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秘密をひとつ~簡雍奇譚~

作者: 胡姫

この話は人に聞かせるつもりはなかったんだがなあ。

飲み比べで負けたんだから仕方がない。この憲和さまが、あんたみたいな爺さんに酒で負けるなんて信じられんが、約束は守らねえと男がすたる。

「誰にも話していない秘密をひとつ」だっけ?あんたも物好きだな。全国の怪異話を集めてるなんていい趣味だぜ。冥土の土産って言われてもなあ、あんたまだまだ死にそうもないぜ。なんせ酒で俺を負かすんだから。とんでもねえ爺さんだぜ。

俺は独り身の流れ者、読むのは春本くらいだから大した話は無えけどよ。いつだったか、幼馴染の従弟が不思議なものと会うのを見た。おっと、名は明かせねえ。従弟はちょっと名の知れた大物なのさ。

だいぶ昔の話さ。

ある戦で従弟は家族を全部失った。まるごと全部。全滅だ。どの戦かって?田野ってとこさ。知らねえか。まあいいや、あんた南の、盧江の人だっけ。北方の戦には疎くても仕方ねえ。

黄巾の奴らとは何度も戦ったが、これはとりわけ酷かった。

血の海の中で従弟は一人立っていた。

足元には死体。幾つもの死体。従弟の大事な伯父たち、従兄弟たち、仲間たち、それが全員、骸になって目の前に転がっているんだ。血の臭いで吐きそうだった。凄惨なんてもんじゃねえ。並の男なら発狂するかもしれない。

雨が蕭々と降っていた。

玄ちゃん、と俺は呼んだが従弟は聞こえないようだった。人一倍耳がいい従弟なのに。魂が抜けたみたいになっちまっていたんだ。ゆすぶっても焦点が合ってねえ。

俺が何故生きてたのかって?簡単さ。俺は間に合わなかったんだ。俺は姓が違うんで劉一族の決起を知らなかった。駆けつけた時にはこの有様で、従弟を助け出すのが精いっぱいだった。痛恨の極みさ。まあ俺一人いてもいなくても戦況は変わらなかっただろうがね。これが雲長や翼徳でもいたら違ったかもしれんが、これはあいつらと会う前の話で…

みんな若かった。

あんなに死に物狂いで斬りまくったのは生まれて初めてだった。俺はきっと悪鬼のような顔をしていただろう。お気楽憲和さんには似合わねえ。従弟には二度と見せたくねえ姿だな。あとで聞いたら記憶が飛んでるそうで安心したけどよ。

俺にはあいつを守れる力が全然なかった。それが悔しくて悲しくて、俺は泣いた。

どれくらいそうしていただろう。

ふと気づくと、真っ黒い衣を着た童子がいた。

驚いたね。死屍累々の戦場に、十になるかならぬかの童子が立っているんだから。これほど場違いなものは無え。

その童子はまっすぐ従弟に向かって歩いてきた。俺はあやうく声を上げるところだった。童子の目は空洞だった。瞳の代わりに黒々とした闇が満ちていて、どう見ても人間の目ではなかった。

「みんな死んだ」

歌うように童子は言った。

「君は楼桑村劉氏の、最後の生き残りだ」

従弟は返り血に染まった頬を童子に向けた。頬には涙が幾筋も流れていた。光を反射してそこだけがきらきらと輝いていた。

「何故俺が…俺だけが……」

従弟の声はまるで生気がなく、虫の息みたいにかぼそかった。

「人間のことは分からない。僕に言えるのは、力には代償が要るということ」

「代償?」

「そう、この世ならぬ力を得るための」

「こんなことは望んでない!」

「天帝の意思だ」

不思議なことに童子は俺の姿が見えていないようだった。透明人間みたいに俺のことは無視して、童子は従弟にだけ話していた。俺は不吉なことを言う童子の黒衣をひっつかんで張り倒そうとしたが、俺の手は童子をすり抜けて空を切った。代わりに何とも言えない不吉な空気だけが手の中に残った。俺はぞうっと総毛立った。あやかし。ばけもの。そんな言葉が頭の中をぐるぐると回った。

