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色彩の街で

作者: 瀧田新根

 午後八時半を回り、すっかりネオンの明かりが夜を支配する中、星野・光流は、一人帰路についていた。自転車を置いた駅までの徒歩十分の道のりには、金曜日のこれからの時間を楽しむ人達が闊歩していた。

 黒髪の少年、というには目元が大人びて、青年、というのには幼い顔立ちは、ひょろっとした身長の高さによって、まだ高校生くらいだと年齢層を印象付けるには十分だった。右目だけかすかに白い光を帯びていた。これは病気などではなく、『色』によるものだったが、光流はそれを嫌っていた。一般的には二種の力を持つとされる『色』は、瞳にその色彩が浮き出てくるものになる。その色が濃ければ濃い程強い力――現実への干渉能力――を発揮し、薄い程に弱い。それは先天的に決まるものであり、後天的に力を伸ばす事はできない。彼の瞳に宿る色はとても弱弱しく、うっすらとしたものだった。だから、光流は嫌っていた。『色』で優劣がつけられる事と、それを自慢してくる者たちを。

 コンビニの緑色の明かりの元には、走光性があるのだろう人々がたむろしていた。数名のグループらしく、談笑をしながら手には色のついた瓶や、透明なペットボトルを持ち、時折それをグイっとのどに流し込んでいた。暑さの中で見るその光景に、光流はからからに乾いた喉を鳴らした。仕方ないと自分に言い聞かせて、その場から足早に立ち去ろうと決めた。ここで、微かな潤いを得るために、せっかく稼いだアルバイトのお金を切る、というのがどうしてか許せなかった。決して厳しい家計である、という訳ではなく、単純に小遣いが高校に入ってか無くなったから、というのが彼の経済的に、きっちりした性格と合わさって、一切の無駄を許さない、という行為につながっていた。

 光流の歩みは、前からやってくる人波に押される形で、思ったよりも遅々としていた。仕方ないと思いながら肩を落とした。背中のリュックがそれに合わせて上下した。がさっという重みを含んだ音がリュックから聞こえ、あわてて姿勢を正した。今晩の夕飯を無下にする事はできないと思い、すぐさまカバンを確認した。ジッパーを開けて中を確認すると、無事なのが分かって安堵した。バイト先のまかないであったが、彼にとっては豪華な食事だった。両親は共働きで帰ってくるのは十時近くなる。夕飯は適当にたべてくれと夕食代を時々もらうが、バイトしているから、とそれを断っていた。少しでも親に苦労を掛けさせまいと思うが、両親はあまり気にした風もなく、いいから、とお金を押し付けて来るのが日常だった。一日のうちで会うのも一度、朝の時間だけ。そうなったのはいつからだろうか。きちんと会話をしたのが何年も前の様に覚えて、どこか寂しく思える時もあったが、年齢的にそれを表に出すのは憚られた。自分に弱みを見せてしまう様で、それが嫌だったというのもあるだろう。

 湿気を含んだ重い風が人込みの中を駆け抜けていった。そこに含まれた匂いは様々で、近くの弁当やの脂っこい匂いや、焼き鳥屋の香ばしい香り、焼き肉店の煙たい匂いなど様々だった。その匂いが通り過ぎる度に、お腹がぐー、と鳴くのを必死に抑えた。重い空気に押される様に光流はゆっくりとした歩みで駅に向かった。あたり構わずせり出した電光の看板は、行き交う人の足を蛇行させた。当然、光流の足も遅くなった。

 時折ぶつかる人の波に苛立ちを感じながらも、光流自身が、社会的弱者であると思っているからだろうか、ぶつかってきた相手に小さく、「ごめんなさい」と謝った。誰も気にしていない事くらいは、光流でも十分理解していたが、どこか後ろめたい気持ちが湧き上がって、後に嫌な気分になるのを知っていたから、自分の気持ちに決着をつけるための自衛策だった。サラリーマンは一瞥すると、何事もなかったと言わんばかりに、直ぐに隣の知り合いらしき人との会話に戻っていった。

 通りすぎる人の中には、手に持ったペットボトルを急速に冷凍させる者もいた。手に触れた所から放射状に伸びる氷が、軋みを感じさせる音を立てて氷を形成させていた。冷たくて気持ちよさそうだな、と光流は思ったがコンビニ寄るという選択肢を排した後だったから、少し膨れた頬を両手で叩いて気持ちを切り替えた。

 焼き鳥屋の前を通ればタバコの火を人差し指でつける男の姿が見えた。

 カウンターしかない串カツ店では暑さを紛らわすためだろう、手でうちわの代わりに風を起こしている女性の姿が見えた。

 どこにでもある光景に、自分の属性がそういった有用性がある『色』じゃない事を痛感して、少し憂鬱な気分に光流はなった。有用性に疑問符を付ける者もいたことを光流は思い出した。

 友人の竹林・晋平は女子にいたずらをするためだけに『色』を使っていたな、と苦笑した。風を起こしてスカートをめくる。それが特技だと晋平は自慢していたが、小学生からやっていたらしく、学区をまたいで有名になっていたらしい。それなのに、高校にもなって同じ行動をしていれば、必然的に風紀委員にも目を付けられる事になった。ひどく悔しがっていたが、風紀委員長の鈴木・小百合に出会った事で、『心を入れ替え』て、彼女のスカートだけをめくってやるんだ、と言っていた。それが成功したという話はこの三か月聞けなかったから、一度もできなかったんだろうと思っていた。そのどこが心を入れ替えたのか、光流には分からなかったが、神妙に話す晋平の姿を見れば、恋を患ったのだと一目瞭然だった。だから、風紀委員長の強烈な『黒』の前に成す術が無かったとしても、晋平には交流の一環でしかなく、それを成しえる事によって、いずれ求める楽しい生活に向かっていくための手段でしかないのだろうか。それが彼だけの想いだったとしても。実際、幼少期であれば大目に見られるだろうが、高校にも入り、同様の行為を無作為に行っていれば、犯罪で検挙される事は間違いない。その点、晋平も分かっているからこそなのだろう、と光流は納得していた。

 光流は駅に抜けるため近道をした。ビルの隙間に作られた細い路地とは呼べない露地。エアコンの室外機は長年の汚れで黒ずみ、埃をだいぶ被っていた。誰か通った際に衣服をぶつけたのか、一条の筋が道路の白線の様に描かれていた。手入れの行き届いていないアロエの鉢は、先日の雨の水を十二分に蓄え、水受けにこれでもかという量の濁った水を蓄えていた。もとはクリーム色だったのだろう壁は、換気扇から流れる油によってギトついて、手を触れたくはないと思えるほどの光沢を一面に保有していた。どうやって入れたのか分からない自転車が行く手を阻んだ。錆だらけのサドルに、チェーンが外れているのが見て取れた。長年放置されている事は一目で分かった。光流は体を縦にしてリュックを左手に持ち直し、脇を抜けた。背中に自転車の持ち手がやんわりと触る感覚があり、背筋をゾクゾクとさせて気持ちが悪かった。

 いつもの通り何なく抜けると、猫が一匹、「ナー」と歓迎した。白に黒の斑点。パンダの様に右目だけ黒色が覆っていた。「こんばんは」光流は笑った。先ほどの鳴き声が自分に向けられた事は分かったが、何を告げていたのかは理解できない。いっそ動物の言葉が分かる『色』でもあればいいのだろうかと思ったが、それだと駅前にやってくるムクドリのうるさい鳴き声も聞かなければいかなくなるのだろうと思うと、ちょっと嫌だなと思った。猫は光流を見つめたまま、その場を動かなかった。光流がその横をすり抜けて、露地を抜けた。

 人気の少ない道に出た。昼間であれば携帯電話ショップや、不動産屋があるため、人がそれなりにいるだろうが、飲食店の一個もない通りには、帰り道を急ぐOLの姿くらいだった。背の高い建物の間には、緑色の金網で作られた駐車場があった。白い軽バンが二台停められていた。人の出入りを制限するために、トラ柄のロープがバツ印の様にしっかりと括りつけられていた。不動産会社のロゴの入った軽バンは、誰かがいたずらでもしたのだろうか、黒いラッカーの様な物で側面に色が付けられていた。酷い事をする人も居るんだな、と呆れた様にため息を一つ。

 駅に向かうため北側に進んでいった。白色の防犯灯は頼りなく暗闇を照らし、所々闇が濃くなっていた。一本、通りが違うだけで表情が全く違っていた。おどろおどろしい程に闇はせり出し、建物の影が道路を埋める。反射するはずの道路標識も光源がないため、暗くぼんやりとしていた。遠くからムクドリのぎゃあぎゃあという音が響いた。今この通りには光流以外いなかった。光流はこういった一人になった時間が好きだった。突然訪れる世界にぽっかり空いた空間の様で、自分以外の誰かがこの空間に侵入してこない限り、永遠に続く世界の『本質』との邂逅の様に感じたからだった。晋平にそんな話をしたら、「光流って馬鹿なんじゃないか? 誰かが居てこその世界だろう? 俺の隣に今、光流が座っているみたいにさ。じゃなきゃ、俺は一人でぶつぶつとしゃべっている事になるぜ」と笑われた事を思い出して少し頬を膨らました。馬鹿にされた事に対してだったが、晋平の言ったことにも一理あり、結局誰もいない世界なんて言うのは幻想だという事は光流には十分、分かっていた。


◆◇◆◇◆◇◆


 光流は乾いた喉も潤せず、線路の側まで歩いてきたため、そろそろ、本格的に水の一滴でも飲みたいと思えて仕方なかった。

 電車がたまに横をとおり、激しい車輪の音、パンタグラフのバチバチという音を響かせて軽快に通り抜けていた。今もまさに電車が通ろうと、煌煌としたライトを前面に点灯して、重い車列に動力を与えていた。徐々に迫る様に感じる明かりに光流は目を逸らした。

 南側に抜ける露地には電灯の消えたオフィス街があった。もうすぐ九時になる。大多数の人々は帰路についている頃だった。たまに夜遅く残っている中小企業も月末ではないから今日はすでに明かりが落ちていた。防犯灯の明かりが一つ消えた。遠くで何かが走った様にも見えた。とうとう寿命でも迎えた防犯灯が最後の明かりでも明るく灯して消えたのだろうと、光流は考えた。当然それ以外に特筆すべき事が無ければ、視線を元に戻して、駅へと続く側道をさっさと行って終わりだっただろう。

 しかし、次に見えたのは銀に光る明かり。暗闇を切り開く一閃は、上下に高く稲妻の様に走った。「なに?」誰に尋ねるわけでもなく、光流は言葉を口にした。答え神様にでも尋ねる様な心境だった。自分の見た物が見間違いならよかったが、と思いながら、光流の足はその光の方へと進んでいった。スクールゾーンの青いペイントを踏み抜いて、次第に足は速くなった。見た物が見間違いでなければ、と焦る気持ちを抑える様に呼吸を深くした。頭に血が急激に集まっていたのが少し緩和されたように思えた。すぅっと醒めていく感覚は、どこか立ち眩みでもしたように頭をくらくらさせた。空にはベガの輝きが見えるころだろうか。天を仰ぎ、ちらつく視線を保つため、一瞬息を止めた。光流の視界の端で再び銀線が走った。立ち止まっているべきなのか、行くべきなのか、光流は悩んだ。しかし、見てみたいと思う興味が彼の背中を押した。

 足が向いた先は、真っ暗な闇の中。駅前には近いが、旧商店街の道には人通りはない。急激な再開発で忘れさらた商店街に残るシャッター街だった。かつての役目を終えた八百屋のシャッターには、巨大な龍の絵がスプレーで描かれ、巨大な顎を隣の店に向けていた。隣の文房具屋のシャッターはトラの絵が描かれ、龍に向けて牙を向けていた。誰が一体描いたのか、この構図は面白いなと思いはしたが、足は止まらない。

 後二十メートル。足に何かを踏みづけた感触が響いた。硬質な感触は靴を突き抜け、骨に直接響いた気がした。がりっという音と共に視線を向ければ白い破片が散乱していた。それが防犯灯のカバーである事は明白で、防犯灯の下に大量に散らばっていた。視線を暗闇へと続く道へと向けた。防犯灯が消えている箇所が一つ、二つ、いや、その数は光流がここにたどり着くまでに、顔を上げるまでに増加する。明かりは消え、暗闇の中に蠢く人影が二つ。時折走る銀弧は、いかなる影響か。『色』か、とも光流は思った。例えば、『黄色』の電子の動きは、一瞬のスパークをもって防犯灯など壊してしまう事だろう。しかしそれは犯罪に当たることは明白だった。

 カメラが異常を感知すれば、近くにいる人のマイクロチップからの個人情報を吸い上げ、誰が、いつ発動したから警察に通報される仕組みが作られていた。特に物損や、傷害などを判別するカメラのAIによる『色』判別自動記録システム――通称パレット――による、異常識別感知機能は、誤差が千分の一パーセントの確立で起きるかどうかまで精度が向上されていた。

 光流はこの世界の仕組みを信頼していた。いざ何かが起きた時、その場にはすぐさま警察か駆けつける場面は何度も見ていたし、その監視網の多さは世界水準を上回っていた物だから、安心感はあった。この体制を強力に推進した与党に対して、野党が監視社会だと大ブーイングを出し、あまつさえ、国会議事堂で『色』を使ったことで、反面教師的に国民の感情を誘導してしまったのは、記憶に新しかった。光流にとっても学校で繰り返し行われていた、いじめの現場を見ても見ぬふりするしかできなかったものだったが、パレットによってそういった場面に会うのも激減した。公然とは行われないまでも、今でも行われている事なのは間違いなかったが。

 あと一分もすれば警察がこの場に駆け付ける事だろう、と光流は思った。しかし、彼の足はその騒ぎの中心に向かって進んでいった。いくつも防犯灯が壊され明かりは靜に照らす月の明かりくらいしかない。遠くで青白く光る防犯灯もいつまでその明かりを保持しているのか、不安に思えた。ぽっかりと闇夜が生み出された感じを受けた。空気を切り裂く音が聞こえた。シンッともキンッとも聞こえる高い金属音。周囲の建物は闇に閉ざされ、人が顔を出す事もなかった。光流の足が止まった。

 チカチカと、ついたり消えたりする防犯灯が、暗闇の中を時折照らした。

 一つ分かった事があった。二つの影のうち一つは地面に倒れ、もう一つは天を仰ぎ見ていた。

 横たわる影は一人の男。サラリーマンなのだろう、白いワイシャツに黒いスーツ。地面には彼の物だろう皮のカバンが落ちていた。男の周りには防犯灯のカバーだろうか、白色の細かい鋭利な破片がいくつも転がっていた。男の息があるかは分からなかった。男の手は片方が自身の股を抑えている様だった。なんとも情けない倒れ様だったが、手足には、地面から生えた様な銀色の鎖が幾重にも巻き付いていた。

 もう一つは少女。天を仰ぎ見る瞳には銀色に揺らめいていた。年齢は自分と同じくらいだろうか、と光流は思った。それほど身長は高くないにもかかわらず、細い手足から、すらりとした印象を与えた。身長は光流と同じくらいか少し小さいくらい。決して同年代としても低い方ではない光流に比肩するという事は、女性としては高いのか、と脳裏に浮かんだ。長い銀色の髪が風になびいており、点滅する防犯灯の明かりによって、どことなく浮き出た様な印象を受けた。犬だろうかキャラクター調に描かれた黒色の濃いTシャツはサイズが大きく、丈も少し長い。ショートパンツからは健康的な足がすっと伸びていて、黒いショートブーツが背景の闇に溶け込み、白い肌と相まって影から「にゅっ」と生えた様に感じた。

 誰、と問いかける視線が光流に向いた。美しい顔立ちに、濡れた様な唇。白い肌に浮かぶような銀色の放射光がなんとも非現実的に感じた。光流は点いたり消えたりする防犯灯の明かりに苛立ちながら、その銀髪の少女を見返した。


◆◇◆◇◆◇◆


 放課後の教室にぬるい風が入ってきた。湿気を多分に含んだ重い風は、夕方だというのに、まったくの涼しさを持っていない。共に入ってくる野球部の掛け声と相まって暑苦しい感じがして、なんで空調が入らないのだろうと蒼樹・真紀は感じていた。黒いミディアムヘアを耳にかけなおして、手元にあるポッキーの箱から一本取ると、口に運んだ。赤い眼鏡にかすかに反射する太陽の光を煩わしい様に目を細めていた。夏の装いの制服は、半袖のワイシャツにチェック柄のスカートだけという軽装であり、学校を示す青色のマークが胸ポケットに刻まれていた。当然、光流も半袖のワイシャツでよかったはずだが、彼は長そでのワイシャツを好んで着て、袖を腕まくりしていた。

 掃除が終わった後の教室には真紀と光流以外いなかった。廊下伝いに吹奏楽部の練習する音が聞こえた。一定の音量で長く、安定した音を出す。そういった練習なのだろう、同じ音域がずっと続いているのを背中で受けていた。時折、誰かがミスをしてずれると、不協和音になる。それが廊下というアンプを伝って校舎全体を震わせた。その音に反応して、笑い声が聞こえた。理路整然と机が並べられた教室に音が入ってくると、二人を取り巻く様にぐるぐると回った。その音が少し収まるまで、二人は口を開く事はなかった。ふと、音が止まる。しかしすぐに外から入り込む野球部の掛け声に塗りつぶされた。

