よかったよ」
ふっと遠い目をしたレナートの言葉に、セレスティーヌはその瞳を瞬いた。
「あの、昨年も、私はレナート様とこの星祭りに来ていたのでしょうか?」
「ああ、そうだよ。君は覚えてはいないだろうが……」
二人の間に沈黙が落ちた。セレスティーヌは申し訳なさそうにレナートを見上げた。
「……すみません。まだ、思い出せていなくて」
「いや、いいんだ。君は何も悪くない」
レナートはそう言うと、徐に手にしていた飲み物のカップをセレスティーヌに手渡した。
「君が去年、美味しいと言っていたものだ。異国の果物をすり潰した飲み物らしい。……色は少し変わっているが、君は気に入っていたようだった」
セレスティーヌがレナートから受け取ったカップを覗き込むと、そこには薄明りの中でも見て取れるほどに鮮やかな青色をした、どろりとした不思議な液体が入っていた。
「ありがとうございます。……いただきます」
慣れない見た目に戸惑いつつも、セレスティーヌはカップの中身をこくりと飲んだ。みるみるうちに、セレスティーヌの瞳が見開かれる。
「わあっ、これ、とっても美味しいです。見た目からすると意外なくらいに、爽やかな香りで、甘みも程よくて」
にこにこと笑うセレスティーヌに、レナートはその瞳を細めた。
「それはよかったよ。……去年も、君はそう言って喜んでいた。俺も少しもらっても?」
「ええ」
レナートはカップを受け取ると、セレスティーヌが唇を付けていたのと同じところに躊躇なく口を付けた。
(あっ……!)
この国では普通、夫婦や婚約者同士といった仲でなければ、男女が同じカップから飲み物を共有することはない。レナートにカップを渡してからふとそれに思い至ったセレスティーヌは、頬にかあっと血が上るのを感じていた。