でも従弟は動じなかった。当たり前のように童子の存在を受け入れていた。俺は従弟が前にも童子と会ったことがあるんじゃないかと思った。

「次の皇帝は楼桑村劉氏から出る。そう決まっているんだよ」

「俺じゃなくてもいいだろう!どうして!」

「幼い頃、君はこう言ったじゃないか。『天子の車に乗りたい』」

童子の声はどこまでも無邪気で、従弟の顔は紙よりも白い。

「父を亡くした君は、親戚から疎まれないようこう願わなかった?『みんなに愛されますように』。君の願いは天性の魔性と呼ばれるものだ」

その時俺はあり得ないものを見た。

無数に転がる死体からいっせいに、青い燐光のようなものが立ち昇った。夜の戦場で時々見る人魂とは何かが違った。もっと神々しく、禍々しく、この世ならぬもの。それが青い光の束のようになって燃え上がり、渦を巻き、突如こちらに向かって押し寄せてきた。

わっと叫んだ俺の声は聞こえなかった。青い光は従弟めがけて押し寄せ、黒目がちの瞳に吸いこまれていった。従弟は瞬きをした。艶やかな瞳の漆黒がいよいよ深くなったようだった。

なんだこれは。

がたがたと震えが来た。俺はお化けとか妖とかそういった類のものは信じねえ。孔子様だって男は怪力乱神を語るなとか言ってるじゃねえか。じゃあ今見たものは何なんだ。従弟の目に入っていったあれは、

「一族の命と引き換えに、君は万人を魅了する魔性を得る。呪いのようなものだ」

黒衣の童子の声が響いた。

「その力で、君は皇帝になるんだよ」

どこかで雷鳴がとどろいた。そちらに気を取られたほんの一瞬の間に、童子の姿はかき消えていた。


信じられねえよなあ。俺だって信じられねえ。というか信じてねえ。あの時の俺はきっと錯乱してたんだ。酷い戦場だったし、たちの悪い白昼夢を見たに違いねえ。今の今まで忘れていたよ。あの戦自体、夢だったのかと思うことすらある。

でもあの時の従弟の顔。この世の終わりのような、全てを諦めたような、あんな顔は今まで一度も見たことがなかったんだ。

何で思い出しちまったんだろうなあ。

あれは呪いなんだろうか。皇帝になれば、従弟は解放されるんだろうか。

みんな不思議に思わねえのかなあ。玄ちゃんの親兄弟が一人もいないこと。地縁からも血縁からもすっかり切り離されちまっていること。まるで意図的に奪われたみたいだと、何かの代償のようだと、……


「眠ってしまったようじゃな」

老人――左慈は卓に突っ伏した簡雍の頬を軽くつついた。反応がない。

「お前さんが見たのはおそらくけい。六博の賽子じゃ。奴の六博は人間の一生。人が関わってよいものではない」

左慈は簡雍の頭に手を置いた。簡雍は見てはならないものを見た。従弟に近づきすぎた。

「その記憶は消しておくのが身のためじゃ。瓊は現世の目を持たぬ。お前さんが見たこと、気づいておらぬ内はよいが、もし気づけば……」

ふっと氷のような風が左慈の白髭を揺らした。

まさにその時、酒場の戸が開いて一人の童子が入ってきた。黒衣に黒頭巾。その目は虚無で何も映していなかった。どう見てもただの童子なのに、彼が入ってきた途端、死そのものの気配が室内に立ち込めた。

童子は見えぬ目で酔客たちをぐるりと見渡し、何かを探すように眉間に皺を寄せた。黒い視線が濃い霧のように充満する。しかし目的のものは見つからなかったのか、やがて諦めたように出て行った。

「危ないところじゃったな」

ただ酒の礼じゃ、と呟いて、左慈は飄々と酒場を後にした。


          (了)


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