 結局、静寂などは訪れない、ということは二人とも良く分かっていた。だが、こういった音の方が、電車が通る音や、信号機の音、車の通る音に比べて、生きている音だなという風に感じていた。人が出している音というのもあるのだろう、どこか温かみの様な物を持っていると思っていたから、駅前のファミレスに行ったり、コンビニ前で話し込むというのより良いと感じていた。真紀の細められた視線の先で、光流はポッキーを齧りながら携帯を眺めていた。

「そういえばさ」

 光流がなんとなく、という様な口調で真紀に視線を向けた。

「『色』って六系統だけだよね」

「それは――そうでしょ。今更、何言ってるの」

 小学生でも知っているよ、と真紀は目を点にした。

 いや、と光流は言葉を区切り、右頬をぽりぽりと人差し指で掻いた。

 真紀は、またか、という様に呆れた表情を見せた。光流は『色』をあまり良く思っていない。自分の力の弱さも相まって、昔から劣等感を持っているのは知っていた。

 「また、何かあったの?」

 真紀は心配だった。この年代になればいじめはより陰湿な物に変わるからだ。パレットの影響もあり、表立ってのいじめはなかったが、未だに不登校の数は横ばいだったし、自死の数も増加していた。光流がそういった状況に置かれたのであれば、助けてあげたいと思う程、付き合いは長かった。同じ小学校からの付き合いは、お互いに姉弟に近い親近感は持っていた。

「また、昔みたいにいじめでもあったわけ?」

「いや、そういうんじゃないって。前見たな事にはなってないし、今のところそういう生徒もいないじゃない。あの時は、明らかに――ほら、グレてるって感じだったけど。」

 はぁ、と真紀はため息をついた。眼鏡のずれを直すと、ぐっと身を前に乗り出して光流に顔を近づけた。

「なんかあったら言いなさいよ。光流はすぐに泣いちゃうんだから」

「なんだそれ。いつの話だよ」

 真紀は身を引き、ポッキーを一つ取った。

「そりゃ、小学校の話じゃない。大久保にいじめられて一人で泣いてたの見てるんだから」

 昔すぎ、と光流は笑った。真紀はポッキーに一口付けた。それほど杞憂な話ではないのか、とどこかざわついた心を静められた。

「で、なんでそんなこと聞くの。まさか、『お、俺の隠された力が!』とかっていう今時はやらない中二病?」

 まさか、と光流。光流は水筒を吊り下げていたカバンから取り出して一口含み、

「昨日、見たんだよ。どういう『色』か分からないものをさ。だから、どうだったかなーって」

 なによそれ、と真紀はあきれた様に口を開いた。

「『色』は白、黄、赤、緑、青、そして黒の五系統。それぞれ二つの要素を持っていて、人によって強弱があるのは知ってる事でしょう。光流と私は同じ白だけどさ、色別放射光の強さによってその干渉力が変わるわけじゃない。……光流の場合は一つの要素しかもっていないけどさ。要素といってもできる事は限られているし、あまり有用じゃない物も多いわよね。逆に危険な物もあるわよね。なんでそういう要素なのかは、分からないけど。例えば、私たちの白についていえば、一つが可視光を飴の様に伸縮させることができるのと、温度の低下が行えるわよね。認知している光が、何だろう、触れる感じで使えるけれど、それを誰かにぶつけたとしても、水の飛沫みたいになって砕けてしまう物よね。対して温度の低下だけ考えれば、人に使えば低温で血液が凝固させることもできる、とても危険な物だわ。だからといって、その様な使い方は決してしないけれど……。その上で、白、黄、赤、緑、青、黒の順番で色のグラデーション――上書きがされる物でしょう。黒はすべての色を塗りつぶして、白はすべての色に交わってしまうほど弱いわ」

 うん、と光流は頷いた。当然分かっている事だったが、改めて言われると、昨日見た物が、『非現実的』だという事がきっちりと認識できた。

「それ以外に『色』があるなんて言うのは、聞いたことが無いというのが正しいわ。だって、そこから外れた物なんて『神様』の作った世界の蚊帳の外になるものじゃないかしら」

「『神様』なんてもう何年も見られてないじゃない。もしかしたら別の『神様』が来たって、不思議ではないと僕は思うけどなぁ。だって、僕の……『色』は一要素も全く機能しないんだもん。世界でもそういう事例が、少なからずあるっていう事は知ってるけどさ。『色』を作った『神様』じゃない『神様』が別の『色』を新たに作って……なんて虫のいい話なのかな」

 ふふ、と真紀は可笑しそうに口元に手を当てて笑った。

「確かに、光流にとっては――」

 そこで真紀ははたと止まって、

「まって、昨日見たっていったわよね」

 うん、と光流は当たり前の様に頷いた。

「な、なにを見たの?」

 戸惑った様子で真紀は光流を見上げる様に下から覗いた。

「なんて言ったらいいか分からないけど、昨日、男性が倒れているのを見つけてね。そこに女性が側にいたんだ。最初は痴漢か何かかとも思ったんだけどさ。その女性の色別放射光が今までに見たことない色だったんだ。ほら、『色』と色別放射光は必ず一体じゃない。僕なら白以外にはならないし。だけど色でいうなら、『銀色』だったんだよね。そんなもの見た事ないから、一体何なんだろうって。一時期流行った別系統の色にするっていう目薬だって、あんな色にはならないと思うんだよね。だから、そんな『色』が出たのかなって」

 真紀が光流の顔を両手でつかんだ。それからぐっと引き寄せると目を突き合わせた。険の有る視線がじっくりと光流の目を見据えていた。

「光流、それってまさしく、噂の『通り魔』じゃない!」

「あ」

 光流は目を見開いた。


◆◇◆◇◆◇◆


 八人。独りでに歩き出した噂話は、尾ひれ背びれを付けていたが、それだけの人数がすでに被害にあっていたのは事実だった。公開されていた監視カメラ――パレットの映像などから、二つの共通点が挙げられていた。

 一つは同一の町、光流の住む町で昨年から起きているという点。駅前周辺を中心に、夕方から夜間に差し掛かる時間で、多くの人々が行き交う時間にその凶行は起こっていた。事件は裏路地などの人通りの少ない場所で起きていたとは言え、目撃者は皆無。カメラの映像などには残っていそうなものだったが、往来が多くない場所の設置が後手に回っている事から、有力な映像が残っていない状態だった。被害者に共通する点は見受けられず、無差別という言葉が必ずついて回った。

 もう一つは『銀』の『色』という情報。パレットには、監視カメラの延長だ。異常が感知されれば、その周辺からパーソナルデータを引き抜いて保存する機能もあった。だからこそ、『銀』という色が記録に残っていたのは誰もがシステムの異常性を疑う物だった。当然、マイクロチップの情報をいじれば任意の色だと表示する事はできる。それを可能にするには、色の管理を行うために定められた法律をきっちりと破る必要性があった。仮にその様な事をすれば、禁固刑、はたまた高額の罰金が科せられる事になるのは必然だった。犯罪組織の中には『色』情報を改ざんした者も少なからずいた。そういった者たちには厳正な対処が行われていた。警察においては其れを誇らしげに語っていたし、放送では連日「『色』の改竄は犯罪です」と大々的に広告がされていた。だからこそ、『銀』の色というのを誰もが目にしたとき、そういった不埒な者と同様に、改竄されたデータであるとは思っていた。光流も真紀に言われるまではそうだと思っていた。


「普通はそうだって思うわな」

 晋平は大きな手で光流の髪の毛をくしゃくしゃにした。光流よりも背の高い晋平は、光流の、わ、という言葉を意に介さないで力任せに押し込む様に押さえつけた。手を放すと、鶏のトサカみたいになった光流の頭を見てカラカラと笑った。

「なんだよもう」

「光流は危なっかしいなってさ。一番被害に遭いそうな感じがするんだよ」

 なんで、と髪を直しながら光流はきょとんとした表情を浮かべた。

「自覚症状ないというのも問題ですなー。週に四度はバイトしてて、夜は遅くなる。被害の多い駅前を一人で歩く。明かりの十分じゃない裏道を使って近道をする。それだけでも危ないっていうのに、他人より『色』が薄い」

 うーん、と光流は腕を組んだ。そんなに、気にすることなのかな、と思ったが、晋平の言う事なのだから、何らかの理由があるのだろう。だが、それをそのまま鵜呑みにするほど、納得が出来ない光流は、口を尖らせた。

「でも僕、足早いよ」

 だから、と晋平が釘を指す。ずいっ、と左手の人差し指を光流の鼻先に当てた。

「そうじゃないってさ、気づこうぜ。リスキーな上にその犯人っぽいのにあったんだろう。少しは自重しろよ。じゃないと本当に次は光流が被害者になっちまうぜ」

 晋平は右手に持った缶コーヒーを一気に飲み干した。

 光流も、確かに、と思い至るところはあった。あの時に出会った少女が『通り魔』という可能性は少なからずあったからだ。情報が少ない中で決めつけるべきなのか、とも思ったが、それを口にする事は無かった。代わりに右手に持ったサンドイッチを一齧りした。

 二人は屋上にいた。昼間の屋上は突き抜ける様な青空を見せていた。暑い日差しから逃れる様に、日陰になるところにはすでに何人も生徒がたむろしていた。光流たちは生徒たちの群れから外れて日差しの良く当たる場所にいた。ベンチがあり春や秋ならば生徒がいるであろうが、直射の当たる夏場には、ただの茹るだけであったからほとんどの生徒はそこを避けていた。青色のFRPのベンチは、強い日差しに当てられてじりじりとした熱を保有していた。屋上にはフェンスが張られており、屋上からの転落防止に一役買うと共に、生徒たちの背もたれとして使われていた。長年の劣化から所々錆納期出たフェンスではあったが、未だに力強く生徒の力を分散していた。時折カシャーンという大きな音を立てて風に揺られるのは定例行事になっていたものだから、大きな音を立てても誰も気にしてはいなかった。

 腑に落ちない光流は、うーんと唸った。

「そんなことないと思うけどなぁ」

 晋平は苦笑した。緑色の放射光が左目から漏れていた。

 途端、びゅぅっと風が吹いた。光流の左手に置かれていたサンドイッチがぱたりと倒れた。慌てた様に、光流がそれをつかんで転がるのを止めた。ほっと安堵した様に一息ついた。それから、晋平を見ると、

「そんな風に使ってると、いつか捕まるよ」

「ばれないって。特に風についていえばカメラで判定なんてそうできるもんじゃないんだよ。判別は確かに大したものだけどさ、火や電気みたいな直接的な物じゃなければ、そうそう見つかるものではないさ」

 頬を膨らまして光流は、

「そういうのは嫌味に聞こえて仕方ないよ。僕なんて何にもないのに。せいぜい光が点滅するくらいだもん」

「けけっ。そう辛気臭い顔すんなよ。いずれ良いようになりますから。――でも」

 晋平は声のトーンを落とした。心配する様に光流の顔を覗き込み、

「本当にバイトは考えたほうがいいんじゃないか? 出会ってるっていう事なら、二度目も現れるだろう。『見た』んだからさ」

「この間のは、本当に見ただけだよ。その後だってすぐにその人逃げちゃうし。残った僕が横になっていた男性を放置するわけにもいかなかったから警察呼んだわけじゃない。そしたらそこから三時間。疑いが晴れたころには、日付変更しそうになっててさすがに焦ったよ。身元確認だって姉がいたからよかったものの」

 晋平は背伸びをした。ぱきっと伸びた指が音を立てていた。

「そういや、まだ両親は旅行だったっけ」

 そうだよ、と光流は頷いた。

「たださ、銀色ってどんな力なんだろうね。僕には想像がつかないけれど」

「被害を見ればおのずと分かるんじゃないの。あんなのは人のできるものじゃないんだろう。生きている間にくし刺しにするなんてさ」

「つまり?」

「金属を操るとかっていう事なんじゃないの」

 ふーんと、光流は鼻を鳴らした。


◆◇◆◇◆◇◆


 いつもの時間に光流は同じ道を帰っていた。狭い路地、人気のない小道、車通りの無い線路沿いの道。どれもがいつも通りだ。途中で会う猫の姿まで一緒。「ナー」と気のない声で鳴いて、光流に挨拶をする。苦笑しながら、家路へと光流は進んでいた。

 電車のパンタグラフのうるさい音が響いていた。

 夏本番であるから、昼間の熱を反射したアスファルトの熱で、Tシャツは汗でじっとりとなっていた。気持ちの悪い感触も、光流は嫌いでは無かった。これも『夏だ』と実感できたからだ。家に帰って冷蔵庫に入っているコーラを一杯飲めば、きっとスッキリするだろう、そう思えば、足取りだって軽くなっていた。

 いつも通り。変わらない日常の一幕であり、それを阻害する物は、きっと起きない。そう思えるのは、何度となくこの日々を繰り返していたからだ。高校に進学して確かにまだ日は浅い。とはいえ、バイトにも慣れてきた中で、週に何度も、同じ道を通れば、一週間、二週間、三週間、一か月、二か月、三か月、という積み上げが、どこか認識を『変わらない日常』に変換していた。

 それは、必然なのだろうか。日常の中に生まれた『異常』は、一度だけには飽き足らず、其れすらも日常の一部として再現した。

 暗闇に一度は知った銀弧は、鮮烈に光流の視界に映った。

「はは、やっぱり?」

 誰に言う訳でもなく、光流はつぶやいた。旧商店街には近づかないようにしよう、そう決めたのは晋平の言葉をもらってからだったが、結局、この間と同様に何かがあれば、興味が勝ってしまうのは仕方ない事だった。

 恐怖というものは微塵も沸いておらず、どこかわくわくした気分であったのは否めない。特に、前に見た女性が犯人だというのであれば、どこか話しをしてみたいと思う好奇心の方が強い感覚だった。この間の記憶を頼りにするならば、銀色の印象が強い女性だったというのが光流の印象だった。それと同時に、綺麗だったことから、興味が湧いているというのもあるのだろう、と思った。

 光流の歩みは走るに近い程早められ、早く、早くと早鐘の如く急く心臓の音に後押しされ、その場へとずんずんと進んでいった。防犯灯の明かりは怪しく、青白い光を時折点滅させながら、暗闇を照らしていた。

 闇から生れ出たばかりの様に、すっと人影が動いた。

 光流は凝視してその人影を確認した。間違いない。間違い様がない。そう光流は確信する。あの銀の髪、銀の瞳。漆黒を切り裂く青白い防犯灯の光が夜空に浮かぶ天の川の様に銀色を浮き立たせた。

 光流の足音に気づいた様で、少女が光流に視線を向けた。誰、と問いかける、その視線は淡い色別放射光が帯を引いた。

「だれ……?」

 少女の声は細く、弱弱しく感じた。絹の様に繊細な音を聞いて、思っていたイメージを光流は修正した。険を持つきつい印象を持っていたが、どこか怯えを抱えた震えを内包していた。揺れる音域に、自信のなさの様なものを感じ、光流はどの様に返すべきか思案した。前には少女のみ。猫が「ナー」と鳴いて通り過ぎた。

 光流は固まったままの少女に向けて言葉を発した。

「綺麗」

 それは純粋な言葉だったが、言ってから他意がある様に聞こえ、少し気恥ずかしくなった。少女が目を見開いて身構えた。長い髪が彼女の動きに合わせてふわりと舞った。また、その場を離れるのだろうか、そう思えてしかたなかった。

「待って!」

 光流は咄嗟に口走った。少女は身を翻すのを止めて、光流を見た。チカチカと防犯灯が点滅して映画のコマの様に感じた。

「な、に――?」

 警戒しているのが分かるほど、声が震えていた。光流は一度息を吐きだして、早い心拍数に押され焦る気持ちを落ち着けた。自分が焦ってはいけない、それが相手に伝播してしまえば、せっかくの機会を失う事になる。そう頭が認識すればこその行動。ゆっくりと吐いた息によって、徐々に心音は収まっていった。

「星野・光流。君の名前を聞いてもいいかな?」

 少女は言葉を飲み込んだように、喉を鳴らした。戸惑い、怯えはかすかに少女の体を震わしていた。一歩。前に出た光流の動きにつられて、少女は一歩下がった。光流は手を伸ばす。自分は安全だと示すように両手を微かに上に向けて。少女は応えない。一歩前に出た。少女は止まっている。少女の足に力が溜まっているのが確認できた。逃げるための準備。そう感じた光流はその場で止まり、両手を上げた。

「大丈夫。ちょっと話をしよう。この間もこんな事があったのは覚えてるんだけど、その時は、一人男性が倒れていたから、どうしようもなくてさ。君もすぐ逃げちゃったから僕も結構面倒だったんだ。だから、どうしてあんな状態だったのか教えてほしい――無理にってわけじゃない。大丈夫、君になにも強制はしない。ただ、この間のことを知りたいだけなんだ。ついでに、その――『銀色』のことを」

 途端、少女の表情が変わった。それは敵意。間違いなく虎の尾を踏んだ。まずったと思った。その刹那の時に、光流は弁明の言葉をフル回転する頭で考えた。いくら言葉を述べようともその表情を止められない気がしてならなかった。

