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馬車の中

 レナートは、セレスティーヌに向かって尋ねた。


「復帰初日だったが、体調は大丈夫かい?」

「ええ。お気遣いをありがとうございます」


 レナートは、待たせていた馬車にセレスティーヌを乗せてから、自分も彼女の隣に乗り込んだ。

 馬車がごとごとと進み出すと、セレスティーヌはレナートを見つめた。


「今日はわざわざ私のことを待っていてくださって、ありがとうございました。……あの、以前もこうして一緒に帰っていたのでしょうか?」


 レナートは、セレスティーヌを見つめ返した。


「そうだな、時間の合う時は。ただ、いつも君が俺のことを待ってくれていたんだ。これからは、できる限り俺が迎えに来るよ」

「ありがとうございます。でも、レナート様はお仕事がお忙しいのでしょう? 無理していただく必要は……」

「俺がそうしたいのだから、問題はない。できるだけ早めに仕事を片付けて、君と帰りたいと思っている」


 真剣なレナートの瞳に押されるようにして、セレスティーヌは頷いた。


「お気持ちを嬉しく思います。ところで、あの……」


 セレスティーヌは、今も繋がれたままになっている手を見て頬を赤らめた。この時も、レナートは手袋をはめてはいなかった。直に繋がれた手から彼の体温を感じながら、レナートを見上げたセレスティーヌに向かって、彼はその美しい碧眼で彼女の顔を覗き込んだ。


「俺と手を繋ぐのは嫌かい?」

「いえ、そういう訳ではないのですが」


 セレスティーヌの感覚としては、婚約者であるとはいえ、まだレナートに関する記憶が戻らないのに、彼とずっと手を繋いでいるのは少し気恥ずかしかった。彼の身体も、触れるほどに近い場所にあった。


 戸惑いを覚えながらも、セレスティーヌは再び彼の顔を見上げた。


(でも、何よりも、まず彼に言うべきなのは……)


 セレスティーヌは、エマから聞いたレナートに命を救われた時の話を思い返して、改めて彼に礼を伝えたいと思っていたのだった。


「あの、以前にレナート様が私を助けてくださった時の状況を友人から聞きました。まだ思い出せてはおらず申し訳ありませんが、魔物から私を助けてくださったこと、感謝しています」


 言葉通りに感謝を込めてレナートを見つめたセレスティーヌは、にっこりと笑った。

 レナートは、微かに頬に血を上らせると、ぐっと言葉を詰まらせた。少し間を置いてから、レナートは口を開いた。


「また君が、俺にそんな笑顔を見せてくれるなんてな……」


 そう言ったレナートは、セレスティーヌと繋いでいた手を離すと、徐にそっと彼女の身体に腕を回した。まるで壊れやすい宝物にでも触れるような繊細な手付きで、レナートはセレスティーヌのことを優しく抱き締めていた。


「あっ……」


 驚きと困惑に目を瞠ったセレスティーヌの耳元で、レナートが切なげに呟いた。


「君に触れられるのなら、一度こうしてみたいと、以前から思っていたんだ」

「……!」


 突然レナートに抱き締められて、胸が跳ねるのを感じながらも、何と答えてよいかわからず、セレスティーヌはそのまま彼の腕に身を預けていた。記憶を失くしていた時を通じても、セレスティーヌがレナートに抱き締められるのはこれが初めてのようだったけれど、想像以上に彼の腕は優しく、そして温かかった。


「すまない。驚かせてしまったかな」


 耳まで真っ赤になったセレスティーヌから腕を解いたレナートは、少し切なげに彼女を見つめた。


「以前、俺がずっと君に触れられずにいた時。君は婚約者である俺に対して、それを咎めることもなければ、触れて欲しいと口に出すことすらしなかったが、どこか寂しげにしていた。だからと言って、今更こうして君に触れても、君を困らせてしまうだけかもしれないが……嫌だと思ったら、拒否して欲しい」

「大丈夫、です」


 何と答えるのが正解なのかは、セレスティーヌにはわからなかったけれど、彼女がレナートの優しい腕を嫌だと思わなかったことだけは確かだった。

 しばらく、二人の間には沈黙が流れた。セレスティーヌは、その沈黙を気まずいとは思わなかった。レナートに関する記憶は、そこだけ切り取られたかのようにすっぽりと抜け落ちてはいたけれど、はじめは怖いと感じたはずの彼が纏っている空気は、今ではどこか彼女を安心させた。


(もしも、私に彼の記憶があったなら。私はきっと、とても幸せに感じていたのでしょうね……)


 レナートのことは、嫌ではないどころか、自分にはもったいないほどだとセレスティーヌは感じてはいたけれど、彼のことを好きだったという過去の自分は、まるで他人のような感覚だった。

 レナートは、思い出したようにぽつりと零した。


「さっき、君は俺に助けられたと言っていたが。俺も、以前に君に助けられたことがあるんだ」

「そうだったのですか? では、私が貴方様に回復魔法を使ったことが?」

「ああ。君の回復魔法は、とても温かな力だったよ。俺の心まで癒されるようだった」


 懐かしそうにそう言ったレナートの横顔は、穏やかだった。


「すみません、それすら思い出せないなんて」

「いや。……記憶を失う前の君でも、きっと覚えてはいなかっただろう」


(怪我人がたくさん運び込まれた時に、回復魔法で治療をしたうちの一人だったのかしら?)


 セレスティーヌがそんなことを考えているうちに、いつしか馬車はセレスティーヌの屋敷の前に着いていた。


「送ってくださって、ありがとうございました」

「いや。また明日も、帰りに君を迎えに行くよ」


 セレスティーヌは、最後にもう一度レナートに頭を下げると、彼に背を向けようとした。レナートは、何かを待っているかのような瞳で、物言いたげにセレスティーヌのことを見つめていた。


「あの、何か……?」


 不思議そうに瞳を瞬いたセレスティーヌに向かって、レナートは、どこか寂しげに視線を逸らした。


「いや、何でもない。……では、またな」


 背を向けたレナートが乗り込んだ馬車の姿が見えなくなるまで、セレスティーヌは静かに家の前に佇んでいた。

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