感動してはいけない。
どれだけの人が共感してくれるかは分からないが、私は感動して泣くという行為を経験したことが無い。一時期は己が人の心が欠如している欠陥品ではないのかと疑った。だが悔し涙を流したことも、自らの不甲斐なさゆえ人様に迷惑をかけてしまい、その状況に耐えきれず人知れず泣いたこともある。大丈夫、私は理不尽を嫌うどこにでもいるような至極真っ当な人間だ。
ではなぜ私は感動しても泣かないし泣けないのか。まず涙というものには2種類ある。一つは砂塵や乾燥から眼球を守るために常に分泌され続けているモノ、もう一つは精神の昂りを鎮めたり、精神的なショックやダメージに耐え切れないと判断した時に分泌されるモノ。感動した時に出る涙は明らかに後者である。つまり"泣く人々"は感動するモノを見てその感情の昂りに耐えきれずに泣くのだ。決して感動する=泣くではない。人は"感動に耐えきれなくなった"とき、一種の防御反応として初めて涙を流すのだ。泣くと非常にスッキリする。ぐちゃぐちゃにこんがらがっていた気持ちがスッと引いて、急に悩んでいたことがどうでもよくなる。一種の思考放棄ともいえよう。
さぁ結論が出た。感動して泣いている人は「思考放棄」をしているのだ。泣く人というのは映画や小説、音楽やアニメでもいい、とにかくこれらの作者が我々に投げかけてきているメッセージに対して真正面から向き合っていないのだ。社会に潜在するどうしようも無い不合理や悲劇、本来エゴイスティックなはずの人間が時折り見せる自己犠牲の美しさ。作者たちが我々に投げかけてきたこれらのメッセージに対して、己の中で咀嚼し、反芻を繰り返して真摯に作者と作品を通した対話へ臨むのが作品を消費する者の責務である、が、泣く人というのはその感動の大きさに飲まれ、そのメッセージの深さに戦慄し、真っ向からそのメッセージに向き合うことを躊躇する。そしてついには圧力に耐えきれなくなり、涙を流す。作者の想いを真摯に受け止めることを拒絶して、自分だけスッキリしようとするのだ。作者はただ悪戯に鑑賞者を感動させたいから作品を提供するのでは無く、作品に託したメッセージに触れ、観測者自身にも深く考えて欲しいのだ。ドラッグのように"感動"の部分だけ切り取って、自分がスッキリして気持ち良くなるためだけに消費されることは望んでいない。優れた映画を観た後の感想は「感動してスッキリ」ではない、優れた映画を観た後は作者のメッセージに向き合った結果、精神的な体力をすり減らし、茫然自失となるものだ。感動して泣くというのは作者のメッセージを「他人事」として扱い、深く考えることを放棄しているのだ。
感動して泣く人は必ずしも情の深い、立派な人間では無い。味方を変えれば作者の想いに真摯に向き合わない冷たい人間でもあると言える。
Ps:割と暴論なのは理解していますが、全面的に同意せずとも「場合によっては感動して泣くことが必ずしも正しいわけじゃ無いよねー」っていう程度の理解してくれたら嬉しいです。