 少女の身が翻った。また、この間と同じく逃げるのか、と光流は落胆した。せっかくの機会を自分で棒に振ったのだ。その落ち込みはすぐさま表情に出た。

 だが、次にはその考えを改めた。

 少女の閃光のごとき回し蹴りが光流の腹をかすめた。風の嘶きが、ぶん、という彼女の姿に似つかわしくない獰猛な音を立てていた。風がTシャツを左に微かに動かす。撫でられた様な感触。

 ぶわっと汗が出た。冷や汗は全身を冷めさせた。わたわたと光流は距離を取った。

 これは警告か、はたまた、見誤ったのか。

 「何?」という疑問は激しくなる呼気によって音の体をなさなかった。全身が警鐘を鳴らす。頭が危険を察知し、瞳孔は開かれ少女の一挙手一投足を見逃さない様に据えられた。手は体の中央に据えられ、頭を守るために上へ行くか、腹を守るために下にいくかで迷っていた。足は急激に力が入り地面に固定された様に動きを止めた。

 少女の追撃。一足の距離を物ともせず、風に乗った様にスッと間合いが詰まった。

 少女は左足を繰り出した。コンパクトに折りたたまれた左足は最速の速度を保ったままの膝蹴りだ。

 あたる。冷静に光流はそれを見ていた。右の肘でブロックをしようとしても、体が硬直していた。避けるには体が動かない。覚悟を決める間もなく、右の脇腹に膝が入った。

 「くふっ……」となんとも情けない声を出した。

 ブロック塀に背中を預ける様によたついた。リュックサックが押しつぶされ、ずるずるという音と共に、地面に腰を下ろす。脇腹を抱えた。呼吸をするたび電気が走る様な鋭い痛みがあった。右の脇腹を両手で押さえた。地面を見つめる様に目を見開いた。いじめで殴られるのは慣れていたが、それでも、耐えられるほど体がタフなわけではなかったから、腹から這い上がる痛みに必死に耐えようと、力をいれた。

 少女の右膝が、くの字に折れていた光流の喉にあたった。顎が無理やり上げられる。すぐさま少女の小さい手が、光流の髪の毛を引っ張り、視線を上げさせた。

 苦しい。喉に圧迫感を感じながら、苦しさから逃れようと、必死に左手を少女の太ももに指掛け、退けようと藻掻いた。ただ、場違いな事に、晋平だったら、こういう状況を喜んだのかもなぁ、とどこか他人事の様に考えた。

 「何を知ってるっていうんだ‼」

 少女は強い語気で光流に問いかけた。声は可愛らしい。外見に似合わないな、と光流は場違いに思った。

「こいつの何を知っているっていうんだ! またお前も奇異な目でみるのか?」

 少女の瞳が銀色に煌めく。銀色の色別放射光はどういった事象を起こすのだろうか、と光流は不安になった。本来であればそんな事を考える以前に、動きまわった方がいい、という事は分かり切っていたが、其れすらも頭からは無くなっていた。その上、自己の防衛という点で何一つ行えない程に、興味が勝っていたというのが光流の足をその場に縫い留めていた。

 直後、足に違和感を感じた。

 地面から自分の足に何かが絡みつくのが見えた。銀色の虫の様にうねうねと蠢くそれは、がっちりと、光流と地面を縛り上げた。ぎりぎりと締め付ける様に地面へと押し付ける。感覚的にはロープで縛られている感じがした。視界が確保されているのであれば、それが銀のチェーンによって締め上げられている事は容易に判別できただろう。

「こいつをまた馬鹿にしにきたのか? いい加減にしてくれよ! あたしは何も悪い事してないじゃないか。くそっ!」

 次いで腕に違和感を覚えた。腹を抱えていた右手が地面に引っ張られる。左手も同様に。抗う様に光流も力を入れるが、まったく言う事が効かなかった。少女が違和感に気づいた様子で、眉をはの字に下げた。放射光はいまだに漏れ出ている。光流はその時、少女の表情と『色』に、乖離がある事が分かった気がした。制御できていない。そんな感じを受けた。少女は頭を振った。

「……まただ」

 少女の小さな唇からか細い声が漏れた。恐れる様な震え。その視線は光流の体に纏わりつく銀色の鎖を見ていた。現実への干渉に合わせて、少女の瞳の銀色は、燃える炎の様な陽炎をゆらゆらと立てていた。少女の力がゆっくりと抜けていくのが分かる。光流の喉を、体を押さえていた足がどけられた。キッ、と唇が結ばれ、少女は一歩、二歩と後に下がった。

 これは間違いない、と光流は確信した。『色』の使い方を知らない。そう結論づけた。

 呼吸が戻る。新鮮な空気を求めて息を勢いよく吸い込んだ。空気が肺に満ち、声が出せる事が分かった。

 途端、光流は叫んだ。

「目を閉じろ!」

「な、なんで?」

「視界を塞ぐんだ!」

 光流は少女に叫んだ。早く、早く、と急く言葉の波に少女は押されて、疑う様に目をゆっくり閉じた。手、足を拘束していた力が緩んだ。消失する力は霧散するわけでは無く、ゆっくりと逆戻しに再生されるように光流の拘束を緩めていった。

 時間にして十秒。十分だった。光流は腕の拘束の無くなった瞬間に、少女の目を右手で押さえた。

「何!」

「落ち着て、見ない。見ない。ゆっくりと呼吸して、落ち着て」

 光流は少女が落ち着く様にゆっくりとした口調を心掛けた。

 少女は半信半疑の様子だったが、光流の言葉に合わせて呼吸をゆっくりと始めた。

 少女の色別放射光がうっすらとしたものに変わった。足に纏わりついていた感覚がスッと消えた。

 光流はため息をついた。これでは、まるで『色』を始めて使った時みたいじゃないか、と。


◆◇◆◇◆◇◆


 光流は少女に公園の傍の自動販売機で買ったオレンジジュースを渡した。よく冷えた缶を受けとり、少女は礼を言った。汗のかいた缶から水滴が地面に零れ落ちた。

「ごめん。あたしが悪い事したのに」

 意気消沈する彼女の様子を気にした様子なく見ていたが、一向に視線を上にあげようとしない彼女に、光流は脇腹をさすりながら彼女の前にある手すりに腰を下ろした。その足音に反応して、少女が顔を上げた。

 二人は小さい駅前の公園にいた。人気もなく、すぐ話ができる場所という事で光流が提示したものだった。公園はさすがに遅い時間という事もあり、二人以外に姿は無かった。木々のざわめきは静かに二人の周りを回った。シーソー、砂場とブランコという簡素な造りではあったが、今の二人には十分すぎる空間だ。腰を落ち着かせるには十二分に役に立った。少女は今ブランコに腰掛け光流を見上げていた。

 光流は手すりの金属質の感触を確かめながら、

「気にしなくてもいいよ、僕も急に声をかけちゃったし……。結局気に障る事聞いちゃったわけだしね。それで蹴られたのなら、まぁ仕方ないかなって。ほら、蹴られるくらいなら――まだましだよ。僕なんて去年までしょっちゅうだったし。」

 光流は自分の目を指さして、乾いた笑みを浮かべた。

「僕の放射光もだいぶ『色』がわからないし、片目だけだろう? いじめでこんなのは日常茶飯事だったから、はは、気にしなくていいよ。殴られ慣れてるから」

「気休めになってねぇよ……」

 少女は肩を落とした。ふぅと一息ついた。手にしていたオレンジジュースをやっとの事でプルをあけ、一口含む。その様子を光流は見守った。

「悪かった――。いきなり蹴るというのは……正直なかったな。でも、周りから声を掛けてくるのは、変な物でも見た様に一様に『銀』を筆頭に言葉を出してたからさ。奇異な目で見るんだもん。……悪い、名前も名乗らずに」

「気にしなくても。僕は――星野・光流。よろしく――」

「あたしは、テレサ。テレサ・デ・ミラー。日本人の母とアメリカ人の父のハーフなんだ」

 光流は手を打った。だからか、日本語がうまいのかと納得した。尤も、それ以外に、日本人であってもその様な髪の色をしている人もいるしな、と思うと、自分が凝り固まった視点で物事を見ていたのだという事を再確認して、少し気恥ずかしくなった。

「外見は外人のそれだろう? 特に目の色とか。あたしは嫌じゃないけどさ。でも、生まれてからずっと日本に居るんだ。日本語以外しゃべれないっていうのに、あんたと同じく、いじめさ。英語でしゃべれって強要されたり、からかわれたり。」

 テレサは一口ジュースを飲んだ。こくり、とのどを鳴らした。その仕草につられる様に、一口缶コーヒーを飲んだ。苦い味が口一杯に広がる。あまり好きでもなかったが、子供っぽいとみられても嫌だったので選んだが、外れだったかなと、光流は思った。

「あたしはさ、その上『色』が無かったから、バカにされてたよ。能無しだって言われてさ。あまりにもひどいと思わないか。英語が喋れないから、とか、『色』がないから、とか。なんの関係もないっつーのにさ」

 テレサはうつむいたまま、缶を両手で握りしめていた。辛い事だろうに、ぽろぽろとしゃべってくれるあたり、さっきの軽口は意味があったな、と思えた。しかし、彼女の表情は曇っていた。

「相談する相手も中々居ないのはしんどいよね。僕には友人がいてくれたから良く話はできたけれど、テレサさんにはいる?」

 光流の敬称にテレサは苦笑しながら、テレサでいい、と言った。テレサは少し悩む様に眉を寄せ、

「――居ないんだ。みんな奇異な目で見るから。誰も彼もが怖くて、誰に話していいか分からないんだ」

 そっか、と光流はテレサの肩をポンポンと叩いた。

「辛かっただろう?」

 その言葉に、テレサは顔をゆがめた。どういっていいのか分からず、眉を寄せて、今にも泣き出しそうな程弱い表情。しかし、彼女の強さか、涙は流れない。その代わり口を横に結んで何かを耐える様に、光流を見つめていた。

「でも『色』を使えてたじゃない。それはどうして?」

 テレサはバツが悪そうに右人差し指で鼻をひっかいた。言葉を選ぶように視線を虚空にさ迷わせた。悩む様子も様になっているな、と他人事ながら光流は思った。もともと整った顔立ちで、目立つ銀色の髪、うっすらと光っている銀色の放射光は彼女の顔を浮きだたせる。白い肌を浮き彫りにして暗闇から引き立たせる様だった。

「あのさー。笑い話かもしれないんだけど、笑わないでくれる? あたしもどう、捉えればいいのか分からないんだ」

 真剣に見つめてくるテレサの視線に、光流は静かに頷いた。

「あれは、今年に入ってからすぐなんだ。まだ寒い時期で、あたしが十七になったばっかりだったんだよ。その日もいつも通り馬鹿にされててさ、一人で腐ってたわけ。家に戻ったって心配しかされなくて、それが逆に辛くってさ。

 その時にはまだ『通り魔』なんて出ていない時期だったから、警察もシビアに補導なんてしてないのは分かってたしね。うるさくされないのだから、って事で夜中に一人公園にいたわけ。ただ携帯見つめて、中学の時の仲良かった奴との履歴見てさ。連絡なんてそれっきりなのに、笑っちゃうだろう?

 その時さ、一人の男性に出会ったんだ。歳は四十くらいなのかな。あたしに声かけてくるなんて、大体迷惑なエンコーと勘違いした野郎ばっかなんだけど、その人は違ったんだ。あたしの――放射光が無いのを見て、悩んでるんじゃないかって声かけてきた。その人も微かな青色の放射光でね。自分も悩んでたんだって。色々話してくれたよ。自分の体験談、それこそ、あたしとは違う形のいじめって奴の話をしてくれたよ。ある時、青色なんだからって水にの張ったプールに手足縛られた椅子のまま落とされたりとか、洗面器に熱湯が張られててそれに顔を突っ込まれたりとか。ほんと拷問じゃんって思う様な事を職場でやられたんだって。仕事はやめて新しい仕事になったからって、カラっと笑っていたけど、あたしには辛そうに見えたよ。普通そんなんの平気な訳ないよ。どこかに歪ができるんだ。笑い方で分かる。光流。あんたの笑みだって同じさ。なんか足りないんだよ。上っ面だけの笑みだって、あたしだってそうなるのは分かるさ。――文句言っても仕方ないけどさ。で、その男から一つの物を貰ったんだ。それがこれなんだ」

 テレサは一つのプラスチックケースを見せた。エメラルド色したケースに青色の線が入っている。どこのコンビニでも売っているミント味のタブレットキャンディ。そう見えた。

「これさ、中身空っぽなんだ。あたしもそんなのいらないって言ったんだけど、使う時がくるからって聞かなくてさ。あたしにはどういう事か分からなかった。男が言うには、願い事一つに対して、一つの『飴』が出るんだって。それを食べると願いが叶うんだって。だから、必ず使う時が来るって言ってさ、あたしに押し付けてきたんだ。

 そんなの信じられるものじゃない。あたしが受け取ったのは、ただの物だよ。良くてゴミだと思ったんだ。だったら、自分でつかえばいいじゃないってあたしは言ったんだ。そしたら、自分の願いはもう叶っているって。次の人が使うといいってさ。誰に貰ったんだって聞いたら、『神様』だってさ。何だよって思った。どうせ飲んだくれの戯言だと思ったんだよね。

 でもね。

 あたしもこの状況が嫌だと思っていたからさ、だから、願ったんだよ。『他の人が持っていない色』を使えるようにって。そしたら本当に一つ、飴ができたんだ。あたし最初は怖かった。だからそのままにしたんだ。一日たって、それが夢だって思えるのかもしれない。そう思いたかった。でも消えないんだ。一日経っても、二日経っても変らない。カラカラと音がして、それが消えないんだ。だから、あたしも覚悟を決めてそれを口に放り込んで飲み込んだ。まずい、って思ったのは直ぐの事だったよ。体全体に痛みが走った気がしたよ。とても痛い、針の様な、あるいは、電気ショックの様な一瞬の物だったけど、とても一瞬には思えないほど長く感じて絶叫したのを覚えている。家だったけど、誰も来てくれやしなかったけどさ。

 しばらく気絶してたらしいけど、気が付いて、鏡をみて驚いたよ。色別放射光が全く今までに、見た事ない『色』をしていたからさ。最初灰色だって思った。白にも黒にもなり切れない『色』だって。それから街にでて一人また腐ってたわけ。そうしたらこの『色』の事をとやかく言うやつバッカ。珍しいからだろうけど、声かけられてイライラしたんだ。裏路地までついてきてさ、もう怒りの限界点にまで達してたんだ。そうしたら、目の前で『色』が発動したんだ。使う気はなかったのに、勝手に。イメージが先行してそれをなぞる様に鎖が出て、そいつを拘束した。だからあたし怖くなって直ぐに逃げた。だってパレットで監視されている。そんな中で『銀』なんてあたし以外にいるとは思えない。だから逃げたんだ。翌日ニュースになっていたよ。串刺しになっていたって。あたしは怖かった。呪われているんだって」

 光流、と名前を呼ばれた。テレサはタブレットケースを光流に向けた。細い指がかすかに震えているのが分かった。

「あたしはもうこれを使えない。使う気にならない。怖いんだ。だからあんたがこれを預かってくれないか。好きに使っていいから」

「もう一度願えばいいんじゃないか? 『色』を変えたいって」

 いいや、とテレサは首を振った。

「それはもうやったんだよ。願っても、それは応えてくれなかった。もしかしたら一度きりなのかもしれない。あるいは、何かがダメなのかもしれない。多分、『色』がついた者は、無色には戻れないんだろうって思う。他の色にもね。なれるのは……白色の人なら別かもしれないけどさ。ほらいっただろう? あたしは、黒でも白にも成れない灰色なんだって。……はは、まったく……あたしは人殺しになってしまったんだからさ。怖くて――仕方ないんだ」

 仕方ない、テレサは繰り返し呟いた。光流は、エメラルド色したタブレットケースを受け取ってその感触を確かめた。プラスチック特有のつるつるした感触が指先に跳ね返ってくる。何のことはない、そう思えた。

 光流は腑に落ちない思考が、彼の中にしこりとなっている事に気が付いた。テレサの告白は確かに衝撃を持っていたが、本当に彼女が『通り魔』なのか不明だったからだ。だから、光流は一つの行動を思いつく。

「あのさ。本当に君の『色』が人を殺めたのかい? それを最後まで見たのかい?」

 なんで、とテレサは視線で問う。

「さっき、目をつむったら力は落ち着いただろう。『色』を使うのには一つ条件があるんだ。直接、『見る』ことなんだよね。だから『逃げ出した』といった後に、君の力は霧散して効力は失っているはずなんだ。そのはずなんだよ。でもそれでも起きたというのであれば、それは特別な力なのかとも思う。一つ実験をしよう。難しい事じゃない。簡単な実験さ。ここにコーヒーの缶がある。それに『色』を使ってみてほしい。そして、ぐるりと公園の外周を回って戻ってきてほしい。どうだろう。難しい事じゃないだろう?」

「それは、そうだけどさ、本当だったら――」

 テレサは煮え切らない様子で眉を詰めて、肩をすぼめた。事実を知る恐怖感があるのだろうか。しかし光流は、事実誤認をしたままでは、彼女の名誉にもかかわるとどこか義憤めいたものがあったのは確かだった。

「無理にとは言わないけれど、いつか知るべきだとは思う。『色』ってどういうものなのか。一応その辺じゃぁ僕の方が慣れてるからさ。弱いけど、使えないわけじゃないから、色々練習はしたさ。どうだろう?」

