温かな力
実技試験は、試験官の前での魔法の技の実演に加え、受験者同士の対戦など多岐に渡り、体力も消耗する。そのため、受験者は通常、回復薬を持参し、実技試験の合間の休憩時間に体力を回復させる。実技場の外であれば、回復薬等による体力の回復は自由に認められているからだ。
けれど、俺には高価な回復薬を準備するだけの金銭的な余裕はなかった。二年間の魔法の研究により支払われる対価は、学校生活のため貸与された金銭を返済してしまえば、手元にはほとんど残らなかったからだ。それでも何とかなるだろうと高を括っていたが、これが仇となった。その年から導入された複数人の対戦の実技で、俺だけが集中的に狙われたために、予想以上に体力を消耗してしまったのだ。
最後の実技試験を前にして、まだ魔力は十分に残っているというのに、俺の体力は切れかかっていた。休憩時間を終えて最後の実技場に向かう途中に、俺は眩暈を起こして膝を着いた。
視界が白く霞んでいくのを感じて、俺は自らの浅はかさに唇を噛んでいた。誰かに頼み込んで金を工面してでも、回復薬を用意しておくべきだった。
(くそっ。こんな所で気を失う訳にはいかないのに……)
俺の脇を、何人もの受験生が通り過ぎていくのがわかった。俺は水魔法を扱う第二魔術師団の入団試験を受けていたが、他の魔術師団でもそれぞれ同時に別の実技試験を行っている。ちらちらと俺を振り返る視線を薄らと感じながら、俺は膝を地面に着いたまま、蹲るようにして苦しい息を吐いていた。
その時、俺の横から声が掛けられた。
「大丈夫ですか?」
鈴を振るような声が聞こえ、そっと手に触れられたと思った途端、温かな力が身体を巡り、重苦しかった身体が軽くなるのがわかった。ぼんやりとしていた視界が次第に澄んでいき、俺の側で屈んでいた声の主に焦点が合う。
俺は思わず息を呑んだ。そこには、まるで天使のように美しい少女が、アメジストのように澄んだ紫色の瞳で、俺を心配そうに見つめている姿があったからだ。俺が前髪の間から彼女を見上げると、彼女は俺の回復に気付いた様子で、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった。……試験、頑張ってくださいね」
俺が惚けたように頷くと、蜂蜜色の髪を靡かせた彼女はそのまま立ち去って行った。
彼女はあの時、俺に回復魔法をかけてくれたようだった。彼女のお蔭で、最後の実技試験は難なく乗り切ることができたが、一言礼が言いたくて試験後に彼女の姿を探したものの、結局彼女の姿を見付けることはできなかった。
(彼女は、誰なのだろうか?)
初めて、他人に興味が湧いた。いや、興味が湧いたという以上に、どうしてもまた彼女に会いたいという強い気持ちが、胸の中に湧き上がっていた。
(……しかし、彼女はなぜ俺に回復魔法を?)
試験の日は、薬で回復可能な体力はともあれ、魔力は十分に温存する必要があるというのが常識だ。
最終の実技試験を前にしたあの時、受験生の多くは合否すれすれの魔力量しか残っていなかったはずだ。彼女も、一見したところではあまり顔色が良くない様子だった。あの時、俺を横目で見ながら素通りして行った学生たちのように、試験の合格を第一に考えるのなら、俺のことなど見て見ぬ振りをするのが正解だっただろう。
なのに、あの時会った彼女は、たまたま見掛けただけの弱っていた俺のことを、咄嗟に回復させた。
(彼女は、優し過ぎるのだろうな)
入団試験に際して回復薬すら用意していなかった俺が、人のことをとやかく言える立場にはないが、彼女のあの判断は甘いと言ってもよいようなものだった。恐らく、回復薬を使った他の受験生たちと比べて、俺だけが明らかにぐったりとしている様子を見て、放ってはおけなかったのだろう。
もし彼女が俺のせいで試験に落ちていたらと思うと、居ても立ってもいられなかった。その後、回復職の魔術師が所属する第五魔術師団に彼女の姿があるのを見て、俺がどれほど嬉しかったか。彼女には知る由もなかっただろうが、俺は魔術師団に彼女の姿を認めて、小躍りしそうなほどに胸が跳ねるのを感じていた。
彼女の名前はすぐにわかった。優しく美しい彼女は、魔術師団への入団後、すぐにその名が知れ渡っていたからだ。セレスティーヌという彼女の可愛らしい名前を、俺は心の中で幾度も反芻していた。
いつしか俺は、魔術師団の拠点に戻ると、彼女の姿を目で追うようになっていた。彼女の明るく美しい笑顔を、遠くから眺めることができるだけでも幸せだった。
そして、彼女の主な仕事が、後方部隊としての、魔術師団の拠点での怪我人の治療だったことも俺を安心させた。魔物との激しい戦闘の前線では、ちょっとした判断の誤りが命を落とすことに繋がる。その点、俺が見る限り、彼女は前衛部隊には向いていなかった。以前に俺を助けてくれた時のように、もし危機に瀕した仲間がいれば、彼女は我が身を省みずに救おうとしてしまうに違いなかった。そんなことをしていては、余程の魔力と魔法の技術を有していない限りは、最前線で戦うには命が幾つあっても足りない。
そんなある日、俺の属する第二魔術師団が魔物討伐を終えて拠点に向かおうとしていると、緊急の応援要請が入った。ケルベロスの群れが、魔術師団の拠点を襲って来たのだという。その日も、セレスティーヌを拠点で見掛けてから魔物討伐へと赴いていた俺は、背筋が冷えるのを感じて飛ぶように拠点へと向かった。拠点に戻った俺の目は、彼女の姿だけを探していた。俺がようやく見付けた彼女は、やはり回復魔法を掛けていた怪我人を逃すことを優先して、彼女自身のことは後回しにしていた。彼女を救い出すのが間一髪間に合い、俺はほっと胸を撫で下ろした。
恐怖に身体の震えがまだ残る中で、俺に深々と頭を下げて礼を述べるセレスティーヌは、とても可愛かった。
それをきっかけにして、彼女は俺と目が合う度に微笑み掛けてくれるようになった。