庭の散策
本日2話目の更新です。
レナートがセレスティーヌの手を離すと、セレスティーヌはほうっと血が上ってぼんやりとした頭で、冷めかけた紅茶に口を付けた。
(レナート様、女性慣れしていそうな見た目とは違って、本当に女性が苦手なようだけれど。それでも、私と真摯に向き合おうとしてくださっているのが伝わってくるわ)
頬を染めたまま、セレスティーヌが俯き気味に紅茶のカップをソーサーに置くと、レナートが砂糖菓子の乗っていた皿を彼女に差し出した。
「ここに菫の砂糖漬けもあるが、食べるかい?」
「ええ、ありがとうございます。いただきます」
セレスティーヌは、青紫色の可愛らしい菫の砂糖漬けに、勧められるままに手を伸ばした。口の中に、ほんのりとした菫の香りと甘みが広がる。
(私の一番好きなお菓子だわ)
セレスティーヌは視線を上げると、レナートに向かって微笑んだ。
「レナート様は、私が好きなものをよくご存知なのですね」
「君は、素直に思ったことが顔に出る。君が嬉しそうに笑う顔が見たかったから、自然と覚えた」
「……そうでしたか。ありがとうございます」
想像以上に優しいレナートの言葉に、セレスティーヌは、未だに彼が思い出せずにいることを申し訳なく感じていた。
(レナート様は、何がお好きで何がお嫌いなのかも、私にはわからないのに)
セレスティーヌが見ている限りでは、レナートは甘いものが得意ではないようで、ただ静かに紅茶のカップを傾けていた。セレスティーヌが菫の砂糖漬けを食べてから紅茶を一口飲むと、レナートは明るい窓の外に視線を映した。
「この家の庭は、いつも美しく整えられているね」
「さっき侍女のジゼルも言っていましたが、レナート様がお嫌でなければ、少し庭に出てみましょうか?」
「ああ、そうしよう」
レナートは手袋を外したまま、やや遠慮がちにセレスティーヌの手を取った。繋がれた手の温かさに、セレスティーヌの鼓動が速くなる。
二人が廊下を通って庭へと続くアーチを抜けると、鮮やかな花々の咲き乱れる美しい花壇が明るい陽光を浴びていた。高い鳥の囀りも、頭上に響いている。ここしばらくは一日の大半をベッドの中で過ごしていたために、庭に出るのも久し振りだったセレスティーヌは、眩しい陽射しに目を細めた。
レナートに手を引かれるままに、花壇に咲き誇る花を眺めながら庭を横切り、庭を囲む並木の側にあるベンチの所までやって来ると、彼はセレスティーヌに向かって少し瞳を細めた。
「木漏れ日の揺れるこの場所は、君のお気に入りだと言っていたね」
彼と並んでベンチに腰を下ろしながら、セレスティーヌはレナートを見つめた。涼しい風が、彼のさらさらとしたプラチナブロンドの髪を揺らす。会ったばかりのように思える彼が、自分のことを色々と知っているということが、セレスティーヌにとってはどうにも不思議な感覚だった。
セレスティーヌの思いを察したかのように、レナートが口を開いた。
「覚えてもいない相手が君のことを知っているというのは、妙な気分だろうか」
「そうですね。何だか不思議な感じがします」
レナートは視線を上げて明るい空を見上げた。
「澄んだ青空に、美しい鳥の囀り。爽やかな風も吹いているし、今日は君の好きなものが揃っているようだね」
(……記憶を失くす前の私が、本当に彼と過ごしていたのだということがよくわかるわ)
セレスティーヌはレナートに向かって尋ねた。
「レナート様は、何がお好きなのですか? 思い出せずに申し訳ないのですが、また教えてはいただけないでしょうか」
「そうだな、俺は……」
レナートは隣に腰掛けるセレスティーヌから目を逸らし、ベンチの正面にある花壇の方に顔を向けてどこか遠い瞳をすると、呟くように言った。
「君がくれる温かな言葉や、眼差しが好きだった。こうして君といる時間も好きだ」
「……」
セレスティーヌが目を瞠って彼を見上げると、レナートの頬はまた微かに染まっていた。ほんの少し口元を歪めて彼は続けた。
「こういう俺の気持ちを、君に話したのは初めてだ。君は、俺が何も言わなくても、俺の気持ちをよく理解してくれていた。だから、あえて言わなくても伝わっているものだと、そう思っていた。……すまなかったな」
過去の自分に対して紡がれているのであろうレナートの謝罪の言葉を、セレスティーヌは何とも言えない思いで聞いていた。今この場にいる自分にとっては、どこか遠く感じられるような言葉だった。
無言になった二人を、さわさわと風が木の葉を揺らす音だけが包んでいた。しばらくその音に耳を澄ませてから、レナートはセレスティーヌに向かって口を開いた。
「少し、歩こうか」
「はい」
またレナートに差し出された手を取って、セレスティーヌは彼と手を繋いだままゆっくりと庭の中を歩いた。どことなく切ないような思いが胸の中に広がる。
(私が彼のことを覚えていたなら、彼の言葉は、きっともの凄く嬉しいものだったのでしょうね……)
一見冷たそうな外観とは対照的に、温かな心をしたレナートのことをなぜ忘れてしまったのだろうと思いながら、セレスティーヌは、少し寂しそうに見える彼の横顔を見つめた。過去の自分がレナートにどのような言葉をかけ、どのような眼差しを彼に向けていたのかも、今の彼女にはまったく思い出せなかった。
一通り庭の中を散策してから、レナートは別れ際、セレスティーヌの手に再びそっと唇を落とした。
「今度は、君が好きだった場所に一緒に行こう。また誘うよ」
「ありがとうございます、レナート様」
レナートは、マリアに丁寧に礼を述べてから馬車に乗り込んで帰っていった。彼の乗った馬車が小さくなっていく様子を、セレスティーヌはただ静かに見つめていた。