 光流はまっすぐな視線をテレサに向けた。その視線に押される様に、テレサは小さく頷いた。

「わかったよ……やってみる」

 その声はどこか震えていた。


◆◇◆◇◆◇◆


 鈴木・小百合の前に光流は座っていた。小百合の黒い短い髪が窓から流れ込む風に時折揺れていた。きっちり揃えられた毛先は、一部の隙もなくぴっしりと並んでいた。おかっぱという髪型は珍しくなかったが、ここまで綺麗に似合う者は居ないと、光流は思っていた。

 光流の目の前には半分折りにされた書類の山と、その横にまだ折らなければいけない書類の山が積みあがっていた。風紀委員室には今二人しかいなかった。がらんとした委員会室は、最低限の物だけが置かれた部屋だった。元々物がないのだから、ここまで部屋が割り当てられる必要があるのか、と光流は思っていたが、委員長曰く、話合いをする場もないのは委員会といえども体裁が整わないと笑われた事があった。壁際に一つだけ用意された本棚も全部埋まっている訳ではなく、半分程しか埋まっていない。一般的教室の半分くらいの大きさの部屋は、中央にロの字に机が置かれ、その端っこにL字に二人が座っていた。

 副委員長を含めた多くの委員会のメンバーは、クラブ活動にいそしんでいた。手の空いている者は、校舎の中で荒くれた生徒に注意を促すために巡回に向かっていた。光流は『色』の所為もあり、その巡回に付き合う事はなかった。

 小百合の裁量で、面倒な事務仕事――特に毎月出す委員会紙の作成に駆り出されていた。小百合は、夏の間には不要とされているリボンタイをきっちりと絞めて、腕には風紀の文字が入った腕章をつけていた。黒い短い髪はぱっちりと毛先まで揃えられ、一部の隙も無いように理路整然と梳かれていた。黒い瞳にかすかに覗く黒い色別放射光が、彼女の『色』が『黒色』だということを語りかけ、どこか鉄壁めいたおどろおどろしさを持っていた。小百合の口元は柔らかい笑みを持っていたにも関わらず、そういった印象を受けるのは、彼女自身が持つ存在感に厳粛な規律がにじんでいるからに他ならない。

 彼女の力量は生徒間だけでなく教師間でも知らぬ者はいない。荒くれる生徒がいる中、彼女の『色』の強さに逆らえる者が居ないのも事実だった。漆黒の『色』は、重力の制御を行う力を持っている。単純に相手に加重する事もできたし、その逆もまた然り。しびれを切らして腕を上げようものなら、急激に加重をかけて反省を促した。その上、面倒見が良いものだから、長ったらしい口頭の注意をもらう事は必至だった。学校の荒くれ者も小百合の前ではタバコは控えていたし、暴力的ないじめはなくなっていた。

 今でも、作業最中、手を動かしながらでもペラペラと話す小百合の話好きな様子には、光流は少々気がめいっていた。

「さて、」

 小百合は眼前にいる光流に向かって二十分ぶりに話題を変えた。しかし光流は今、休憩でも欲しい気分になっていたので、この話題転換はうれしくもなかった。できる事ならば、お茶の一つでも差し出してくれる方が何倍もうれしい。そう思って、水筒に手をのばしたが、空っぽになっている事に気が付きがっくりと肩を落とした。光流の動きに全く気にした様子なく、小百合は、マイペースに口を開いていた。

「星野くんは1-Bの風紀委員だったかと思いますが、少し面白い事を聞いたので、お伺いしますわ。なんでも夜遅くまでバイトをされているとか」

「はぁ、学校にも届出してますし、問題はないかと」

 そうですね、と小百合は頷いた。この様に話を振ってきているのに、彼女の手は委員会紙を折る速度がまったく落ちない当たり、要領がいい事をうかがわせた。その様子がどこか機械めいていると、光流は感じていた。すっ、すっ、と紙を折る音が聞こえる。その動きは正確。聞こえる音の間隔も一定だった。

「届出の状況については、委員会に入る者、全員を事前に確認しておりますから、まったく問題にはなりませんわ。仮にそうでない人がいた場合、届出をしていただければいいだけなので問題ないでしょうけど。私も週に二度はバイトをしていますから、それをとやかく言うつもりはありませんわ」

 光流は、はぁ、と要領の得ないという相槌をした。

「ごめんなさい。何も咎めている訳ではありませんわ。ただ、最近物騒な物ですから、そのあたりの対策はきちんととっていらっしゃるのかという、単純な疑問になります。例えば、私の様に強い『色』を持っているわけでもないようですから、その様な状況に出くわした時きちんと対処ができるのかどうか、という心配ですわ」

「はぁ、有難うございます、――」

 光流は相変わらず回りくどい言い方をする委員長に頭を下げた。彼女なりの心配をしてくれていたらしい。その証拠に、表情が微かに、眉尻が下がり、光流に向ける視線が柔らかなものになっている様に感じた。

 しかし、きっぱりと力がな無いと言われると、事実だったとしても、中々堪える物があった。表面上は取り繕っても、心に刺さる物はあった。ずきりとするほどでもないが、光流はどこか、むっとした気分にはなった。顔には全く出さないが、口調はどこか固くなった。

「ですけど、駅前の人通りの多い通り通ってますし、之といって危ない事には会っていないかと思います。」

 でまかせである事は自分自身でも分かっていた。裏路地を通るのは常だったし、危ない事は一度遭っていた。しかし、小百合の弁に燃料を投下する事は避けたかった。小百合は、そうですか、と頷くと、

「そういう事であればいいのですが、駅前の公園で長らく女性の方とお話をされていたのを御見かけしたのは、『たまたま』だったということでよろしいのでしょうね。あそこは裏路地の中ですし。その上、ホテルの側でもありますから――、金銭の授受を介した様ないかがわしい関係をお持ちとは思いませんけれども、そういう事はないという事で――よろしいですわよね?」

「は、はぁ。た、たまたまですよたまたま。」

 内心ひやりとする事であり、どうしてそんな状況を見たのか、光流は問いただしたいところではあったが、それをぐっと堪えた。どきどきと脈動する心臓の音が、小百合にも聞こえやしないか、どこか心配になった。

「たまたま、ということであれば問題なにのですが。――本当に、たまたま、なのでしょうか?」

 小百合の手が止まり、光流を穿つ様な視線が向けられた。内心を見透かされる様な視線に心音がドキリと跳ね上がった。背にはじっとりとした冷や汗が流れているのを感じた。光流は小百合の視線を見る事ができなかった。その視線だけで、全部さらけ出された気がして、焦りを覚えた。少し声が裏返がそれを必死にとどめようとした。

「そ、そーですよ、何言ってるんですか。たまたま、会っただけで、そう、中学の知り合いなんですよ、ほら、同じ第二中学校だったんで。彼女ほら、銀髪で目立つじゃないですか。僕と同じでいじめに遭ってたから、良く知ってるんですよ。はは」

「星野くん」

 小百合は、一度ため息をついた後、もう一度視線をまっすぐに、光流の目を見てきた。その行動だけで、分かっているぞと言われる気がしてならなかった。心臓がつかまれたように胸が苦しくなった。

「本当に、何もないのですね?」

 これは尋問だ。そう思光流は思った。だらだらと流れる汗は、暑さの所為とは言い切れなかった。光流は手にしていた書類をぽん、と置くと重いため息をついた。

「嘘はつけないですね」

「それが、星野くんの良いところだとは思いますが、さて、どういった経緯で、どういった事なのか、お話いただけますか」

 まな板の鯉とは、こういう気分なのかな、と光流は思った。

 テレサとの件をかいつまんで話した光流の言葉に、小百合は静かに耳を傾けていた。その中にあっても手はきっちり動いていたから、自分と違うなと格の違いというのを見せつけられた気がした。

「という訳で、彼女の特殊な『色』というのを実験していただけです」

つまり、と小百合は口を挟んだ。

「星野くんが、ナンパをして、返り討ちにあって、珍しい『色』を見かけたので、さらに言葉巧みに夜の活動を打診したということですね?」

「いや、言い方! そんなやましい事してないですって。同じいじめ経験者としては力ないなりたいと思う訳ですよ」

 そうですか、と小百合は頷いた。いつの間にか小百合の前に会った書類の山が片付いているのに気が付いた。光流はしぶしぶと手を動かしながら、

「彼女が『通り魔』でない事はわかります。彼女にそんな余裕はなかったでしょう。――手は早いみたいですけど。でも武道をやっている様な感じもなく、フラストレーションの増大によって、周囲に喚き散らす様な……そういった駄々をこねた物に近いと思います」

「それは星野くんが経験したことがあるからわかるのですか?」

 光流は静かに頷いた。過去に何度となく経験した苦い思いは、光流の中で確実に人生の糧となっていた。それを参考に導き出した答えであるのは間違いない。

「僕の場合は自分に跳ね返ってましたけどね。はは。家は共働きだから人は居ないし、姉も無関心だったから。晋平が良く気にかけてくれてはいました。だからあまりイライラする事はなかったかもしれませんが」

ふと、小百合がむ、とした表情をした。光流は、どうしたことかと思ったが、次の言葉をきいて、何となく納得した。

「晋平というのは、竹林くんの事ですか?」

「そうですけど、まだちょっかい出してます?」

 珍しく、小百合が頬を膨らませた。

「……毎日です。注意をしても聞かないし、どうしたらいいやら、というところですわ。彼の『色』の使い方も熟練さが増していますから、パレットにはひかっからない物でしょうけど、被害に遭う方にしてみればあまりにも気持ちのいい物ではありませんわ。じっくりと話しもしたのに、喜んで注意を聞く様を見ると、少し――嫌気といいますか、怖気といいますか。まま、良いですスカート押さえていれば問題ない程度の問題ではありますから、やれ、タバコだ、やれ薬だといった者たちよりは全然健全ではありますけれども」

 はぁ、と光流は苦笑いをした。晋平には今度あった時にでも脈が完全にない事を伝えてあげるべきだと、光流は決心した。このままではただの犯罪者になるだけだ。きっぱりと諦めてもらった方が身のためというものだろう。

 小百合はわざとらしく咳払いをすると、

「とにかく、危ない事には手を出さないほうがいいと思いますわ。話を聞く限り、本当の『通り魔』というのがまだいる状況じゃありませんか。私が思うに、それは案外近くにいるのやもしれません。特に、あの様な目立つ方であれば、それを『餌』にしている可能性も考えられますわ。気を付けなさいな。絶対という安全な物はない以上、人は自分で身を守るしかないのですよ。特に星野くんの状態を鑑みれば、誰かに打ち勝つという物ではないと――僭越ながら申し上げます。もう一度はっきり言いますが、貴方は弱い、ということを自覚なさった方がいいかと思いますわ。興味はあるのでしょうが、ほどほどになさい。これは年長者としての忠告ですわ」

「はぁ。まぁ、肝に銘じておきます」

それで、と小百合は光流の机の上を指す。まだ書類が半分程残っていた。

「それを半分頂きます。――この様に、誰かの助けを借りるのも一つですわ」


◆◇◆◇◆◇◆


 雨の上がった公園に、光流は晋平を呼び出していた。見るからに嫌そうな顔をしている晋平は、光流の首を捕まえると、きっちりと腕でホールドした。

 「なんで、こんな時間に呼びだすんだ?」

 「だって暇でしょ? それに、ほら、晋平に送ったとおり、鈴木先輩に言われたから?」

 「だからってさ、よりにもよって、俺を呼ぶっていうのは、あまり意味ないんじゃないの」

 晋平は呆れた様に目を細めると光流を窘める様に見た。その視線は光流を値踏みする様に見ては、面倒くさそうに遠くへと移した。

「なんでさ。腕っぷしでいえば、僕よりも強いじゃないか」

 そこかよ、と晋平は苦笑いした。光流にとってみれば、いじめが起きない背景には、晋平の腕っぷしの強さが起因しているというのは分かっていたから、いざという時に役に立つ――頼りになる友人だとは思っていた。

「それに、」

 光流はつづけた。

「鈴木先輩の脈はないよ。晋平の事を羽虫の様に思っている感じはしたけど――結構な言い方だったよ。さすがに、あれでは――無理だろうね。いや、直接聞いてるのかもしれないけど、『怖気』という表現だったから、生理的に受け付けないのかもしれないね」

 晋平は腕を組んで、光流を見た。

「まじかー……まじかー。いやアプローチとしては間違っていなかった気がしたが。いや、もしかしたら恥ずかしがっているのかもしれないしなぁ。いや……どうなんだろ」

 尻すぼみに独り言を話す晋平は、うーん、と腕を組んで唸った。光流は肩をたたいた。

「いや、普通に小学生じゃないんだから、ダメでしょう。で、だからさ。テレサさんに会ってみたらいいじゃないって事で、来てもらったわけ」

「なに、間取り持ってくれるの?」

 と、晋平は眉をひそめた。

「それは分からないけどさ。小学生みたいな事、もうやめよう。は、ず、か、し、い、で、す!」

 一音ずつはっきりと光流は告げた。しかし目は笑い、口元もにやけていた。

 晋平は再びうーん、と唸った。二人は駅前の公園に来ていた。時刻は二十時半を回ったころ。バイト直後の光流に、晋平が合流した形だった。テレサもこの時間あたりに外に出ているらしく、時間的にも丁度良いと言う事で、少し遅いこの時間になった。テレサにとっても、宛がなくふらふらと駅前を歩いているよりは、安全だろう、という光流の配慮はあった。尤も駅から五分程にあるファミレスにでも行くのも一つかとも思ったが、テレサの『色』の練習には向かないため却下した。

「よぉ」

 光流の背後から声がかかった。乱雑な口調だが、可愛らしい声。視線を向ければ目に飛び込んでくるのは、紫色の濃いTシャツ。端に小さくショッキングピンクでウサギの様なキャラクターが描かれていた。ホットパンツから覗く足は白く、日焼けを感じさせない。星のマークの入ったスニーカーを履いていた。銀色髪が風に乗り、左右にゆらゆらと揺蕩う。銀色の色別放射光は暗闇の中でよく目立った。美しい顔立ちに濡れた様な唇。

 テレサで間違いない。

 光流はにかっと笑い、手に下げたビニール袋から一本炭酸飲料を取り出して彼女に渡した。

「や、今日は僕の友人を連れてきた。僕よりも『色』の使い方に慣れているから、いいかと思って」

「そっか。余りうまく使えないから、頼むよ」

 ほら、と光流は固まっている晋平の脇腹を肘で小突いた。晋平は、ピクリと体を震わせると、裏返った声で、

「は、はじめまして! 光流の友達の竹林・晋平です!」

「あ、うん、よろしく。あたしは、テレサ・デ・ミラー。テレサでいい」

 テレサは、晋平の言葉に押される訳でもなく、軽く頷いた。ちょっとちょっと、と晋平は光流の首に腕を回すと、回れ右させてテレサに背を向けた。二人して頭を突き合わせた。晋平は、声をひそめてはいたが、絶叫に似た裏声で

「はー? なに、こんな美人な訳? ちょっと俺、自信ないんですけどー!」

「まぁまぁ、大丈夫、大丈夫。話分かる人だから。怖くないから」

 そうじゃねぇ、と首に回した腕に力がこもる。痛いな、と光流は思いながら、体を少し曲げて逃れようとしたが、がっちりと抱えられて逃げる事はできなかった。

「怖いとかじゃなくて、なんていうか、――いいのか? 俺が?」

「何を動揺しているのか分からないけど、教えるのくらいできるでしょう?」

「そりゃまぁ。――ははん。なるほど」

 何を納得したのか、晋平は怪しい笑みを浮かべた。

「あのさ、あんまり変な事かんがえないでよ。一応交友関係疑われる様なら、今後の付き合い方考えるよ」

 心配そうに眉をひそめた光流に、はは、と晋平は笑った。腕を放し、向き直ると、テレサに満面の笑みを浮かべて手を伸ばした。

「よろしく。簡単なところからやろうぜ」

「あぁ」

 テレサは晋平の手を軽く握り返した。


 『色』には全部で六系統二種の力があるとされている。このテレサの持つ新しい力が、『色』であるのであれば、世界に干渉する力は、使う者のイメージが重要だった。だから、晋平は想像しやすいもので行う事にした。光流にコンビニで箱入りの菓子を買ってこさせた。

「中身はさっさと食うとして、だ。イメージし易くて実害の無いっていったらこんな物しか思いつかなかったが、ともあれ、『銀』は縛り上げる事ができるのは分かっているからさ、そこからやってみようぜ。物を縛る時に、光流は痛いくらいだったんだろ?――だとすると、元来制御ができない物なのか、制御ができるけれど、テレサが制御できていないだけなのか、それを判別しないといけない」

 箱をぺりぺりと真ん中あたりからミシン目に沿って開けて、内袋を取り出した。内袋に入った菓子を光流に投げ渡すと、再び箱をミシン目にそって元に戻した。それを地面に置いて、

「仮に、俺でやるとするとこうなるんだけど、」

 晋平の両目が緑色の放射光を放った。ゆっくりと、菓子の箱の周辺に風が巻き起こる。渦巻く様に立ち上る風が、箱をゆっくりと反時計回りに回転させて浮き上がらせた。ひざ丈くらいまで持ち上げるとそのまま停滞した。くるくると箱が回っていた。

