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遠い日の記憶

 セレスティーヌを下ろした後の馬車の中で、レナートはじっと自分の両手を見つめていた。セレスティーヌを抱き締めた時の柔らかく温かな感覚を思い出しながら、レナートは小さく息を吐いた。彼女に対する熱い想いが胸に込み上げるのと同時に、言葉で言い表せないような寂しさも彼の胸を覆っていた。


(もしも、セレスティーヌが俺を愛していてくれた頃に、彼女を同じように抱き締めることができていたのなら。……彼女は、どんな反応をしてくれていたのだろうな)


 頬を染めつつも、喜びではなく驚きを示していたセレスティーヌの表情に、レナートの胸は切なく痛んだ。そして、レナートが、目の前のセレスティーヌが以前の彼女とは明らかに違うと思い知らされたのは、彼女を家まで送った別れ際だった。


「彼女がくれた言葉を、俺は、いつも当然のように受け取って……」


 レナートは、瞳を閉じて座席に背を凭せ掛けた。以前に、セレスティーヌの温かな笑顔と共に紡がれた言葉が胸に蘇る。


『大好きです、レナート様』


 セレスティーヌは、一緒に帰った日の別れ際、決まってレナートにそう言っていた。頬を染めて、嬉しそうに笑う彼女のその言葉に、レナートはいつも癒されていたのだった。習慣のように、彼女のその言葉を待ってしまっていた自分に気付いて、レナートは微かに口元を歪めた。胸の中に、苦々しい思いが込み上げる。


(ずっと愛情に飢えていたことの自覚すらなかった俺に、セレスティーヌは俺への気持ちをあえて口に出し続けてくれていた。惜しみなく、俺に温かな愛情を注いでくれた。それなのに、俺は……)


 レナートはぐっと拳を握り締めると、深い溜息を吐きながら、遠い過去に思いを馳せた。


***


 俺が物心ついてからの最も古い記憶は、俺の手を冷たく振り払う母の姿だ。

 母は憎々しげに俺を睨み付けると、そのまま俺に背を向けて、俺の目の前で部屋の扉を閉めた。

 自分が母に愛されてはいないどころか、酷く疎まれ、憎まれているということは、幼い頃から理解していた。嫌というほど思い知らされていた、といった方が正しいかもしれない。母は、俺を見る度に、吐き捨てるようによく言った。


「この子さえいなければ」

「あなたなんて、生まれて来なければよかったのに」


 母に対して返す言葉を、俺は持ち合わせてはいなかった。


 母はとても美しい人だった。母方の実家は伯爵家だったが、格上の侯爵家の出身である父に見初められて結婚したそうだ。父は優れた水魔術の使い手である上に端整な顔立ちをしていたようで、母も父のことを愛していたらしい。

 幸せだった二人の間に亀裂が入ったのは、俺が生まれてからだ。期待通りの跡継ぎの長男として生まれたはずだった俺の瞳が青色だったことに、両親共に戸惑いを隠せなかったようだ。それは、俺の父は黒い瞳を、母は濃茶の瞳をしていたからだった。

 父は、俺のような碧眼の子供が自分から生まれるはずはないと、母の不貞を疑い相当に詰ったらしい。聞いた話では、絶対に不貞などしていないと泣いて縋る母の言葉に聞く耳を持たず、父は一方的に離縁を言い渡したそうだ。


 すっかりやつれた母は、俺を連れて実家に戻った。母は、実家の家族には愛されていた。けれど、母に連れられて母方の実家について行った俺は、母に酷く嫌われていたのと同様に、母の家族である祖父母や叔父、そして従兄弟にまで疎まれた。母可愛さに母の肩を持つ祖父母は、母と一緒になって俺を目障りな存在として扱った。お前の顔など見たくはない、などと言われていたのはまだよい方で、次第に存在自体を無視されるようになった。最低限の食事は与えられたけれど、俺はほとんどその家にいないのに等しい存在として扱われた。


 俺には、人間として基本的に備えているべき情緒が、どこか欠けているようだ。感情の一部が欠落しているのか、それとも感情を表す術に欠けているのか、あるいはその両方なのかは、自分でもよくわからない。表情が動かず、まるで人形のようだと幼い頃から言われていた。それが先天的なものなのか、または家庭環境に起因する後天的なものなのかも判断がつかなかったけれど、俺の欠陥を鋭く指摘した母の言葉はよく覚えている。


 母は元々身体があまり強くはなかったようだが、離縁されて実家に戻ってからは、さらに頻繁に病に伏せるようになった。母の嫌がる顔を見たくはなくて、母の病床にもあまり近付かないようにしていたけれど、いよいよ母の病状が悪くなったある日、俺は母のベッドの側から彼女の顔を覗き込んだ。

 土気色の顔をした母は、恐らく無表情だったのであろう俺の顔を見上げて、その顔を歪めた。


「あなたは、実の母親がこんな状態になっても、そんなに冷たい顔をしているのね。……綺麗な皮を被ってはいるけれど、周りを不幸にすることしかできない人ね。感情のない人形と同じだわ」


 母は冷ややかな瞳で最後に俺を一瞥して言った。


「あなたなんて、生涯誰も愛せないわよ」


 その時の母の視線が、今でも目の奥にこびりついて離れない。

 けれど、母の言葉は間違ってはいなかったのだろう。程なくして母が他界した時にも、俺は涙の一滴すら零れなかったのだから。


 学校への入学が認められる年になると、俺はすぐさま入寮の手続きを整え、母の実家を離れた。祖父母たちも、さぞかし厄介払いができて清々していたことだろう。


 学校に入学してからも、俺は人との交わりを可能な限り避けた。声を掛けてきた者もそれなりにいた中で、俺はその誰にも欠片も興味が持てなかったが、それでもつつがなく学校生活を送ることはできた。

 それに、魔法の授業を受けるうち、俺の魔力はかなり優れているようだということがわかった。魔法以外の教科も含め、上位の成績を収めて特待生になることはできたが、寮費などが足りなかった。母の実家に支援を願い出るつもりはなかったし、あの家とて首を縦には振らなかっただろう。その代わり、卒業してから二年間、学校で魔法の研究に従事することと引き換えに、俺は在学中に必要な費用の貸与を受けられることになった。


 俺が将来生計を立てる道は、魔術師しか考えられなかった。魔物から国や人々を守りたいといった、崇高な思いを胸に魔術師を目指す者も一定数いるようだが、俺にとっては生活の糧を得る手段が必要だった。

 魔術師団への入団を目指す一般の生徒は、普通は卒業時に入団試験を受けることになる。俺の場合は、それが二年遅れた。入団試験は、一部の選ばれた者しか合格できない狭き門だ。さらに、各魔術師団が一斉に実施する、一日のうちに複数の実技試験が行われる入団試験は、年に一度しか行われない。俺にとっては、どうしてもその一度のチャンスをものにする必要があった。


 ただ、俺は自分の魔法の腕には自信があった。卒業後の魔法の研究をしていた二年間でも、自分の魔力がとりわけ秀でていることはよくわかっていた。だから、自分ならば何の問題もなく入団試験を通過できるだろうと信じて疑ってはいなかった。


 だが、試験当日になって初めて、俺は苦い思いと共に、自らの浅薄さに気付かされることになる。

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