「こんな風によ。突風じゃなくても制御できるわけ。だから、『色』なら制御できる。はずなんだわ」

 なるほど、と光流は頷いた。

「光流の場合は、『色』が薄すぎて、効果がでないんだけどさ。それでも強弱はついてるんだと思うぜ。これくらいの制御は今なら小学生でもできるだろう。で、」

 晋平は『色』を止めた。箱はぽとん、と地面に落ちた。すぐに箱を地面に置きなおすと、

「やってみ、まずは箱をつぶさないイメージで。感覚がつかめないならまずは縛り上げるだけでいい。箱がつぶれてもいいさ。光流の驕りだし」

「あ、僕持ちなんだ。ま、いいけど」

 そう言うと光流はすぐさま、菓子の内袋を開けると一つ口に放り込んだ。チョコレート菓子が口の中で甘さを広げた。もっと買ってくればよかったかなと、夕食を食べていない光流は場違いなことを考えた。目の前ではテレサが緊張した面持ちで『色』を使い始めた。

 何度か挑戦してみると、確かに力の強弱ができる様だった。最初は箱を盛大につぶしたが、二度目は拉げる程度、三度目に至ってはまとわりつく程度に制御ができた。

「無意識下でそれを行うのが慣れなわけだから、何度も、何度も、自転車と同じように練習するしかないわな。」

 晋平は得意そうに胸をそらした。

「そっか、物に使ってみればよかったんだ。いつも、人相手にでてたから、動物にしかだめなのかなって、だから、猫とかに夜道でやってたんだけど、逃げられて……」

 だから、夜道で銀弧が走ったわけか、と光流は納得した。

「それは危ないよなぁ。元々訓練するなら、無生物でやった方がいいとおもうぜ。特に『色』の加減が必要な物は慣れるまで結構時間かかるしさ」

それで、と晋平はいったん区切り、咳払いをした。

「で、ですよ。問題はここからで。もう一つあるのかどうかというところなんだ。これが問題で、既存の『色』ならもう決まっているからいいんだけどさ。新色なんてどう対応したらいいんだ?」

「あたしも分からない。何か湧いてくるってわけでもないだろうし」

うーんと二人は腕組みをする。

「昔話ではどうなってたっけ?」

 光流は晋平に何の気なしに問いかけた。

「昔話かぁ。『神様』からもらった『色』は最初から決まってた――訳じゃなくて、それぞれにエピソードが存在しているな。『白』は人が彷徨うのを避けるために、星の光を強くするために明かりを操れたとか、大陸から海を渡るために、氷に乗っていくために温度を操れたとか、って言う物語があるわな」

 うん、と光流は頷いた。一度お菓子を口に放り込むとちょっとの間考え、

「そこにヒントは――ないかぁ」

 なんだよ、と晋平が笑いながら光流を小突いた。

「あとは、噂通りか確かめるっきゃねぇかね」

 光流とテレサが顔を見合わせて、

「串みたいなものがでるか?」

「――そうだ。まず、この『色』は虚空から鎖を出して見せた。『赤』の炎が何の燃料もなく燃えるのと同じさ。イメージが先行している。だから、其れも生み出せるんじゃないかって。効力は確認しただろ。見てないと『色』は発動しないし、自然消失する。だけど、見ている間であれば?」

「生み出される……」

 かもね、と晋平は笑った。テレサにとってみれば、それを知るという事は必要だと感じているらしく、うん、と縦に首を振っていた。しかし光流は別の考えを持っていた。

「いやさ、仮に……できたとしたらの話をするけど、それって、『銀』が金属を生み出すってだけではない? 同じ物質であれば同種の『色』の特性だって言えるんじゃないかな?」

 晋平はケロリと頷いた。

「そりゃそうだろう。もう一つにはかかわらないとも思えるし、でも、関わるとも言えなくない。というのも、形状の変化ができるのであれば、その『色』はそれを生み出すという力だ。そうすりゃ、それ以外の事が関わってくるんだってね。それに、できないって分かったのなら、テレサの杞憂も晴れるんじゃないか?」

 テレサは頷いた。それはやるぞ、という気概に満ちた物だったから、光流がとやかく言う事はないな、と一歩下がった。

「ま、とりあえずやろうぜ、あんまり遅くなっても――テレサがあぶねぇだろ。俺らは家近いからいいけどさ」

「あたしも、家は近いよ。南側だけど」

 なんだ、と晋平はうなずく。「南側確かに公園なんて、一個もないもんなぁ。緑地帯も。駅前までは近いだろうけど、工場地帯だから大変だわな。あそこ、二十四時間稼働してるんだろ?」

 まあね、とテレサ。諦めた様にため息をついた。それは、光流も知っている五月蝿さからだろう。昼間にたまに通るだけでもかなりの騒音だというのに、それが二十四時間ともなれば、それは嫌になるほどだというのは、想像するに難くなかった。

「車の出入りは多くてうるさいし、工場の臭いもひどいし。まぁ家賃は安いんだろうけどさ」

 腰に手をあてて、ため息をついたテレサは、一度目を閉じ、二人を見比べた。直ぐに、意を決した様に、やろう、とつぶやいた。

 色別放射光が漏れる。銀色に輝く色は力を体現するために、世界に事実を刻む。今、テレサの脳裏には金属で形成された串がお菓子の箱を貫く、というイメージが浮かんでいた。それは物理現象に何ら左右されるいわれはない。

 彼女のイメージは、始めは夢の様に淡い物だったが、徐々に鮮明さを増し、それを結実させようと、『色』の間隔をぞわりと首筋辺りから与えた。

 第三の手が生えた様に自分の見えざる手がゆっくりとそれを形作ろうと流水の様に蠢ているのを感じた。お菓子の箱が揺れ動いた。

 地面からかすかな振動を受けてずりずりと身を捩る様に動いた。『色』が結実した。

 「だめだ」

 テレサは小さく零した。眼前にある箱に影響は出ていた。地面から浮き上がるように箱が持ち上げられていた。しかし、箱を貫く力にはなりえなかった。底面に少し盛り上がりがあるのが見えた。光流が箱を持ち上げた。じゃらじゃらとした音が聞こえた。鎖。そう認識して間違いがない。テレサは安堵した様に肩を落とした。

「イメージは違ってない。あたしの使い方が……間違ってるのかもしれないけど」

「それでも、『今』できない事は分かっただけいいじゃない」

 晋平がテレサに、満面の笑みで笑いかけた。


◆◇◆◇◆◇◆


 蒼樹・真紀は一人、駅から家路を急いでいた。夏の蒸した大気が地面から競り上がってくるのを感じた。先ほどまで降っていた雨の所為だろう、そう思い傘をくるり、と真紀は右手で回すと、一度空を見た。もう雨は上がっていた。黒い雲は遥か彼方に流れ、今は月が出ている。満面の笑みを浮かべる月は、明るく世界を照らしていた。

 昨今の『通り魔』なる者が出始めてから、あまり遅くにならないようには気を付けていたが、小学生から続けている水泳の帰りとなると仕方なかった。沿線にあるスイミングスクールは、他の運動施設――ジムや、屋内テニスなど――を含めて地上五階分の建物を持っていた。夜空に突き抜ける様に明るい照明が強く道路を照らしていたから、駅まで二分の道のりというのはそれ程不安になる物ではなかった。

 しかし駅から、一歩路地に入ると姿は一変した。約五十メートル間隔程度の防犯灯は淡い明かりを出していたものの、シャッターの閉まった商店街には人通りは少ない。その上、所々影が濃くなるため、少し物騒だな、と真紀は思っていた。ここが一時間前まで店舗の明かりで真昼の様に明るかったというのを想像する事ができない程に、暗い。どこも二十時を回る頃には示し合わせた様にシャッターを閉める物だから、時刻を過ぎた途端に世界が一変した様に感じる事もしばしばだった。

 多くの店がもう少し、まばらに閉めてくれれば、もう少し明るさは残るのだろうに、と真紀はいつも思っていた。例えば、洋菓子を提供している喫茶店『竹取』がもう少し遅くやっていたりすれば、疲れた体と空腹を満たすために、シュークリームの一つでも食べていきたい、と思っていた。赤レンガを彷彿とさせる壁材は先ほどまで暖かいオレンジ色の光を浴びてくる者を迎え入れていたはずであるし、シャッターに閉ざされた大きな入口から覗く、ショーケースには色とりどりの洋菓子が視線を楽しませていたことだろう。微かに残った甘い香りが、疲れた脳に入り込んできては、体を突き動かし、甘い物を要求してくることだろう。

 想像するのはカスタードクリームのたっぷり入ったシュークリームが最初だったが、次いで生クリームのたっぷりのったイチゴがのっかったケーキが連想された。口の中にそこはかとなく感じる甘味を想像し、口いっぱいに広がるであろう、なめらかさを思い描き、生唾をごくりと飲み込んだ。

 しかし、真紀の視線の先には灰色のシャッターが冷たく、青白い防犯灯の光を浴びて冷え冷えと聳えていた。ズーンと音を立てて脳裏に描いた情景が消えた。あぁ、と泡と消えるのを止められなかった。両腕を一杯に伸ばして霧散した景色を集め直そうかと思ったが、自身の行動に寂しさを覚えて、重い溜息をついた。

 はぁあ、という重い、重い溜息は、雨に濡れた大気と同じ様に、地面へと落ちていった。それは這い上がる出なく、真紀の足元に水たまりの様に溜まっていくことだろう。黒いリュックを一度背負い直すと、トボトボと歩きだした。雨が降っていなければ自転車で来ていたが、雨の所為もあってバスで行くことになっていた。帰りもバスを使えばよかったか、と思ったが、バスロータリーから五分ほどの位置にいたから、歩いても大して変わらないと思い、歩く事にした。

 商店街が切れる。住宅街はもっと人気が無くなった。歩いて居るのは真紀くらいなもので、車の通りもまばらだ。大きな通りからは二本は奥まった位置にあるから、仕方ないとも思っていたが、不安になる、というのも事実であった。

 両側に家が立ち並び、車一台が通れればいい様な狭い道路には、側溝の工事が途中なのだろうか、黒と黄色のストライプ柄のフェンスが、道路の一部にせり出していた。御迷惑をおかけします、と定例的な文言が目についたが、自分には何の影響もないよ、と毒ついた。

 各々の家には明るい明かりがついているのが見えたが、道路までは完全に照らす事はできず、濃い印影を作り上げていた。

 前に人影が見えた。こちらに向かってくるのが分かる。スーツ姿であるから、会社の帰りなのだろうか。少しよれたジャケットを夏だというのに律儀に着込んでいる。いくら夏用のスーツだったとしても暑いだろうな、と少し社会人というのがかわいそうに思えた。自分もいずれはそうなっていくのだろうか、そう思うと少し憂鬱な気分になった。

 真紀は相手を避けるため、左に進路を取った。人影は真っすぐ歩いてきた。相手の歩幅は真紀の倍近くはあるのだろうか、迫る速度が速い。疲れているだろうから、早く家に帰りたい、そういった雰囲気がある様に思えた。

 当然だ、と真紀は思う。

 真紀にしてみても部活が終わった後に、また泳ぎに行っていて、へとへとにはなっている。そんな中でいつまでもだらだらと時間を過ごすよりはさっさと、ベッドの中に潜り込みたいという思いはあった。前からくるのは男性の様だった。防犯灯の明かりが男の背後から光り、シルエットを克明に浮き彫りにさせた。長身。神経質そうに撫でつけられた髪、手に持ったバッグは良く使い込まれて色濃くなっていた。

 男とすれ違う。

 なんの感慨もない。

 ただ、通り過ぎるだけ。

 すれ違う瞬間、一歩だけ、速足になった。


◆◇◆◇◆◇◆


 光流は、家路を急いでいた。三人で会っている間には感じなかったが、途端に襲う空腹に、もう少しまってくれ、と謝罪をしながら、走るように家に向かっていた。

 一時間程度だったにもかかわらず、晋平はテレサを送っていくといって一緒に南側へと歩いて行った。光流は取り残された感じを受けつつも、良いか、と思考を切り替えて、夕飯のことを考える事にした。バイト先の賄いをもらってはいたから、家に帰ってからそれを食べればいいかと思っていたが、迫ってくる空腹が、それだけでは足りない、と警報を鳴らしていた。

 だから、まっすぐ帰るというよりは、真紀の家の側を通って、コンビニに寄ってから帰るか、となったのは必然だった。

 口の中に残る甘い香りは、チョコレートの物だろうか。鼻腔をくすぐり、より空腹へと誘う。下手に食べなければよかったか、と後悔はしたが、コンビニによっても家路はそんなには変わらない。期待めいた物が脳裏をかすめ、コンビニに並んでいるであろう、味の濃い商品を思い描いた。

 暗闇の道路にせり出した、黒と黄色のストライプ柄のフェンスが左手に見えた。そこを曲がっていけば真紀の家だな、と思い、視線を動かした。

 銀弧が暗闇に走った。

 見かけるのは二つの影。途端、うめき声が聞こえ、視線をそちらの方向に固定させた。

 体が強張るのが感じた。足に力が入る。びくりとして肩を震わせ、何、と頭が答えを求めて思考した。

 光流から見れば暗闇に出来事。遠くに輝く防犯灯は、二人のシルエットしか浮かびあげていなかった。片方の影が足を引きずる様に遠ざかるのが見えた。何かあった、というのは間違いないようだ。明らかに、数舜前と動きが違う。その二つのシルエットの中で片方は転げまわる様に大きい影から逃げていた。

 再び銀の筋が見えた。青白い光をうけて、邪悪にそれは地面から姿を現した。天に伸びる竹木の如く、隆起したのは一本の錐めいた円錐形。細く、貫く、を体現した形状は、光流から三十メートルは無いにしても、背筋にぞくぞくとした恐怖感を与えてきた。槍だ。そう思った。肉を突き刺すために設けられたというのであれば、そうであろうと納得する。そんな物がどうして、と光流は理解できぬ思考で模索する。答えは出ないのは分かっている。しかし、脳裏にテレサの顔が一瞬浮かんだ。それを払拭。

 走る。

 大地から生えた槍は三度目。転がるシルエットが見えた。それは女性の様に見えた。

 光流は突如走り出した。大きな靴音を響かせて、突進。

 流れる風は、全身に冷や汗を噴出した光流の体温を如実に奪い去っていく。まるで氷の中に入った様な、急激な冷たさを光流は感じた。それは滝の様に流れた冷や汗の所為かもしれない。

 立っている影が光流の姿を見て慌てた様に見えた。姿は分からないが『それ』が危険な者だという事は分かった。

 光流は背負っていたリュックを思いっきり投げた。盛大な音を立ててリュックが立った影にあたった。ガランガランという金属に何かが当たる様な音は、中に入っていた筆箱の音か。そういえば、賄いも入っていたなと少し後悔した。

 驚いた様に、立った影はそれを受けた。両手で顔を守る様な仕草が見えた。

 すぐさま横たわっている影を確認する。右足を抑えながら、体をくの字に追って地面に転げていた。それは女性か。今目の前に居る暴漢によって『襲われた』という事を光流は理解した。

 光流は直ぐにその影の脇に腕を入れると、防犯灯の明かりが降り注ぐ光の中へと引きずった。思ったよりも軽い。そう感じた。

 うめき声が聞こえる。しかし、立ったままの影から視線を外せないでいた。

 投げたリュックが相手にあたって地面に転がる。ボスッという、こもった音が耳に届いた。

 光流の色別放射光が漏れる。右目から、ゆらゆらと陽炎の様に揺らめいた。弱い力だ。しかし、これだけ明るければ多少の事はできる。

 光流は軌跡をイメージする。眼前に立つ影の顔に光をぶつけるための光跡。光の筋が当たれば、まぶしさに視線をふさぐしかない。それは、『色』の発動条件を満たせない。

 確定する事象が世界を書き換える。一条の光が眼前の影に伸びた。

 一瞬の攻撃。稲妻の様に走るその光は、相手の顔に強烈な光を浴びせた。

 光流の両手に力がこもる。焦りもあった。

 立っているのは男だ。白いワイシャツがまぶしい。

 男は強烈な光に顔を両手で押さえて呻いた。

 光流は叫んだ。

「どっかいけ! 次はもっと強くいくぞ!」

 光流の瞳に色別放射光が宿る。先ほどよりも、脈々とした白色を。

 男に向かって光流は言う。早く、早くと。

 それは、焦る気持ちを抑える様に、自らに言い聞かせる様に。何度も、何度も口から出た。

 ガラガラと戸が開けられる音が聞こえた。光流の声が住宅街に響いたのだろう。どうしたことか、と二階から、一階からあちこちから視線が来る。

 男が背を向けた。

 即、走り出したのが見えた。

 すぐに豆粒ほどになった。

 光流は、全身の力を抜くと、ため息をついて下を見た。

 「――真紀?」


◆◇◆◇◆◇◆


 晋平が光流の肩をたたいた。肩口にはよく冷えた缶コーヒー。あまりコーヒーが好きでは無かったが、友人からの差し入れを光流は「ありがとう」の一言と共に受け取った。

 時刻はいつもの昼時。ガシャンと盛大な音を立ててフェンスが風に揺られていた。いつか落ちるんじゃないか、と光流は思ったが、誰も気にする事はなく、皆定位置で昼を過ごす。

 いつも集まって居るメンバーは変わらない。四月から五月で大体の住み分けが勝手にできて、場所もほとんど変わらない。光流たちはベンチに腰掛けて暑い太陽の熱を真正面から受けていた。

 茹る。

 額にコーヒーを載せるとひんやりとした感じが全身に広がっていく感じを受けた。熱風が通り過ぎる。青いFRPが持った蓄熱がドロリとして二人の殻を撫でた。気持ち悪い風の洗礼を受けながら、光流は軽く息を吐いた。口の中はからからに乾いていたから、大気の湿った感触もどこか瑞々しかった。

 缶コーヒーを左手に持って、プルを開けた。気持ちのいい音がして、冷気が湯気の様に立ち上った。

 一口。

 含んだ瞬間に襲ってくる冷たさと、甘さ。苦味はどこかに行った様だ。さすが、マックスと記載されたものだな、と納得する。コーヒーというよりは、コーヒー風味。でもその甘さが今はどこかうれしかった。

「蒼樹は大丈夫なのか?」

 晋平は光流を見ずに、購買で購入したパンに齧りつきながら尋ねた。フルーツが挟まれたサンドイッチ。見るからに甘そうだったが、それをうまそうに頬張っていた。

「大丈夫といえば大丈夫。足に怪我だって。結構深くて出血が多かったけど。かなり鋭利だったから治りは早いって笑ってた。それでも全治二か月だっていうんだから、相当ひどいよね」

 そっか、と晋平が頷いた。光流も再びコーヒーを飲む。どこかに滞留する苦みが、胸の奥に広がった。

「よかった、のかな。あれでって。思う」

「なんで? 光流が悩むわけ?」

 晋平は目を丸くして光流を覗き込んできた。光流はどこか思いつめて遠くに見える入道雲を見た。

「あんさー、光流は良くやったんじゃないの。だって蒼樹の命は助かってるんだしさ」

「そうだけど、僕の力じゃ、追い払うのがやっとだったよ」

 当たり前だよ、と晋平は笑った。

「俺だって同じだろうよ。あのな、」

 晋平はフルーツサンドを飲み込むと、右手側にいる光流に向き直った。右手の人差し指と親指で輪を作ると、光流の額にデコピンを一度した。大した痛みではなかったが、突然の衝撃に目を閉じて光流は驚いた。

「急に起きた出来事に、今、光流は驚いた」

 晋平は真面目な顔をした。しっかりと光流の目を見てきたため、光流も構えて耳を傾けた。馬鹿にした訳でもない、というのを感じた。

「普通、急に起きたらそんなもんだろう。よく考えてみ。自分の目の前で交通事故があった。何ができる? 怖いと思うのと、自分に来なくてよかったって安堵する。大丈夫だろうって思うのは二の次で自分の事をまず考える。当たり前だよな。その程度が普通なんだよ。普通じゃない事をするのにはすごい勇気がいるもんで、それが少しでも揺らいだたら足が竦んでしまう。

 部活やってる時に、トラックを走ってたら、サッカー部の奴がゴールポストに激突して腕折ったのを見た事があるんだけどさ。すごい速度でぶつかって、多分勢いついちゃって止められなかったんだろう。だいぶ競ってたし。そしたら、腕からガーンってぶつかってさ。ピンボールみたいに逆に跳ね返ってるの。あれ、後で知ったんだけど、一のEの祐輔だったって。あいつ入学した時からサッカー上手いって有名だったろ? だから一年でレギュラー取れるんじゃないかって張り切ってたんじゃないかな。だから、相当力んでたっぽくてさ。立ち上がったら腕がぷらーんって。

 その時、俺、何もできなかったよ。目の前だったのにさ。同じサッカー部の奴が顧問呼んできてやっと『あ、なにかしなきゃ』って思ったよ。

 腕の骨が飛び出てるのみえて、『あ、やばいんだな』ってわかってても、何もできないって。

 一般人ってそんなものなのに、何悩んでるわけ? 蒼樹を助けたじゃん。それで十分だよ。その上でアメコミのヒーローみたいに何かっていうのは無理だって。それは『フィクション』だからできるんであって、現実にはできるもんじゃないだろ。後悔するところねぇって」

 光流は、うん、と力なく頷いた。分かっているのに、もっと他にできたのではないか、と考えてしまっていた。

「気にすんな、気にすんな。光流が褒められこそすれ、それ以外はないって。――ただ、午後には警察いくんだろ? 授業受けれなくて残念だなぁ! バイトも怪しいかもしれないとか、爆笑だよな!」

 からかう様にけらけらと晋平は笑った。いらっとして、光流は無言で晋平の足を蹴った。しかし、ひょいっと足をずらして晋平は避けた。お返しとばかりに、光流の頭に手を置くと、ぐりぐりと髪の毛を混ぜた。すぐさま、冷静な声で、

「ま、頼むぜ。蒼樹の事もあるだろうけど、身近で起きておっかないって思ってんのは皆同じさ。警察が少しでも逮捕してくれるように、光流の見たもの、全部きっちり話してやってくれよ」


◆◇◆◇◆◇◆


 晋平とテレサは駅前のファミレスに入っていた。四人掛けの椅子に二人が向かい合う様に座っていた。テレサはいつもと違い、今日は制服を着ていた。話を聞けば登校日だったから、と返してくる。半袖のシャツに短いベージュ色のチェック柄のスカート。ローファーの足元には白いソックス。大き目の肩掛けのカバンを持って現れた時には、別人かと思えたほどだった。ウサギのキャラクターのキーホルダーをカバンの持ち手の根本にたくさんつけていた。動くたびにジャラジャラと音を立てていたが、今は彼女の右手の窓の有る当たりに置いていた。

 晋平も部活帰りなのか制服のままで、暑いのだろう、ワイシャツのボタンを上一つ外していた。巨大な赤いリュックを自分の隣に置いていた。

 時刻はまだ午後六時を回ったところと、いつも会う時間よりは早かった。

 光流からの言伝で、二人はこの場で待ち合わせをしていたが、当の光流がいつまでたっても来なかった。さっさとドリンクバーとフライドポテトだけ頼む。晋平の前にはコーラに氷が浮いている。テレサの前には涼しい緑色したメロンソーダ。

 時間を持て余していた晋平はテレサに、光流が大変だったということを話した。テレサは、そうなんだ、と考え込む様な表情を浮かべた。自分自身がいままで『犯罪者』だと思っていた所もあるのだろうか、その疑いが晴れる出来事が起きて、どこか安堵し、どこか釈然としない、そういった複雑さを持っていた。

「そんなんだからさ、まだ警察にいるんじゃないのかな。午後からずっとだから、結構立つよな」

「本署にいってるんでしょ? ここまでなら歩いてもすぐだよね」

 晋平は小さく頷いた。駅前のファミレスから本署まで近いという利便性は分かっていたから、光流がこの場所を指定したのは明白だった。

「学校からならチャリで十分かからない程度だし、ここまで五分とかからないと思うんだけどな」

 そうなんだ、とテレサはメロンソーダを一口飲んだ。口の中に甘味が広がっていった。クーラーの効いている室内であっても、窓から差す陽の暑さと、体の中に残った熱で暑いと感じていた。火照っていた体に、氷の刺す様な冷たさを含んだ飲み物が、すーっと吸い込まれていき、心地よく、一息ついた。

「近くていいよね。あたしなんて電車で一時間はかかるよ。通信授業が基本だからまだいいけどさ。週一の登校日は結構、憂鬱」

 はは、と晋平は笑い、鼻の頭を掻いた。

「俺なんて行くのチャリで二十分だけど、遅刻になりそうになるもんな。一時間とか絶対無理無理。近場でよかったとは思うけどさー。光流なんてもっと近い。学校から五分で家だ。駅までも近いから、本当にずるいよなぁ。でもさ、大学とか考えると、遠くなるんだよなぁって考えると行ける気しないんだよなぁ」

「分かる。皆すごいとは思う」

 テレサは神妙に同意した。しかし、直ぐに一つため息をついた。

「でも、あたしの場合は大学に行けるかどうかが分からないけど……」

 なんで、と晋平は目を丸くした。大学に行かないと決めている訳でもない、テレサの言にどこかしこりがあったのだろう。

「それって、行かないで就職するってこと?」

「うーん……そういうのもまだ、考えてないけどね。成績あまり良くないっていうのがあるし、あたしん家、あまり金ないし。多分進学したいって言っても難しいかもしんない。からさ……。それに、」

 テレサは一度ため息をついた。

「イジメが長かったから、人が多いところあんまり、良く思わないんだよ」

 なるほど、と晋平は頷いた。おそらく光流の事でも思い出しているのだろう、ということはテレサでも察しがついた。光流とは妙に馬が合うとは思っていた。その要因は、かつて同じ苦しみを知っているから。だからこそ、今も悩んでいたテレサに、光流は晋平を紹介した。

「光流もそうだったからなぁ。今じゃもう大丈夫みたいだけどさ。高校入ってきてから最初に会った時、すげぇ身構えてたもん。俺が声かけた瞬間にイジメられるんだろうって思ったんじゃない? びくって体震わしてさ。おどおどしてた。あいつの放射光片目だけだから、俺にとってみれば珍しいなって程度。悪気があったわけじゃないけど、『色』が薄いんだって言ったし。でもそれって個人っていうのには関係なくね? そりゃ強い方が進路も含めて強みはあるだろうけどさ、職業は別に『色』で決まるわけでもないし、あいつの頭の良さは『色』に関係ないって分かってたしさ。頭良くなる『色』とかあんだったら、俺でも欲しいもん。ま、あいつの場合、蒼樹が側にいるっていうのもあるんだろうけどさ。小学生からの縁だって光流は言うけど、どう考えても蒼樹は気になってんじゃないのかな。じゃなきゃ、西進高校断ってまで来ないよ」

「え、西進を断ったって、――推薦もらってたの?」

 うん、と頷く晋平に、テレサは口を大きく開けて驚いた。

 西進といえば、このあたりの高校では一番の進学校だ。その上長い歴史を持っている物だから、生徒の個性を尊重する実直な教育方針により、多くの著名人が排出されていたからだ。

「聞いたぜ、あいつの中学時代の内申点、オール五なんだって。今でもその成績保っているらしいけど、秀才中の秀才なのに断る理由が見当たらないわな。まーうちの学校のが近いっていうのはあるだろうけどさ。西進だってチャリ範囲なんだし別に良いとは思うけど、それでも拘って光流の側に居たいみたい――って感じはするよ。蒼樹からは直接そこまで聞けてないけど、雰囲気で分かるわー。今回の件で、さらに惚れたんじゃねぇの」

「はは、あたしもそういう場面にあったら惚れるかも」

 分かる分かる、とテレサは笑った。白馬の王子様が来たようなものだ。絶対的ピンチに、居て欲しい人が守ってくれれば、気持ちは確固たるものになる。男だからとか女だからとかそういう簡単な括りではなく、誰しもが等しい感情だろう。

 真紀に対しての光流然り、光流に対しての晋平然り。

 自分にはそういった人がいるのだろうか、とテレサは少し考えたが、ぱっと思いつく人が居なかった。

「ま、蒼樹っていう最大の理解者がいるから、あいつはまだ打ち解けてるし、『俺』という友達のおかげでクラスでも浮いてないしな」

「自分でいう?」

 呆れた様子のテレサに、晋平は、

「いいんだよ、それくらい言っても。俺自身はイジメとかした自覚はないけど、やっぱり中学時代とはよく見たのはある。――もしかしたら、そういったのを見ていただけっていうのが、イジメに加担していたっていう物なのかもって思っているけどな。

 実際、部活の中でもぎすぎすしてたりさ。力のない奴が大体標的になるわけじゃない。

 そういう奴に限って、力が無くて自信がないからおどおどしたりして嗜虐心を煽ったり、イライラさせたりするわけじゃない。

 だからさ、イジメとか起きちまう前に、ちょっと声かけて輪に入れてやるっていうのは重要だとおもうんだよな。自分で輪に入るのは相当勇気がいるさ。

 俺みたいな凡人は、そういうのを気にして仲間になろうって一言いうだけで、イジメはもっと減るとおもうけど、それも誰もやろうとしねぇ。その後にイジメが起きると嫌な気分になるけど、見て見ぬふりをする。自分に振ってこなくてよかったってどこか安心する。そんなのばっかり。

 でもさ、それつまらなくね、って思うわけ。みんな仲良くなんてできないのは知ってるけどさ、一人くらいなら抱えてやってもいいんじゃねぇかなって俺は思う訳さ

 別に仲間にしろとは言わないよ。仲のいい連中の中に無理やり突っ込んでも、本人だっていやだろう? ただ、輪の中に入れてやるっていうのは、そいうのとちょっと違うんだろうなって思う訳。

 朝、一言声を掛ける、掃除の時間にたまには相手を頼る、困っている様なら一声かける。

 そんな些細な事でいいんじゃないのかなってさ。

 光流を見てて思ったのは、イジメられる奴って『自分で想像して』そこから出れなくなっているんだろうってすごい思ったんだよ。あいつは今『自分の事を嫌な奴だ』って思ったんだろうって、想像して、それがずっと根っこを持つ。

 ある程度打ち解けてからさ、最初に声を掛けた時に、なんで俺の事を身構えていたのか、聞いてみたんだ。そしたら、周りとうまくやってる人って、弄りの対象を常に探している、っていう光流なりの固定観念があった訳。

 そんなの、人によるよ。

 俺にとってみれば、弄りの対象は対等じゃないとできないって。仲も良くない相手にそういう言動はただの『イジメ』でしかない事くらい十分に承知しているよ。じゃなければ、『周りと上手くやる』事なんてできないのにさ。

 だから、光流に言ったんだ。『自分の考えを押し付けるんじゃねぇよ』って。あいつびっくりしてたな。多分、初めてそういった言葉を貰ったんだと思う。鳩が豆鉄砲を食ったような顔だったから、相当『人』に慣れてないんだなって。

 相手を理解するのは出来ない、って俺はおもっている。でも、押し付けるのは、良くない。それはイジメの根本と変わらないことじゃない?

 イジメを受けていた側がそういう状況じゃぁ、結局、輪に入るのも難しのかもしんないって、その時俺もハっとしたよ。

 だから、俺は光流を無理やり引っ張っていった。じゃなきゃ、あいつは殻に閉じこもったまんまだろうからさ。

 俺が目を掛けれるのは一人だけ。それで一つイジメが消えて、俺のダチが増えた。

 そんなんだから、光流には感謝されていいんじゃないかなぁ?

 ま、一度もそんな言葉ないけど。それでもいいさ。だってダチだしなぁ」

 ほー、とテレサは感心した様に目を丸くした。考えていない様でいて、晋平は晋平なりに周りを気にしているらしい。自分が嫌な気分になる事を良く理解し、そうしないために『抱え』ようとするわけか、とテレサは納得した。テレサは意地悪い笑みを浮かべると

「かっこいいじゃん」

「……そんなんじゃねぇよ」

 晋平は恥ずかしそうにそっぽを向いた。

「ごめん、結構待たせた?」

 光流が汗を流しながら入ってきた。光流も制服のままだった。バイトに行く前には制服を着替えてから言っていたから、今日は、バイトは行っていないらしい事が分かった。光流のとなりには一人の女性が立っていた。

「お邪魔しますわ」

 短い黒髪はきっちりと揃えられたおかっぱ。優和な笑みは慈母の様であり、瞳に宿る黒い色別放射光がかすかに目元をアイシャドーの様にぱっちりとさせていた。晋平がうろたえるのが分かった。

「――鈴木先輩?」

 ええ、と小百合は頷いた。テレサに小百合は丁寧に挨拶をした。

「星野くんと同じ高校の風紀委委員長をしています、鈴木・小百合と申します。貴方が星野くんの言っていた、テレサさんですね?」

「あ、あぁ、テレサ・デ・ミラーです……」

 気おされて語尾が萎んだ。圧倒的な力量の差を見せつけられた気がして、のどが詰まった様にテレサは感じた。

「緊張しないでください。今日は、星野くんに言われて来たのですから。さて――全員揃った様なので」

 小百合の凛とした物言いに、はい、と光流は頷いた。

「ま、ちょっと皆でやりたいことがあってさ」

 光流は三人を見回してから、にやり、と笑った。


◆◇◆◇◆◇◆


 藤井・隆一はワイシャツに黒のスーツの下を合わせた格好をしていた。暑さを感じ、ネクタイを少し緩めながら、高い身長を猫背で丸めコンビニから出てきた。

 夜の時間帯のコンビニには四人客がいた。レジに並ぶ時に若い男性が横入り気味に入って来たのに少し苛立ちを感じながらも、大声を上げる事もなく、怒りを腹に飲み込んだ。

 今年四十になる男は、頭を丁寧に油で撫でつけ、神経質そうな視線を周囲に飛ばしながら、手に下げているビニール袋から買ったばかりのオニギリを取り出して包装を乱雑に取り払うと、一口ゆっくり咀嚼した。コンビニの前に設置されたゴミ箱の前まで来ると、その場に居座る様にして五口で食べ終えた。

 さっさとゴミを捨てると、ビニール袋から取り出した缶コーヒーを一口啜った。缶コーヒーを左手に持ったまま、胸ポケットから煙草を取り出すと、一つ咥えて火をつける。ゴミ箱の隣に設置された灰皿には先客が一人。二十代くらいの若い男性に小さく会釈をした。相手は気にした様子もない。隆一は一息に煙を吸い込んだ。喉、肺に熱が入り込み、すぐさま脳が冷え切る感じを受けた。一度息を止めて口の中にたまった香を楽しむ。ふぅと溜まった紫煙が帯を引いて夏の夜空に消えていった。

 先日の出来事を思い出すと、隆一は顔をしかめたくなった。あれは良くない出来事だった、と反省をしていた。横を通り過ぎたあの少女が、自分を避ける様に早歩きになるのを感じた瞬間、馬鹿にされた様な気分になったのは間違いなかった。

 その上で、こんな『色』なんて持つから気持ちが増長したのだろう、と短絡的に結論づけた。しかし、と考えるのは、その後の出来事であった。きっちり止めはさせておらず、飛び込んできた少年に顔が見られたかもしれないと考えると、あの時二人とも始末したほうがよかったかと後悔してならなかった。

 しかし、あの最弱の『白』に煮え湯を飲まされたという事の方が、何かといえば強かったのかもしれない。光を動かすだけと高を括っていたが、その実、視界が遮られるという事は『色』が使えないという事をきっちりと思い出させてくれた。イメージが発光する光の白さで霧散するし、視界が焼きついて、数舜はまともに見えなかった。あれを何度も食らうとなればサングラスでもつけているほうがいいのか、と少し考えた。夜にわざわざサングラスをする者など、怪しい限りであるから、その不毛な思考を捨て、もっと確実な方法を取るべきだという事に帰結した。

 動く者を狙う必要性は無いという事。彼の同類になったあの女子は、自らの境遇に多くの苛立ちを抱えている事だろう。その上で話などできる訳もなければ、道端で声を掛けられただけで導火線に火が付く。「そういう状況なるよう『縛った』のだから」隆一は小声でつぶやいた。彼の言葉など誰も気にする事はない。大きな音を立てて通り過ぎる車の音にかき消されるだけだった。


 隆一は六か月前に『神様』に出会った。であったと言っても言葉を交わしたわけではない。その出会いは長く語られている物語と同じく、嵐と似て非なる唐突な邂逅だった。

 気まぐれなのだということは分かっていた。『神様』というのはあくまでも便宜上の呼び方だ。かの物語の様に、『牡鹿』に例えられる者が現れたということはなかったが、個人の脳裏に走る閃光めいていた事は間違いない。

 形状も言語も不明ではあるが、脳裏にそのイメージが、ふっ、と湧いてくる事があった。夢だ、と始めは思っていた。

 とりとめのないイメージは、鬱蒼として森林の中を駆け巡る情景を克明に隆一に見せた。彼にその様な自由奔放な時代はなかったし、かつて森林地帯に併設している所に住んでいたという事もなかった。樫の木を眺め、楓の葉を踏み鳴らし、橡の葉を食む。名も知らぬ赤い花が蓮華の様に水の上に立ち並び、白き蔦が地面を這い木々に絡みつく。黒い実をつけた植物は重みで枝垂れ、黄色に彩られた花は木々の根本に広がり、コバルトブルーの湖の様に広がる水源が陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。桃源郷か、とも思った。

 その時、隆一は精神的に良くない状況にあったのは間違いなかった。妻とも離婚し、小学生になったばかりの子供は引き取られ、家のローンだけ残っていた。仕事でも理不尽な要求に必死に応えていたが、残業に対して対価は正当に支払われる事なく、ただ精神を摩耗した。

 元々『色』も薄い事から、周囲との確執もあったのは確かだった。劣等種であるような、心無い言葉を裏で言われている事は分かっていた。

 暴言などは過去、幼少期から変わらないため、ただただ、心に突き刺さるだけだった。酒に逃げようと思っても、翌日には現実が押し寄せてくるだけだった。

 だからこそ、その様な夢を見たのかと、自らを律しようとした。何等かの甘えがあるのかと、それによる逃避なのかと、自己に厳しくあろうとした。その夢を見る度に、自己を否定し続け、幻想的な野原をただ己の妄想と切って捨てようと、その世界の中で駄々をこねる様に、木々を殴り、蔦を引きちぎり、水をまき散らしては叫びまわった。

 彼を咎める者などどこにもおらず、自己の夢というには明らかに実存めいていたのは違いない。

 五感を震わす感覚も、それによって巻き起こされる自己に対する嫌悪感も、夢と片付けるには一線を画すほどの濃度を持っていた事から、ある時を境に、隆一自身が完全に気が狂ったのだろうと、ある種の達観をする様になった。その時から、隆一はその場でただ静かに膝を抱え座るだけになった。朝、目が覚めて自分に意識が戻るまでの長い間、ただ水面を打つ水滴を眺め、濡れた葉を凝視し、花がかすかな風に揺れるのを視界の端に納める。どれほどの時をそこで過ごしたのか、一年か、二年か。

 数えるのをやめた時、其れは脳裏に打ってでた。

 コバルトブルーの水の底に一つ沈んでいる板を見つけた。

 エメラルド色した板は、冷たい水の底で静かに横たわっていた。隆一は気になった。鮮烈な青の中に別の色が浮いている事に、潔癖的な違和感を持ってしまった。だからこそ、すぐさま水の中に飛び込んだ。服が肌に張り付く感覚も全く気にせず、自分の腕の大きさ程のある板を水底から除こうとした。想像したよりも重みのある其れは、つるつるとした表面で、隆一の手の中に中々収まろうとしなかった。何度かの失敗の後に、それをつかむ事ができると、やっと色彩が落ち着く事に安堵感を覚えた。エメラルド板は表面が磨かれ、非常に美しかった。隆一は水から上がると、その板を眺めていた。突如現れたエメラルドの板に、自身の感じている疎外感と同類な気がして、物ではあったが、親近感を感じていた。じろじろを板を嘗め回す様に見ると、文字がある事が分かった。凝視する。隆一の知りえる知識の中にある言語である日本語だという事は間違いなかったが、何度見ても頭にその言葉が残らない。凝視しても言葉の意味は分かっても夢の様にあやふやで、すぐに頭の中から抜け出てしまう。不思議な感覚に苛立ちながらも、なんとかその文字を頭に入れようと、音読してみたり、地面に書いてみたりした。試みは上手くいき、記載されている内容が可読できる様になった。長文の文書を細部まで隆一も覚えていないが、『願えば、叶えられる』という文言は、彼に数十年ぶりの欲求を湧き起こさせた。

 願ったのは力。現実を捻じ曲げる力は、彼のイメージでは何者をも貫く槍。決して折れぬ決意は、力を邪な事に使う事になっても、どこか純粋さは持ち合わせていた。

 得られたのは力。望んだ通りに、すべてを貫く新たな『色』。隆一は歓喜した。自らに宿りし新たな力を、誇示する様に、物を破壊しては喜んだ。部屋にある物を、家の周りにある物を、一通り気のすむまで破壊せしめると、次に彼の中に湧き起こったのは人への欲求だった。屈折していた社会への怒りは、世界に隆一の力を認めさせるために、と新たな願いを表出させた。一人ではまずい。一人では隆一が『犯人』であると言ってしまう。新たに発現した色であっても、自分を誇示するためにわざわざ、マイクロチップのセキュリティをかいくぐり、『銀』の色を埋め込んだ意味がなくなってしまう。隆一は『もう一人の同色』を生み出す事を願った。隠れ蓑にするためには『それ』が手早いと思ったからだ。すぐさま願いは叶えられる。力を欲している少女に出会った。名前など聞く必要もない。ただその少女の行動さえ読めればいい。彼らしく、じっとりとナメクジの這う様に、話を聞き出し、彼女が外に居場所を見つける様に仕向けた。駅前を徘徊するのも聞き出し、時間と行動から『獲物』を『捕縛』する状況を言葉巧みに作り出した。彼女は暗闇の中に落ち、自らが殺人犯であると悩む様になるだろう。

 願いは全部で五つ。

 第一に、力を望んだ。

 第二に、自分を蔑んだ者への復讐を望んだ。

 第三に、自分の隠れ蓑になる『同色』の者を創り上げることを望んだ。

 第四に、復讐の起点がその『同色』の者の起点になる様に望んだ。

 最後に、この『色』では捕まらないことを望んだ。

 八人。そこまでは予定通りといっても差し支えなかった。

 あの忌まわしき者達を立ちどころに屠り去った。

 毎日、暴言、蔑み、貶め、略取する。そういった者の元凶。いかに言葉を並べ立てても、あの者達が隆一に謝罪の一つをする事もない事は分かっていた。

 彼らには罪の意識がない。

 弱者を弱者と認識し、それでいてただのサンドバッグにしか思っていない。言葉を投げつけても破れる事も、切れる事もない。叩きつけて、言葉の主のストレスを発散するためのただの案山子。それに対するリアクションの一つも彼らにとっては耳に入る事はなかった。

 隆一は何度となく上司を通じて是正を依頼した。それでも改善がみられなければ、人事部に話しをしたりもした。

 全てが徒労に終わった。上司は苦笑いを浮かべるだけで、具体的な注意の一つも行った形跡はなかった。人事部から個人宛にメールが行ったらしい事は分かった。調査という名目で聞き取りをしたらしい。双方の意見の食い違いと、彼らの弁が――一致した答えを返した事で、隆一の被害妄想と取られたらしい事は、これ見よがしに大声を上げて罵ってきた彼らの話しから分かった。

 結局声が大きい者が強い。個人の色が強い者が強いのだという事を理解した。

 『色』と同じ。個人の『色』が強いから、弱者を虐げる。

 隆一は憂鬱な日々を過ごすしかなかった。

 その願いを願うまで。

 だから八人を綺麗に屠り去った。喉から肛門までを一直線に貫き、まるで懺悔させる様に跪かせて。

 完璧だと思った。力は決して他にばれない。『銀』というトレードマークを残しても『この色では捕まらない』のだから。

 だからこそ、次の標的が欲しくなった。自分を誇示するために。

 自分の存在を外部に知らしめるための産声だ。そう思っていた。

 しかし九人目に差し掛かる時に、邪魔が入った。

 一人の少年が彼女を隆一の仕向けた闇から引き抜いた。

 獲物が得られなくなると、苛立ちは募っていった。

 だからこそ、力を誇示したいという一点から、短絡的な行動に出てしまった。

 あれは失敗だった、と隆一はつぶやいた。新たなタバコに火をつけると、コーヒーを一口啜った。新たに願いを願おうにも、手にしていたエメラルド板は手放してしまった。その時は、それが最善だと思っていたが、今思えば与えるだけでよかったのかもしれない、と後悔した。

 であれば、とまた夜の街に繰り出す事にした。タバコを一度吸い、半ばまで火が到達した所で、灰皿に押し付けて火を消した。

 ゆっくりと駅前へ歩き出した。


◆◇◆◇◆◇◆


 影の濃い裏道は、猫の鳴き声が木霊していた。遠くで電車の通る音が聞こえるが、乱立する建物によって遮られ、しっかりとは聞き取れない程になっていた。午後九時に差し掛かろうかという時間には、一本となりの喧騒の方が強く、じりじりと地面を這う様に人気のない裏道を微かに震わせていた。明かりといえば頼りない防犯灯の青白い光。駅に至るいくつものオフィスは灯が落ち、シャッターが降りている所が多い。金曜日ということもあるのだろうか、二時間も前には人で込み合っていたであろう露地は閑散としていた。この露地に居るのは一人。隆一は獲物を探す様に目を細め、遠くを、近くを、影の中をじろりじろりと見渡していた。ブロック塀の隙間に置かれた自転車は錆が浮き、未だ乗っているのか怪しくなるほどだった。ナーと猫が鳴いた。はた、と足を止めて視線を向けると、白と黒の模様の猫がブロック塀の上で鳴いていた。パンダの様に片目だけ黒くなっていた。隆一は煩わしく感じて、小さく舌打ちをした。微かにさっきを向けると、猫はぴょんと跳ね降り、姿をくらました。視線を上へと向けると、パレットの監視カメラが電柱に設置されているのが見えた。この場所からなら死角になるのだろうか、あるいは、もっと先の方がいいのか。いや、と考えを改めた。この間の住宅街の方がいいのではないか。あそこはカメラも設置がされていない。急に正義感丸出しの少年が乱入してきたが、それ以外は好条件だった。隆一はどうするべきか悩んだ。駅前を徘徊すれば、もしかしたらあの闇にとらわれた少女に会うかもしれない。あんな色の髪だ、すぐさま見分けはつく事だろう。そうすれば、渡していたエメラルド板を回収する事も可能だった。あれほど魅力のある物をそうそうに破棄するなんていう事はあり得ない。風体からも警察に届けるということはないだろうし、友人が多いタイプでもないだろう。そう考えると、隆一は一度駅周辺を徘徊してみる事に考え直した。ナー、と猫がまた鳴いた。さっさと行けという様に、催促する猫に、視線を飛ばし威圧した。猫は肩をすくめながら、さっと身を翻して暗闇の中に消えていった。

 隆一は裏路地を歩き回った。時刻は午後九時半になろうかというところか。まだまだ夜は長いらしく、酔っぱらったサラリーマンが二軒目を探すために連なっていた。三人連なった男たちの横を通り過ぎる。胸ポケットからタバコを取り出すと、隆一は一本抜き取り、ケースの中に入っているライターで火をつけた。サラリーマンが嫌な顔をするのが見えたが気にはしない。狭い路地の中でおもむろにタバコを吸うなど、普通はしないが、周囲が酒によるストレス解消をしているあたり、隆一自身もそれに負けない様に何等かの行動をしなければいけないと、勝手に思っていたのだろう、その帰結としてタバコを吸う事で自己の顕示欲を抑えようとした。肺を介して入り込むニコチンが、血管を収縮させすっと、夏の夜の暑さによってのぼせて居た頭を冷めせた様に感じた。狭い路地にはせり出した看板が行く手を阻んでいた。白、赤、オレンジ。点滅する色は視界に種類の違ったまぶしさを与えた。居酒屋の間の露地に入った。室外機のうるさい音が響いていた。がーとも、ゴーともとれる音は、何台も同じ方向を向いて、隆一にぬるい風を当てた。気持ちの悪い風に顔をしかめつつも、その通りから奥へ、奥へと入っていった。一本露地が変わると、再び人気は無くなった。

 判子屋の前の通りに出た。車一台通れる露地には、頼りない防犯灯だけ。このあたりは商店街からも外れているから、パレットの整備も後回しになっていた。

 青白い光の中に、銀の線が煌めくのが見えた。

 奴だ。隆一は内心ほくそ笑んだ。

 銀色の髪が見えた。

 距離はここから百メートル以内だろう。相手はまだこちらに気づいていない。隆一は電柱の影に身をひそめ、少しだけ頭を出して確認した。少女は何かを叫んでいる様だった。地面に倒れているのは青年――いや、少年か。体をくの字に折り曲げて倒れ伏している。少女は珍しく制服の様だった。初めて会った時にはもう少し、外れた格好をしていたが、どうやら真面目に学校には行っている様だった。少し落胆を感じた。ドロップアウトでもすれば、と思っていたのかもしれない。そうすれば、隆一は少女を見下したまま、虚栄心を保ったままだったのかもしれない。ふつふつと隆一の中に欲望が湧き上がるのを感じた。獲物とは横たわる少年。しかし同時に、少女にも沸き起こる。あの板を取り返したい。そう思えて仕方なかったというのもあるだろうが、それ以上に、自分が目を掛けたというのに、感謝の一言もない事に怒りが湧いていた。理不尽な欲求を通そうと、隆一はゆっくりと近づく事にした。逃げ出すというのであれば、足を刺せばいい。そう感じていた。

 影からゆっくりと出て行った。

 一歩、一歩と詰める。

 二人はいまだにその場所にいて、少女が少年を見下ろしていた。

 少女の足元を見ると、少年の右手が少女のくるぶしを掴んでいた。

 なるほど、と隆一は頷く。あれでは逃れる事はかなわない。舌なめずりをした。両方を仕留める事ができるだろう。

 少女の毒づく言葉が聞こえる。

 一歩、一歩と詰める。

 靴音を抑える様にゆっくりと。

 距離が詰まった。

 十分に、距離が縮まった。

 声をかけた。

 隆一の一言に少年が此方に視線を向けた。

 隆一は認識した。あの忌々しい白い放射光。獲物を仕留めるときに邪魔をした少年だと。

 

◆◇◆◇◆◇◆


 光流は前に現れた男性の顔を見た。間違いない。そう確信した。スーツ姿の男の姿に、光流は軽い既視感を得ていた。次に起こる行動のすべてが予測できる。あの時は、真紀に対して、の不意打ちだけだったが、形成された槍は見ていた。

 自身に向かう凶刃をいかに回避するかを考える。飛ぶか。移動し続けるか。否。そんなことをわざわざする必要などない事は分かっていた。

 全ては決められたルートを通り、『最後』に帰結する。そのために自分が『囮』になるのだという事を認識。わざわざあれに貫かれてやる気は無いが、だからといって、あの男をいたずらに彼方此方に連れまわすというのも良くはない。

 目標はあの男を捕まえる事。

 つまり、意識を向かわせ、そして、その場に足を止めさせる。

「こんばんは」

 声を掛ける。怪訝そうに見つめる男は、一瞬にして光流の顔をみて身構えた。

 分かっている。自分が啖呵をきって追い払ったのだから、あの時の子供だと、この大人は間違いなく今、認識をした。

 男の目の色が変わった。文字通りだ。色別放射光が銀色の筋を作り光流を捉えようとしている。身構えた体は、間違いなくその場に縫い合わされている。

「あの時以来ですが、今日も『狩り』をしにきたのですか?」

 光流は丁寧な口調で問いかける。

 男は言葉を探しているらしく、時折視線を外して、光流の隣のテレサとを交互に見ていた。

 どちらが敵か。否、両方『的』だ。そう目が語っている。爬虫類じみた鋭い視線は、鋭利な金属製の槍で刺したように痛みを持っていた。それが幻痛だという事は光流にはわかっていたとしても、全身が警鐘を鳴らしている事には変わりがなかったから、次の一手を間違えれば、確実に、自分の命が取られる事を実感していた。

 針の筵。

 恐怖は、光流の背筋を撫で、首筋には死神の鎌を突き付けている。

 一手。しくじれば終わりである。

 光流は半身ずらして、左足を一歩前に出す。こちらも身構えた。

 相手を見据えるのは左目だけ。

 男は、口を開かない。固まったまま、こちらを値踏みしていた。

 光流は悠長に待つ、という胆力は無い。

 これ以上は限界だと思えて仕方なかった。胸の内にざわつく恐怖心を必死に抑えていた。

 だから、先手必勝。

 右目から放射光が漏れる。自らの左半身を影にする様に、それを相手に見せる事はしない。今までになく白く、強く輝く。青白い防犯灯の明かりが、球体の形状を取り、ふわりと落ちた。

 光の果実。

 物理法則を無視したその力は、ゆっくりと降りていく。がしかし、途端に急激な速度をもって、前進した。

 狙うのは男の顔。男が何を思ったのか。すぐさま腕で顔を覆った。

 その時光流は確信した。やはり、光流の手品の種は割れていると。不意打ちを狙ったそれすらも、男にとっては、予測の範囲内か。軽くつまらなく思いながら、光流は真正面に向き直った。

 どうであっても、光流は光を男の顔に向けてぶつけた。

 視界を塞いでいる間は、『色』は出ない。そのために、と継続して光をぶつける。ぶつかった光は飛沫の様にあたりに飛び散った。残光が蛍の様にあたりにふらふらと舞った。弾ける光球は男に痛みを与える物ではない。だからこそ、実感のない光という物をぶつけるにあたり、手を休める事は出来なかった。

 二度、三度。

 変わらず色をぶつける。これほど派手にやれば、ここから後方にあるパレットが検知する事だろう。あと何度やれば警察は来るのか、と自問自答した。

 男が腕に隙間を作り光流を見た。

 一瞬の視線交差の中、光流は恐怖を感じた。蛇に睨まれた様な、背筋を刺す様な鋭い視線。

 光流は猫の様に身をかがめてすぐさま起き上がると、地面を蹴った。

 光流の退いた場所に円錐が生成されるのが見えた。

 ずん、という振動が空気を伝ってきた。重い。重い。その振動は、着地した光流の足に、振動を、顔には風圧を持って『恐怖』を与えた。

 あと一瞬遅かったら、そう思うと背筋がぞくりとした。胸の奥で騒めく恐怖心は、全身を固くさせた。両足に重い鉛でも仕込んだのかの様に竦んだ。

 腕が、足が凍り付く。背筋は冷え冷えとした汗がぶわっと浮き出ていた。暑いはずなのに、と前にも似た感覚を脳裏で反芻した。

 視線を男に向けるが、恐怖心から何をするべきなのか頭に浮かばなかった。最初から算段は決めていたのに、と焦った。

「――‼」

 吹っ飛んだ思考の中で、次にどうするべきか、動かす足があるのであればきっと男に突進でもしただろう、動かす手があれば、頭を守るために身を丸くしたのだろうか。声が出るのであれば、テレサに逃げろとでも言えただろうか。

 その硬直を男が見逃すはずがない。

 思考の外から、手が伸びた。視界は狭まっていたものだから、にゅっと腕が伸びた様に思えた。テレサが光流を突き飛ばす様に突進したのが見えた。

 ぐん、という力が胸を打った。態勢を崩して背中から金網に激突した。激しい音が出たが、すぐに音が静まった。

 のんびりしているな、とでも言う様にテレサの口が動いた。

 音は光流の耳に届かない。まるで真空の中にでもいる様だと思った。伸びる時間は、彼の思考をクリアにさせた。

 目の前に鮮血が舞った。下から突き上げる力は、易々とテレサの体を貫いたか。

 今、目の前からは口汚く罵る声も、聞こえない。悲鳴も、聞こえない。光流の視界に映る鮮血が、花びらが舞う様に舞っていた。風に乗り、光流の顔にいくつかが当たった。生暖かい感触が、光流の頬から伝わった。

 だから、テレサは笑っていた。

 そうだ。光流は思い出す。彼女の運動神経は並ではない。

 笑っているのは、まだ余裕があるという事。

 だが、テレサは重力に引き寄せられて、地面へと倒れ込んでいった。

 巨大な円錐状の物体が、その巨体に血糊を付けていたのが見えた。

 『上手くいった』と思うのは、彼女の体を避ける運動神経にだろうか、それとも、別の事だろうか。光流の脳裏に浮かぶのは『やった』という感情が先行した。

 光流は、はっと息を吸って、男に視線を向けた。

 両手は下げられ、此方を認識していた。次には、光流を歯牙により貫く事だろう。そうはさせない。動きだした頭が次にするべき事を列挙した。どれをするべきか、取捨選択が必要だった。

 走るべきか、彼女の安否を確認するべきか。

 いや、前にいる男の目を潰す事が先決を判断した。

 光流は強くイメージした。得られる光のすべてをぶつけるために。

 星々の輝きすらも一点に集める様に、ぐるりと首を回した。見える光源のすべてが光流の視線によって集められる。

 白き色別放射光が光流の目に集まった。右目に集中する明かりは、今日一番の輝きを持っていた。

 集束する。何条にも及ぶ光跡は、光流と男の前に巨大な光の塊を生成した。

 途端、光の奔流が生まれた。余りの光の多さで巨大な球体が歪んだ。重力に押される様に地面へと落ちた光の果実は、すぐさま周囲を水に飲まれた様に破裂をした。破裂した光は、荒れ狂う水と同じだ。前に、後ろに、周囲に光の波を起こして、男と、光流を、テレサを飲み込んだ。男を凝視していた、光流の視界も奪っていった。

 すべてを白に。

 視界が効かぬ中、光流は安堵した。

 男の目が焼かれるのを見届ける事は出来ない。


◆◇◆◇◆◇◆


 

 悲鳴に似た叫び声は、野太い絶叫をもって宵闇を切り裂いていた。

 絶叫。真っ白な世界を引き裂く音は、小百合の耳にかすかに届いた。しかし、そこから外には広がらない。

 男の口に悪態が乗せられていた。何度も、喚き、吐き出し、空気に溜められた。

 しかし、小百合は一切の躊躇も迷いも無かった。視界の先に見えるのは男の姿。

 きっちりと視認すると、小百合の両目が黒い光の帯をまとっていた。

 口には嗜虐的な笑みを浮かべていた。当然だ。

 あたりかまわず銀色の柱が乱立する。それを今から全部『砕いてやるのだ』と思うと、ワクワクとした気持ちが無いとは言い切れなかった。

 光流はうまく相手の視界を塞いだらしい。

「フフッ」

 微かに漏れた呼気は、男には伝わらない。

 『黒』はすべてを塗りつぶす。

 途端男が崩れた。上からかなりの重圧をかけたのが分かる。二倍、三倍と重みを上げていく。

 男は膝をつき、手をつき、地面にうずくまる様に体を曲げた。そこにいるのは丸まった男性のみ。

 首を動かす事など到底出来ぬ程の重み。

 遠くから誰かが走ってくるのだろう、ぱたぱたと走る音が聞こえた。おそらくは警察だろう。パレットには色彩が幾重にも塗り重ねられている事だろう。

「面倒な事は、したくなかったのですが」

 どこか他人事に小百合はつぶやいた。


◆◇◆◇◆◇◆


 光流は口を尖らせたまま、青い空を眺めていた。彼の右手側にはいつも通り購買で買ったパンが置かれていた。一つはイチゴのジャムパン。一つはサンドイッチ。二つ足しても三百円に届かない。左手には茶色の紙パッケージにでかでかとコーヒーと書かれたコーヒー牛乳。ストローから一口吸う。ほろ苦い味が口いっぱいに広がった。

 口を放すと、また口をとがらせて、遠い空を見た。晋平が苦笑した。

「どんだけ不満なんだよ」

 別に、と光流。しかし、口ではそうは言っても、不満があると視線は語っていた。

 ベンチから跳ね返ってくる熱も、屋上のコンクリートブロックから跳ね返る熱も、直射で当たる熱も、どれもが二人を襲ってきて、汗を拭っても、拭っても額に浮き上がらせた。一見すれば、暑さに苛立っている様に思えるかもしれないが、同学年達の間で噂になった事を総括すれば、校長から直々に注意をもらった非行少年の憂鬱だと、皆理解していた。

 光流にとっては、ペナルティとして三か月間のバイト停止となった事が、一番の痛手だったか、そのことを如実に表す様に重い溜息をついた。

「結局あの後、誰も怪我してないんだから、良いとは思うんだけどな」

「本当に怪我の一つもしていないのか?」

 晋平の指摘に、光流は右足を前に投げ出して、苦笑した。

「どこに傷があるって?」

「あれだけ柱が乱立している中で、何も無かった――なんて普通は思わないだろう?」

 眉を顰めて晋平は光流の体を足先から頭のてっぺんまで見て行った。しかし、そこに傷らしい傷は無いことを確認すると、安堵のため息をついた。

「まぁ何ともなくて、良かったと思うよ。これで光流の体に怪我でもあれば、蒼樹に続いて二人目だ。――いや、累計で言えば十人目になるのか。でも、テレサは汚してたんじゃないのか?」

「そうなの?」

 光流はとぼけたように口をロの字にすると、すぐさま噴き出した。

「あはは! やっぱり晋平でもおどろくよねぇ。血糊なんて普通ないわけだし。僕だって目の当たりにして、あ、ヤバイ、とは思ったもの。でもさ。それを可能にする物があったわけじゃない?」

「それは?」

「あれはどう見ても、『赤』じゃない」

 晋平の頭の上に疑問符がわいている。眉を寄せて顎に手を当てて考える素振りをした。

「『赤』なんて誰も持っていなかっただろう、俺が『緑』、光流が『白』、鈴木先輩が『黒』んで、テレサが『銀』じゃないか」

 そうだよ、と頷く光流。しかし左目の下を左手の人差し指で指さした。かすかに、赤い放射光が見えた。肌の赤身、太陽の明かりによってほとんど微かに、としか見えない。注視しなければまず分からないだろう。晋平が息を飲むのが見て取れた。

「『赤』の二種目って、有用性ないんだよね。自分の血液を操るんだけど、――例えば大けが負ったとかであれば、本人にとっては有用かなぁ。でもそれ以外に使い道がないんだよね。他の人の血を操るって物でもないし。中には、血を使ってアーティスティックな事をやってる人もいるけど、危ないよね。なんせ、自分の血が減るんだし。今回もカッターでちょっと指を切って血を扱ってみたけど、まー、あれだけでも結構ふらふらするよね。ストローで吸われている気分になるんだよね。あれはまずい」

 光流は、うへぇと舌を出しておどけて見せた。

「それ、前からなのか?」

 晋平の尤もな質問に、あっけらかんと光流は頷いた。

「そうだよ。両方とも力が弱いから、干渉能力は弱いんだけど。特に『赤』なんて、肌色に紛れるから、分からないだろうけどさ。ほら敵を欺くためにはまず味方からっていうじゃない? 長年これは使う事無いだろうなーとは思ってた。火だってマッチ程度しかつけれないもん。生活には十分だけど、それ以上の干渉力が物言うでしょ、『色』の優劣で何でも語る人たちは。その時豆粒なんですぅ、って火起こしたら、また、バカにされるだけじゃない。そんなの右目だけで十分だって。僕は、力が弱いって、差別されるのは慣れてるけどさ、差別を受け入れている訳じゃないんだよ。差別を批判する気はあるけれど、声を出しては言えない。だって、僕だって差別はしていると思うもの。全部を肯定、否定できるほど、誰も彼も、聖人じゃぁないんだよ」

 ふん、と鼻息荒く光流は晋平に語った。しかし、晋平は冷ややかな目で、

「時折思うわ。光流ってバカだって」

「なんでだよ!」

 だってさ、と晋平は光流の左肩に右手を置いて話す。

「自分もそうじゃないかって思って気を付けているって言えば聞こえはいいかもしれないけどさ。言わなきゃ、何も分からないぜ。人は、心が読めるわけじゃないんだぜ」

「……」

 憮然とした表情で光流は晋平を睨んだ。しかし、言う事ももっともなので、ため息をついた。コーヒー牛乳を一口飲んで晋平から視線を外した。

「ですよねー。思い込み激しいんだよねぇ。だから、今回の件でも怒られるわけですぅ」

「俺は、支持はするけどさ、でもなんでそんな博打みたいなことするわけ。相手が必ず来るとは限らないんだろ?」

 それはさ、と光流はにへらと笑う。

「あの願望叶える物があるじゃない。あれを使ったわけですよ」

「そんなことに使ったわけ? なんでまた」

「それはーまー……」

 光流は、首筋を抑えながら、はずかしそうに、

「真紀の件があったからにきまってるじゃない」

「蒼樹か。そっか。そんなら良い。変な正義感ぶら下げてる訳じゃないんだよな?」

「正義感ねぇ? そんなのあるなら、僕じゃなくて警察に最初からお願いしてますよ。真紀の分、一発殴らせてもらわないと僕も嫌だったわけで」

 晋平がにやにやしながら、光流の首に腕を回した。ぐっと身を寄せると、

「熱いこって」

「暑苦しいよ」

 かー、と晋平は叫ぶと、光流の背中をバンバンと叩いた。

「前はただの幼馴染だとか言ってたのに、まぁ、たった数日で。ははん。やっぱり意識はしてたってことか」

「なんていうか、真紀の事はずっと変わらないよ。ただ、真紀が傷ついたっていう事実で、立ち位置が変わっただけ、なんじゃないかな」

「素直じゃねぇねなー」

 ぐりぐりと頭を抑える晋平に、光流はお返しとばかりに、

「でも鈴木先輩と何もなくて残念だったね。結構小言は言われたみたいだけど、一緒にいたテレサがげんなりした表情だったよ」

「そ、それとこれとは、別だろ。俺は……」

「テレサにでも乗り換えるのなら、ちゃんとしなよ。子供っぽいのは嫌われると思いますぅ」

「どの口が言うか」

 あ、と晋平は光流に問いかけた。

「その願望叶える怪しいやつ。どうすんの?」

「どうするもなにも、警察に渡したよ」

 さっぱりした表情で光流は言う。

「なんでぇ。持ってるっていう手もあったんじゃないの」

「そんなこともしないし、する気もないかなぁ。一人の妄想の先に作り上げられたものだってしたほうがいいと思って、『何も効力を生み出さない』って願望を叶えて渡してある」

「へ?」

 晋平は目を丸くした。光流は遠くを見ながらパンに手を付けた。ビニールの袋がかさかさという音を立てた。

「なんでも願いが叶うってさ。本当に詰まんないんだろうなってさ。ほら、ゲームでもクリアしちゃったら、何もする事無くなっちゃう、みたいな。だからいーかなーって」

「何それ……あぁもったいねぇ。俺なら有用に使えたのに」

 だからさ、と光流は晋平の言葉を遮る。

「多くの人は、そう考えたりするんだろう? それが良くないって。また思い込みだって言われるかもしれないけれど、『争い』の火種はさっさと無くしたほうがいいんだよ」

「微妙に考えてる風を気取ってるのがむかつく。それ絶対、自分らの嘘ばれない様に、っていう予防策からでてるだろ」

「な、なんのことかな」

 光流はジャムパンを一口齧った。

「晋平。でも、願いが叶うとしたら何を願う?」

 晋平は両腕を組んでうーん、と唸り人差し指でとんとんと二の腕をたたきながら少し考えた。

 その様子を光流はパンを喉に流し込みながら横目で眺めていた。

 遠くで鳥のぎゃあぎゃあという声が響いていた。風が通り抜けると、鳥たちの声を一瞬薄めていった。

「なんでも、っていわれると難しいよね。でもそういうものなんじゃないの」

「どういうことだよ」

「自分でやりたいって思う事はあるけど、叶えてほしいって今の僕らにはないんだろうって」

「なるほど」

 だから、と光流は頷く。

「世界平和でも願っておけばよかったかな」

「はは、光流らしいや」

 風がフェンスを押した。高い音が屋上に響き渡った。生徒の幾人かが屋上を後にする。喧騒の最中に、校庭から聞こえる笑い声。

 いつもの日常の中に光流は居るのだと感じた。

 帰りに真紀の顔でも見に行こう。そう光流は思った。

稚拙な文章ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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[良い点] 現代社会によく似た社会において「色彩」が存在する奇妙な現実感。 「色彩」というのは魂の色なのでしょうか。 それは祝福でも呪いでもあるように感じられます。 事件が終わりチーム解散がちょっと寂…
[良い点] こういう目とか色とか中二病な感じめちゃくちゃ大好きです。面白かったです。
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